中共中央七号文件
中共中央七号文件とは、ウイグル人やその文化を抹殺するため、1996年に中国共産党が定めた方針です。
事の成り行きはこうです。
1991年の8月に旧ソ連が崩壊しました。
それを目の当たりにしたチャイナは危機を覚えます。
その中で最も彼らが恐れたのは、東トルキスタンとチベットの独立でした。
これら2つの国が独立してしまうと、チャイナは間違いなく弱体化するからです。
そこで、1996年中国共産党中央政治局常務委員会(中国共産党の最高意思決定機関。事実上国家の最高指導部)が、ウイグルに対してどういう措置をとるかという会議を開きます。
ここで中共中央七号文件がまとめられました。
当時中国共産党にとって有利な部分と不利な部分というものがありました。
◯豊富な地下資源地上資源があった
◯周辺環境が地政学的に有利であった
◯数年後には、東トルキスタンは中国の有力な成長戦略になると見ていた
一方不利な部分は
◯抵抗運動の激化
民族分裂主義や非合法宗教活動
これは新疆ウイグル自治区の安定に影響を与える主な危険因子であると決めつけていました。
チャイナは、まだこの時、ウイグル人は旧ソ連に対抗する同盟軍であり、チャイナの味方だと見ていたそうです。
つまりウイグル人はまだ敵ではなくて、中国共産党が利用できるひとつの同盟軍のように見ていたのです。
なので、ウイグル民族全体に対して中国共産党はジェノサイドに踏み切れませんでした。
しかし、この七号文件の一番大きな特徴というのは、東トルキスタンは民族分離と非合法宗教活動をする危険な存在だと決めたことが大きいようです。
ウイグル人はもはや旧ソ連時代の中国共産党の同盟軍ではなく、これからは中国共産党の敵になるという考えに変わります。
ここが、いわゆる民族政策の大きなターニングポイントだったようです。
抵抗運動の激化
中共は、アメリカはじめ国際反動勢力はこの民族主義活動を公然と指示してるという認識でした。
これはウイグル人が単独で行ったものでありアメリカとかそういった西洋諸国などは一切手を加えてはいませんでしたが、中共はこれが西洋列強の後ろ盾のをもとに活動が行われていると勝手に判断をしたわけです。
90年代に入ってからウイグル人の独立運動が激しさを増します。
1990年4月5日に東トルキスタンのアクト県バレン郷で大規模な農民蜂起が起こりました。
これを人民解放軍が制圧をするのですが、この運動で生き残りあちこちに残っていたウイグル人たちがゲリラ活動を行うようになりました。
これが中国にとって非常に危機感を持つきっかけとなりました。
