【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①

久米崎王子跡

この王子社は跡地で建物はなく、説明板が立っているだけですので写真はありません。
場所は、国道42号線に出て少し脇に入ったところにあります。

説明板より

この王子社の名は、藤原定家の日記の建仁元年(1201年)十月十日の記事に見えますが、この頃の参詣道は王子社から南西よりに離れていたのではないかと思われているため、定家は路頭の木に向かって遥拝しただけです。

その後、承元四年(1210)四月二十五日に藤原頼資は、この王子に参拝しています。

承久三年(1221)に承久の乱が起こって以降、上皇や女院の熊野御幸はほとんど行われなくなり、王子社の多くは荒廃しました。
久米崎王子も例外ではなく、十五年後の嘉禎ニ年(1236)には、跡形も無くなっており、鎌倉幕府は、この地の豪族である湯浅氏に、社殿の修復を命じています。

しかし、その後も荒廃したらしく、江戸時代初頭、紀州藩主徳川頼宣は小社を再建しています。その後、久米崎王子社として祀られていましたが、明治四十年に顕国神社に合祀され、跡地だけとなりました。

度々再建されましたが、最終的には明治の神社合祀の「餌食」となった王子ですね。
先人たちは、こういった遺産を後世に残すことを非常に重んじていたことがうかがえます。
しかし、「西洋に追いつき、追い越せ」の明治維新によって、そういった大切な歴史的建造物の多くが姿を消してしまったことは非常に残念です。

当時は欧米列強に飲み込まれないように西欧化することが当時の情勢からみて仕方のないことだったかもしれませんが、ちょっとやり過ぎたのではないでしょうか?

津兼(井関)王子跡

この王子社も跡地で建物がありませんので写真はありません。

説明板より

藤原定家は建仁元年(1201)十月十日、湯浅を雨の中にたち、久米崎王子を遥拝し、ついで参拝した井関王子でようやく雨が止んだと日記に書いています。

藤原頼資の日記では、承元四年(1210) 四月二十六日、久米崎王子についで白原王子に参拝しています。
井関王子と白原王子同じ王子社とも考えられます。

これより約百年前の天仁ニ年(1109)、藤原宗忠は「弘王子社」についで、白原王子社に参拝していますが、この王子は近年出現したものだと記しています。

江戸時代の「紀伊続風土記」には、井関王子社は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子というと記しています。

また、近世初頭に熊野街道が西側に移ったことにより、旧井関橋を渡ってすぐの台地上に新しく津兼王子社が作られました。
その新しい津兼王子神社は、明治四十一年に津木八幡神社に合祀され、現在は跡形もありません。
この中世の王子社の跡地も近年の湯浅御坊道路広川インターの建設によって消滅しました。

明治時代の神社合祀運動が盛んな時代ならいざ知らず、現在でも王子社の建物が残っていたなら、広川インターチェンジの場所も、王子社を避けて通るように設計されていたのではないでしょうか?
合祀され、跡地になっていたから跡形もなく消されたのだと思います。
そう思うと、明治時代というのは熊野にとっては壊滅的なダメージを与えてしまったと言わざるを得ません。

しかし、井関王子と白原王子の関係って、どうなんでしょうね?

謎なところは、藤原宗忠が来た時(1190年)では「白原王子」となっていたところを、1201年に定家が来た時には「井関王子」となり、その後1210年に藤原頼資が来た時には再び「白原王子」となっている点です。

通常、王子は2~4kmごとに建てられていたので、そう頻繁に王子が登場するとは考えられないので「同じ」と考えられるということでしょうが、それにしても「白原」から「井関」になり、再び「白原」に戻る理由の説明がほしいところです。

宗忠が書いているように、王子は初めから「九十九ほど」あったわけではなく、時代によってその数が増えたり減ったりしています。
本宮エリアでは水呑王子が「新王子」と同じ日記に書かれていますので、上皇・法皇の熊野御幸が盛んになってから、王子の数も増えていったのでしょう。

王子の数が増えた理由についてはよく分かりませんが、おそらく、上皇・法皇、貴族にすこしでも地元でとどまってほしいという住民の願いが込められていたのかもしれません。
あるいは、とどまることによって莫大なお金を地元に落としていったとか・・・
「地元の住民は、上皇・法皇がいらっしゃった時は食事などを用意しなければならなかったので苦痛だった」という話を聞いたことがありますが、なにか地元にとってもプラスになる理由がなければ、新しい王子を作ろうという心理が働かないはずです。

ただ、国民の皇族の方々に対する気持ちというのは、奉仕の気持ちが根底にありました。
以前は皇居の門番を国ごとで持ち回りで自主的にやっていた時代もあり、それは給料や手当が出るわけでもありませんが、それを「名誉なこと」としていました。
なので「うちのおじいちゃんは、皇居の門番をやった」と自慢ができるほどだったいいます。

こういったことを考えると、もしかすると、上皇・法皇、貴族を呼び寄せるために、井関王子と白原王子のどちらかがにわかにつくられ、一行はそのいずれかに参ったのではないか?とも考えられます。
宗忠の日記から見れば、「弘王子社」がもともとあり、「白原王子」が新しく建てられたものだということが分かります。
このことから考えると、「弘王子社」と「井関王子社」が同じであり、「白原王子」が後からつくられたと考えるほうが自然のような気もします。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②に続きます。


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