広川研修② 稲むらの火講座

前回の記事をまだお読みでない方はこちらから
広川研修①

午後からは、和歌山県立文書館の砂川佳子さんの講演を聞きました。

和歌山県立文書館って、あまり馴染みがありませんでしたが、古文書や公文書、行政刊行物の収集・保存・活用により、和歌山県の学術・文化の発展に寄与することを目的として平成5年7月に開館した施設です。

和歌山県立文書館

今回は、濱口梧陵さんに関する古文書「夏の夜かたり」から、梧陵さんがどういった人物だったのかを読み解く、という内容でした。

稲むらの火

稲むらの火のおさらいです。

濱口梧陵さんといえば、稲むらの火というイメージを持たれる方が多いと思います。

安政の大地震は2回起こっています。

1回目は1854年12月23日午前9時頃、2回目はその約32時間後の12月24日午後5時頃です。

津波は2回目の時に起こっています。
この時、梧陵さんも津波に飲まれています。

難を逃れ、広八幡神社にたどり着いた梧陵さんは、次に来る津波に備えます。

逃げ遅れた住民や津波で沖に流されてしまっていた住民を、避難場所である広八幡神社に誘導するために、道しるべとして稲むらに火を放ちます。

稲むらとは、収穫後の藁を積み上げたもので、草履などを作るためのいわゆる「藁の倉庫」のようなものです。
他には畑のマルチとしても使われています。マルチとは、土の温度を過剰に上昇させないように敷くシートのことで、現在はビニール製のものが用いられていますが、現代でも利用しているところがあるそうです。
ビニール製は時期が終われば後片付けをしなくてはいけませんが、藁はそのまま畑にすき込んでしまえば堆肥になります。

稲むら

いまでも、熊野古道沿いでは近露で見ることができます。

濱口梧陵の功績とは?

しかし、夏の夜かたりでは「『ツナミ』に『ススキ』へ火ヲ付ケシ如キハ決シテ大恩ト云フニアラズ」と書いています。

つまり、稲むらに火を付けたことは大きな恩ではないというのです。

記述には続きがあります。

「広村永遠ノ救済ヲ講ゼラレシコトコソ大恩有之所謂ナリ」

とあり、「広村永遠の救済策を講じられたことこそが大恩のいわれである」と述べています。

梧陵さんは、津波に遭って逃げる術を失った住民に対して、機転を利かせて稲むらに火を放ったことはもちろん称賛に値することなのですが、それ以上に、広村を「永遠に」救済する活動をされたことの方が遥かに功績が大きいということを述べているのです。

震災後の取り組みとして

稲むらの火 

広橋の再建 

広村堤防工事 

地租の軽減 

瓦礫の処理

などがあり、生活に困った住民を救済するために尽力されています。
濱口梧陵さんの伝記については、濱口梧陵伝などがありますが、瓦礫処理について書かれているのは夏の夜かたりだけだそうです。

梧陵さんは震災前からずっと広村の発展に尽力をされてきたという点も見逃せません。

広橋の架け替え 

漁業振興 

村役人の給料や祭礼にかかる費用の節約 

稽古場(後の耐久社)の創設

震災後広村を離れたあとは寺朋輩(てらほうばい・同じ寺子屋で学んだ仲間)の伝八や村の有力者が、異国船来襲に備えて農夫・漁夫へ鉄砲の訓練をしたり、熊野古道参詣者の利便性向上のために新しい道をつくったり、汽船と銀行を誘致したりと、さまざまな事業に取り組みました。

梧陵さんの残した功績は、計り知れない大きさがあり、現代そして未来永劫、語り継がれていくことでしょう。

濱口梧陵と徐福

今回のこういった話を聞いて、思わず梧陵「さん」と言いたくなるような人物像が私には見えて来ました。

新宮の方が「徐福さん」と呼んでいるような感覚でしょうか。

しかし、徐福はあくまでも伝説の域を出ない上に、始皇帝を騙して大金を巻き上げ、自分本位の勝手な考えで秦から逃げて来たのに比べ、濱口梧陵さんはきちんと史実として、しかも公のために身を粉にして尽力された記録が残されている点から言えば、私は「徐福」と呼び捨てにはできますが、梧陵さんの場合はそうはいきません。

新宮の人に怒られるな(笑)

徐福についての考証は、こちらをご参考にされてください。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く①

広川研修① 広川散策

有名人なのでご存知の方も多いと思いますが、今回は濱口梧陵さんについてお話をいたします。
が、その前に、本日の日記を。

午前は、濱口梧陵さんが築いた広川堤防と耐久社を語り部さんにご案内していただき、午後からは和歌山県立文書館の砂川佳子さんの公演を聞いてきました。

午後の講演の内容は午前中に語り部さんから聞いた内容と被るところが多く、お陰様でより理解度が深まりました。

広川堤防

安政の大地震(1854年)の津波で大きな被害を被った広村(現在の広川町)。
再び来るかもしれない大災害に備えるため、そして、津波による塩害などで生活が出来なくなった村人が村から離れて暮らさなくてもいいように、村人を雇って賃金を払いながら私財を投げ売って築いた堤防ということはよく知られた話です。

この堤防、台形をしていて高さが約5m。

「え?低くない?」

と思われるでしょうが、この「台形」というのがミソなのだそうです。

近年建設されている堤防は、上部が海に向かって反っている波返しがあったり、直方体のものが多いのですが、波返しは、跳ね返した波が堤防の根本の海底をえぐり、堤防の基礎を弱くしてしまうそうです。

また、波返しがあったりや直方体の堤防だと、海側にいる時に津波が発生すればもう逃げられません。
しかし、台形の堤防だとどこからでも逃げることができます。

台形の堤防は波が簡単に越えて来そうな印象がありますが、重要なのは完璧に波を防ぐことではなく、津波の力を削ぐことであり、波が堤防を越えて来ても被害が格段に減るという考えが重要だのことです。

また、無機質な現在の堤防は景観も損ねます。

たとえ災害を防ぐものだとしても、百年に一度来るかどうかのもののために、毎日無機質なものが目に入るというのは、人の精神にも少なからず影響はあると思います。

この広川堤防、堤防の海側には松を植え、住宅側には桜とハゼを植えています。

景観にしっかりと溶け込み、この日も堤防の上を散歩している人を見かけましたし、春には花見もできるということです。

ハゼを植えた理由は、当時ハゼの実は和蝋燭の原料として使われていたので、それを売った資金で堤防のメンテナンスをしていたのからだそうです。

まさにSDGs。

そして、津波によって出た大量の瓦礫は、この堤防に中に埋め込んでいるそうです。

東日本大震災でも、瓦礫の処分に困っていましたが、ここではそれを堤防に埋めることによって処分をしたのだそうです。

また、税金の高い土地に堤防を築けば、お米を作れないのでそこが免税になるため、住民が納める税金が軽減されたそうです。
災害で生活に苦しむ住民のために、こういった機転を利かせる梧陵さん、すばらしい。

耐久社

梧陵さんが始めた耐久社の中まで見学することができたのは本当に良かったです。
耐久社は耐久中学校の敷地内にあるため、普段は入ることができないからです。

ここで漢学や武道を教えていたそうです。
この耐久社、松下村塾よりも創建が古いそうです。

耐久社

昭和天皇エピソード② Episode of Emperor Showa②

There is an English version in the second half.

前回に引き続き、今回も小名木善行さんによる、昭和天皇のお話です。
前回の記事はこちらをご覧ください。
昭和天皇エピソード① Episode of Emperor Showa①

この昭和天皇の全国行幸の少し前の1945年9月27日、昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーのもとを訪れました。

当時のGHQは、天皇に対して3つの方針があったそうです。

1つ目は、東京裁判に引きずり出して絞首刑にする。

2つ目は、日本共産党をおだて上げて、人民裁判のもとに血祭りにあげる。

3つ目は、チャイナに亡命させて秘密裏に殺害する。

いずれにしても、GHQは陛下を「なきもの」とすることが決まっていました。

そのGHQの元締めであるマッカーサーのもとに、昭和天皇がただ一人の通訳を連れて訪れたのです。

マッカーサーは当然、陛下は命乞いに来るのだと思っていました。

そう思っていたので、マッカーサーはマドロスパイプをくわえてソファーから立ち上がろうともしないで陛下を迎えたのだそうです。

マドロスパイプはコーンパイプとも言われていて、アメリカの主産物がトウモロコシだったので、このパイプがアメリカを象徴するものだったのです。

これをくわえることによって、「俺たちはお前たちに勝ったんだ」ということを示したのです。

そのマッカーサーの前に、陛下は直立不動の姿勢で立ち、国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとした上で、次のように仰せになったそうです。

日本国天皇は、このわたくしであります。

戦争に関する一切の責任は、このわたくしにあります。

わたくしの命において、すべてが行われました限り、日本においてはただの一人の戦犯もおりません。

絞首刑はもちろんのこと、いかなるいかなる極刑に処されてもいつでも応ずるだけの覚悟はあります。

これについて、事前に何の打ち合わあせもなかったので、通訳の人はその通りに訳していいのかどうか困ったそうです。

しかし陛下はそのままお続けになります。

しかしながら、罪なき8000万人の国民は住むに家もなく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、深憂に耐えんものがあります。

そこで温かき閣下のご配慮をもちまして、国民たちの衣食住の点のみに、ご高配を賜りますように。

このように申されました。

これを聞いたマッカーサーは驚いたそうです。

世界中、どこのどんな国であっても、国の元首は戦争に負けると、自分が助かりたいがために平気で国民を犠牲にして命乞いをします。

さらにはその国から逃亡してしまいます。

これが世界の常識なのです。

にもかかわらず、昭和天皇は一切の責任は自分にあるのだと、絞首刑であろうといかなる極刑も受けると淡々と仰せになる、罪の一切は自分にあるのだから自分を処刑してくれ、その代わりにみんなを助けてくれとおっしゃったからです。

マッカーサーは、くわえていたマドロスパイプを机の上に置いたそうです。

そして椅子から立ち上がり、自ら陛下に近づき、陛下を抱くようにして座っていただき、陛下は興奮しておられるようだからコーヒーを差し上げるようにと命じ、今度はまるで一臣下のようにかけていただいた陛下の前に立ち、今度はマッカーサーが直立不動の姿勢を取り

天皇とはこのようなものでありましたか。

天皇とはこのようなものでありましたか。

と、2度この言葉を繰り返したそうです。

そして、マッカーサーも

わたくしも日本人に生まれたかった。
陛下、ご不自由でございましょう。
わたくしにできるものがあれば何なりとお申しください。

と言ったそうです。

陛下も立ち上がられ、そして涙をポロポロと流しながら、

命をかけて、マッカーサー閣下のお袖にすがっております。
このわたくしに何の望みがありましょうか。
重ねて、国民の衣食住の点のみ、ご高配を賜りますように。

と仰せになりました。

この後マッカーサーは、陛下を玄関まで伴って、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしたそうです。

そして、慌てて階段を駆け上がると、それまでのGHQの方針を180度変更する新たな命令を下しました。

これが、歴史に残された事実です。

このお話は有名なのでご存知の方も多いと思いますが、改めて聞く、胸に迫るものがあります。

天皇とはこのようなものでありましたか。

というマッカーサーの言葉がすべてを物語っているように思います。

天皇は国民を「大御宝(おおみたから)」とし、クニトコタチの建国以来、ずっとこの精神は変わっていません。

私はそんな国に生まれて本当に良かったと思います。

今回の詳しいお話はこちら
ねずさんの学ぼう日本 マッカーサーを心服させた昭和天皇

Continuing from the previous article, this time Zenko Onagi will be talking about an episode of Emperor Showa.
Please click here for the previous article.
Episode of Emperor Showa (1)

On September 27, 1945, shortly before the Emperor Showa’s trip to Japan, he visited MacArthur with only one interpreter.

At that time, GHQ had three policies toward the Emperor.

The first was to drag him to the Tokyo Trials and hang him.
The second was to flatter the Japanese Communist Party and have him bled to death under the People’s Tribunal.
Third, they would exile him to China and murder him in secret.

In any case, GHQ was determined to make The Εmperor “nothing”.

The Emperor Showa visited MacArthur, the head of GHQ, with his only interpreter.

MacArthur naturally assumed that The Εmperor would come to beg for his life.

He thought so, so MacArthur greeted The Emperor without even getting up from the couch with a madros pipe in his mouth.

The madros pipe is also known as a corn pipe, and since corn was the main product of the United States, this pipe was a symbol of the United States.

By holding it in his mouth, he showed that “we have defeated you”.

In front of MacArthur, The Emperor stood erect and unmoving in a posture of international courtesy, and after a firm greeting, he said,

I am the Emperor of Japan. I am responsible for all matters related to the war. As long as everything has been done under my command, there is not a single war criminal in Japan. I am prepared to submit myself to any and all forms of capital punishment, including, of course, hanging.

Since there was no prior agreement on this, the interpreter was at a loss as to whether or not he should translate it as it was said.

However, The Emperor continues.

However, the 80 million innocent people of Japan have no homes to live in, no clothes to wear, and no food to eat, and their situation is deeply worrisome. Therefore, I ask that Your Excellency, the Most Wondrous Majesty, please take care of the food, clothing, and shelter of the people of this country.

When MacArthur heard this, he was astonished.

Whenever a country loses a war, heads of state in any part of the world will sacrifice their own people and beg for their lives in order to save their own lives.

Furthermore, they flee the country.

This is the common sense of the world.

Despite this, the Showa Emperor said without hesitation that he would accept any extreme punishment, even hanging, because he was responsible for all the crimes, so he asked to be executed and in return save everyone.

MacArthur put the madrone pipe he was holding in his mouth on the desk.

Then he got up from his chair, approached The Emperor himself, and asked him to sit down in his embrace, and ordered to offer The Emperor a cup of coffee because he seemed excited, and this time he stood in front of Ηis Majesty, who was sitting on him as if he were a subject, and this time MacArthur stood erect and immobile, and said

Such a man was The Emperor!”
Such a man was The Emperor!”

He repeated these words twice.

And MacArthur said

I wish I had been born a Japanese.
I know you are inconvenienced, Majesty.
If there is anything I can do, please let me know.

The Emperor stood up, tears streaming down his face.

I am clinging to the sleeve of His Excellency MacArthur with my life.
What hope do I have?
I ask only for the food, clothing, and shelter of the people.

After this, MacArthur accompanied Majesty to the entrance and opened the car door with his own hands to see him off.

Then, rushing up the stairs, he issued a new order that changed the policy of GHQ 180 degrees.

This is a fact left behind in history.

I am sure many of you know this story because it is famous, but hearing it again, it is very moving.

Such a man was The Emperor!

I think MacArthur’s words say it all.

The Emperor considers the people as “Omitakara,” and this spirit has not changed since the founding of the nation of Kunitokotachi.

I am very happy to be born in such a country.


昭和天皇エピソード① Episode of Emperor Showa①

There is an English version in the second half.

今回は、昭和天皇の有名な?エピソードを2回に渡ってご紹介いたします。
このお話は、小名木善行さんのお話ですが、今日のお話の出典は佐賀県にある因通寺(いんつうじ)の住職さんが書かれた「天王様が泣いてござった」という本だそうです。

この本には、通州事件でのSさんの体験談と、昭和天皇の佐賀の行幸について書かれているそうです。
この本、ちょっと今は入手が難しいようです。

通州事件について詳しい本はこちら
覚悟して読んでください。
文庫 通州事件の真実:昭和十二年夏の邦人虐殺

因通寺では、戦争で親を亡くした孤児を預かっていました。
昭和天皇は、その子供たちの部屋を回って行かれ、一人ひとりの子供に声をかけられました。

昭和天皇:どこから?
子供:満洲から帰りました。
子供:北朝鮮から帰りました。
昭和天皇:あぁ、そう。
と、にこやかにお答えになる。
昭和天皇:おいくつ?
子供:7つです。
子供:5つです。

陛下はこのようにして、我が子に言葉をかけるように一人ひとりに顔を近づけ、
「立派にね。元気にね」
とおっしゃいました。

そうして陛下は一部屋ずつ、満面の笑みを浮かべながらお優しい言葉をかけておられたましたが、その表情が、ある部屋で一変します。

随行していた方々は、陛下に何が起こったのは分からず、お互いに顔を見合わせながら重苦しい時間が流れたそうです。

しばらくして、陛下が3人の女の子の中の真ん中の子に「お父さん?お母さん?」とおっしゃっいました。

その女の子の胸には、2つの位牌が抱きしめられていました。

陛下はその2つの位牌を見て「お父さんなの?お母さんなの?」とお尋ねになったのです。

するとその女の子は「はい、これは私の父と母の位牌です」と答えました。

これを聞かれた陛下は、はっきりと、大きく頷かれ、「どこで?」とお尋ねになりました。

「はい、父は満洲の国境で名誉の戦死をしました」
「母は引き上げ途中で病で亡くなりました」

すると陛下は「お一人で?」とお尋ねになる。
父母と別れ、満洲から一人で帰ってきたの?とお尋ねになりました。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら、船のおじさんたちが親切にしてくださいました。そして佐世保の引揚擁護局には、ここの先生が迎えに来てくださいました」

陛下はこの子が話している間、じっとこの子をご覧になりながら何度も大きく頷かれました。

そしてこの子の話が終わると陛下は「お寂しい?」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけられました。

「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんともお母さんとも、お浄土に行ったらきっとまた会うことができるんです。お父さんに会いたいと思う時、お母さんに会いたいと思う時、私は、仏様の前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。すると、お父さんもお母さんも私のそばにやって来て私を抱いてくれます。だから、私は寂しいことはありません。私は仏の子供です」

陛下はこの間、ずっとこの子をご覧になり、子供はずっと陛下を見上げていました。

この二人の間に何か特別な時間が流れます。

そして陛下がこの子のいる部屋に足を踏み入れられ、右の御手に持たれていた帽子を左手に持ち替えられ、右手でその子の頭をそっと撫でられました。
そして陛下は「仏の子は、お幸せね。これからも、立派に育っておくれよ」と申されました。

その時、陛下の目からはハタハタと数滴の涙が畳に落ちたそうです。

この時にこの女の子が小さな声で「お父さん」と呼んだのです。

これをお聞きになった陛下は、大きく頷かれました。

この様子を見ていた周囲の人たちは皆、泣いたそうです。

東京から随行していた新聞記者も、肩を震わせて泣いていました。

陛下のこうした行幸を境に、戦後日本は見事な復活を遂げ、戦後たったの19年で東京でオリンピックを開催するまでになりました。

さらに詳しい内容については、ぜひこちらをお読みになってください。
ねずさんの学ぼう日本 昭和天皇行幸

In this issue, I would like to introduce you to a famous episode of Emperor Showa.
This story is written by Yoshiyuki Onagi.
The source of today’s story is a book titled “Tenno-sama wa naite gozatta” written by the chief priest of Intsuji Temple in Saga Prefecture.

In this book, he writes about Mr. S’s experience in the Tsushu Incident and the Emperor Showa’s visit to Saga.
This book seems to be a little difficult to obtain now.

The Intsuji Temple took care of orphans who had lost their parents in the war.
Emperor Showa went around to the rooms of these children and spoke to each one.

Emperor Showa: Where are you from?
Child: I came back from Manchuria.
Child: I came back from North Korea.
Emperor Showa: Oh, yes.
And he answered with a beaming smile.
Emperor Showa: How old are you?
Child: Seven.
Child: Five.

In this way, he approached each of them as if he were speaking to his own child.
“You’re going to be great. Be well.”

He then spoke kind words to each room with a big smile on his face, but his expression changed completely in one room.

The people who were accompanying him did not know what had happened to him, and a heavy moment passed as they looked at each other.

The Emperor then spoke kind words to each of them one by one with a big smile on his face, but his expression changed completely in one room.

The people who were accompanying him did not know what had happened to him, and a heavy moment passed as they looked at each other.

After a while, he asked the middle of the three girls, “Father? Mother?”

The girl had two mortuary tablets clutched to her chest.

He looked at the two tablets and asked, “Are you the father or the mother?”

The girl replied, “Yes, these are the tablets of my father and mother.”

When he heard this, he nodded clearly and broadly and asked, “Where?”

“Yes, my father was honorably killed in action on the border of Manchuria.
My mother died of illness on the way back.”

Then he asked, “Alone?”
“Did you leave your parents and return alone from Manchuria?”

“No, I was with my Japanese aunts and uncles from Mukden to Koro Island. When I got on the boat, the men on the boat were very kind to me. And at the Repatriation Advocate Office in Sasebo, a teacher from here came to pick us up.”

While the child was speaking, he looked at the child and nodded his head repeatedly.

When the child’s story ended, he asked, “Are you lonely?” He nodded his head many times while looking at the child.

No, I am not lonely. I am a child of the Buddha. As a child of the Buddha, you will be able to see your deceased father and mother again when you go to the Pure Land. Whenever I want to see my father or mother, I sit in front of the Buddha. Then I gently call out my father’s name. I gently call out my mother’s name. Then both my father and mother come to my side and embrace me. So I am not lonely. I am a child of the Buddha.

All this time, he was looking at the child, and the child was looking up at him.

There is something special that passes between the two of them.

Then he stepped into the room where the child was, switched the hat in his right hand to his left, and gently stroked the child’s head with his right hand.
He then said, “The child of Buddha is happy. I hope he will continue to grow up to be a fine child.”

At that moment, a few tears fell from his eyes onto the tatami mat.

At that time, this girl called out “father” in a small voice.

When he heard this, he nodded his head broadly.

All the people around her cried as they watched this.

A newspaper reporter who had accompanied him from Tokyo also cried, his shoulders shaking.

His visit marked the beginning of Japan’s remarkable postwar revival, and only 19 years after the war, the Olympics were held in Tokyo.


五族協和を実現した理想郷の満州国

1週間にわたり、様々な分野の方のお話をご紹介していきます。

今日は小名木善行さんのお話から。

満州というと、「州」という字を書きますが、実は本来は「洲」が正しい表記です。
満洲というところは作物が取れないところでした。
水がなかったからです。
ところが、満洲は土が非常に肥えていました。
ということは、水を引きさえすれば、作物が採れるようになることを意味します。

そこで、昔からこの地で細々と栽培されていた大豆を栽培しようということになりました。

この「発起人」が当時の三井物産の上海支店でした。
さらに、収穫した大豆をシベリア鉄道に載せてヨーロッパに販路を開こうとします。
それに先駆けてヨーロッパでは大豆を使った料理の紹介を始めました。

そして水路を開き、大々的に大豆の栽培の乗り出しますが、これが当たり「満洲大豆」という名で、世界の大豆の約半分のシェアを誇るまでになりました。

この大豆を効率よく運ぶため、鉄道が網の目のように細微されました。
その線路と線路が交わるところにはターミナル駅ができ、そこでも大豆の取引が行われていたために大きなお金が動く関係から銀行ができるようになり、ひとつの大きな街ができるようになりました。

こうして満洲は目覚ましい発展を遂げます。

ビルの中には当時では珍しいエレベーターができ、エレベーターガールまでいたそうです。

大豆畑を開墾するにあたっては、本来であれば耕運機で耕すのですが、当時の盛況ぶりを聞きつけた朝鮮半島やモンゴルの人たちがこぞって移り住んで来たため、その人たちの「人力」を使って作業を進めたました。

その賃金は、半年くらいで彼らの一生分くらいを稼げたそうです。

鉄道も目覚ましい発展を遂げます。

「特急アジア号」は、蒸気機関車ながら時速100kmで走行し、客室は冷暖房完備、豪華なフランス料理なども出されました。
路線の計画も、ヨーロッパはもちろん、北京、上海、ベトナム、マレーシア半島を通ってシンガポールに至る構想もありました。

また、当時は自動車もけっこう普及しはじめていたので、満洲には世界初の高速道路も建設されました。
その規模は、片側8車線(!)
残念ながら、戦争で負けてから規模を縮小して建設が再開されましたが、日本の経済協力金によって完成されました。
弾丸特急については、その技術が新幹線に応用されて現在に至っています。

そんな満洲ですが、「どこの国」ともつかない状態でいるのはいいことはないだろうということで、「五族協和」を掲げて国をつくろうとします。
満洲はもともと、女真族(清)の土地であり、チャイナの辛亥革命以降自分たちの国を持てていなかった清の元皇帝・愛新覚羅家の溥儀を擁立して満洲を治めてもらおうということになりました。

残念ながら、日本が戦争に負けてから満洲国はなくなってしまいましたが、非常に短期間に高度成長を遂げたという事実は残っています。

大切なのは、日本人も朝鮮人もモンゴル人もロシア人も漢民族も、すべて協和をし平和に暮らすという目的を掲げていたということです。

歴史を学ぶときに重要なことは、当時の先人たちがどのように考えてどう行動したのか、そこから私達はこれからどういう日本をつくっていかなければならないのかということであり、ただ単に「日本が満洲を侵略した」ということを学んでも、そこから何を学ぶことができるのかということです。

どんな時代にもいいところと悪いところがあります。

たとえば、今般のコロナショックで自粛を強いられたおかげで助かった人もいます。
バブルの絶頂期でも倒産した会社があったわけで、結局は「どこを見るか」なのです。

満洲についても同じで、「なぜ五族協和が実現したのか」ということが、この歴史の中で一番学ぶべきことではないでしょうか。

小名木善行さんのお話がつまった、こちらの本もオススメです。

庶民の日本史 ねずさんが描く「よろこびあふれる楽しい国」の人々の物語

國破れてマッカーサー②

前回の記事はこちら
國破れてマッカーサー①

「マッカーサー直筆」憲法

1945年10月11日、マッカーサーは幣原首相に明治憲法の改正を命じます。
同じ日、近衛文麿は天皇から憲法草案に着するように正式に命じられます。

同じ日に憲法改正の公式委員会が2つ出来上がりました。

幣原首相は、松本烝治(じょうじ)を委員長に任命します。

同じ日に同じ委員会ができたため、2つの委員会の長は犬猿の仲でした。

近衛文麿がまず憲法草案をマッカーサーに提出しますが、却下。
その結果、マッカーサーは近衛を戦犯容疑者の一人に指名し、巣鴨刑務所の出頭するように命じます。
近衛は、これを「耐え難いことである」と服毒自殺。

続いて、松本草案が提出されますが、これも「即死」

「却下」の一番大きな原因は、天皇に関する内容が、マッカーサーの考えと違っていたからです。

さて、マッカーサー自身はどれだけ憲法草案に「肩入れ」をしていたのでしょうか?

以下引用です。

「私は憲法問題調査委員会の審議に全く関与しなかった。私の部下も誰も関与しなかった」とマッカーサーは「回顧録」の中で断言している。

彼の回想は、己の偉業を守るための大失態の隠蔽か。

マッカーサーが、1945年12月26日のモスクワ協定(極東委員会設立)により、「憲法問題は自分の占領業務ではない」と言ったが、これは外交辞令を述べただけだ。

(中略)

モスクワ協定に基づき、憲法改正について、自分はいかなる行動もとらないと言ったのは、嘘だった。

事実、マッカーサーと彼の部下たちは、新憲法草案に関して日本の指導者とたびたび会い、協議をしていたので、マッカーサーは松本が、自分の考えを反映するものと期待していた。

裏切られたと思ったマッカーサーは、憲法改正に手を出さないとの態度をかなぐり捨て、第一分子の民政局長ホイットニーに、自分の直筆のノートを手渡し、憲法草案を書けと命じた。

そうして、民政局は6日で憲法草案を作成します。
それを松本と外相の吉田に手渡しました。

吉田はその時のことを忘れたくても忘れられない。

「ホイットニー准将は私に、GHQが松本草案に満足していないので、このモデル草案をもってきた。この草案に基づいて、できるだけ早く、改正案を作成せよと命令した。草案はアメリカ政府ならびに極東委員会の承認を得るものであろうと言い、もし日本側が即刻改正案を提出しなければ、天皇になにが起こってもGHQがは知らないぞ、とまで言った」

ホイットニーは、「内閣が草案を差し出さねば、マッカーサー元帥はこの草案を(政府を通さずに)国民の前に提出する用意がある」と言った。

日本保守派は、天皇を救うためならば何でもすることを、GHQは毎日のように見ていた。

「マッカーサー草案」を手渡された時、ホイットニーによれば、吉田と松本は「目に見えてうろたえ、問題を閣議で議論しなければならないと言った」

「48時間以内に返答せよ」とホイットニーは吉田に命令する。内閣も大衝撃を受けた。

こうしてとうとう、「新憲法」が誕生します。

幣原首相を閣僚は、その内閣案を読んで涙に噎(むせ)んだ。

しかし、幣原はAP記者に、「日本側が天皇の新しい定義として国家の象徴を提案した」と語っている。

そう言え、とマッカーサーからの厳命だったのだろう。

天皇が「国家の象徴(シンボル)」という発想は、当時の日本人には不可能な考え方だ。「シンボル」はアメリカ人の発想だ。

このあと、マッカーサーは声明を発表します。

「私は、天皇ならびに日本政府によって作られた新しい憲法が、私の全面的承認を得て、日本国民に提示されたことに深い満足をもつ」

しかし、自責の念に駆られたのか、マッカーサーの死期が近づいてきた時に自伝にこう書いています。

「私は、アメリカ製の日本憲法を作って日本側に押し付け、それを私の命令で採択させるということはしなかった。憲法改正は日本人自身が強制されずに行なうべきものだった」

どの口が言っているんでしょうか。

第九条・軍人の白昼夢

「新憲法」の特徴として、西先生は2点挙げています。

一つは人権・市民権の保障、もう一つは9条です。

第二の特徴は、「戦争放棄」の第九条である。

「特徴」ではない。第九条は昭和憲法の礎石である。

第九条の上に「戦後日本」が作られた。

敗戦直後の虚脱状態にあった日本国民から、平和という甘い言葉を使い、「愛国心」と「誇り」を誘い出し、マッカーサーは素手で扼殺(やくさつ)した。

その死体が第九条だ。

マッカーサーは後に言い訳をしています。

マッカーサーは自分にその責任がないと断言し、釈明をする。

最初の釈明。
マッカーサーがトルーマン大統領に解任された三週間後、1951(昭和26)年5月5日、アメリカ会議の公聴会で、第九条は「幣原首相が新憲法の中に書き入れた」と断言した。

第二回目は、彼の「回顧録」の中で少々込み入った言い訳をする。
「(幣原首相は)1945年1月24日正午、私の司令室に来て、ペニシリンについて礼を言った。私は彼がどこか当惑げで躊躇しているのに気付いたので、言いたいことがあるなら率直に話すように勧めた。すると、彼は新憲法が最終決定する時には、いわゆる戦争放棄条項を含めるよう要求した。彼はまた、いかなる軍事機構も禁止するように提案した」

理由は明白です。

マッカーサーが自衛放棄第九条と自分との関わりを否定しようとしたのは、己の名声にとって都合の悪い現実が次々と出てきたからだった。

冷戦が激化し、中国が共産主義の下に大革命を成功させ、ソ連が原爆実験に成功し、朝鮮半島がいまにも戦争になりそうになり、あたかもアジア全土が共産主義の下に屈服されられるのではないかという情勢が目の前に展開したので、吉田首相に命じて警察予備隊を創設し、共産主義に対して国防・自衛をするようにと命じた。

日本を弱体化させ、自衛権を奪ったツケが早くも顕現化したのです。
言い訳はまだ続きます。

即ち、マッカーサーは自分の「読み」の甘さをさらけ出した。

それ故に、マッカーサーは逃げ口上を並べ立て、責任を回避しようとする。

「世界情勢が変わり、全人類が自由の防衛のため武器をもって立ち上がり、日本も危険に晒される事態となった時には、国の資源の許す限り、日本も最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第九条は最高の理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権を持たないという解釈は、どうこじつけても出てこない」

「私はこのことを憲法採択の時に声明し、後に必要になったときに提案した」と「回顧録」の中で説明しているが、真実は、憲法採択の時ではない。それから3年以上たった、1950(昭和25)年1月1日、日本国民への念頭メッセージの中で初めて名言した。

そしてとうとう、戦後わずか5年の1950年6月25日に朝鮮戦争が始まります。
もはや「戦争放棄」などと言っていられなくなりました。
現に機雷掃討で日本がすでに駆り出されています。

大きな戦争が終わり、戦場で輝かしい偉業を成し遂げた征服者が、敗戦後の瓦礫と化した首都に立ち、自分が想像できる最も理想的な憲法を綴り、永久平和の夢を書き込んだ。この夢は、生後1164日にして厳しい現実に晒され、崩壊した。

マッカーサーは「失敗者」です。
日本がなぜチャイナや満州を守っていたか、分からなかったんでしょうね。
ただ単に「俺たちがそこの資源を得るためには日本の存在が邪魔だ。追い払ってやれ」という、目の前の利益しか見えていなかったのでしょうね。

朝鮮には当然自国を防衛するような国力がない。
チャイナが共産化すれば、すぐに日本は危なくなる。ということが日本にはすでに見えていたのです。

そして、ソ連はアメリカと日本を戦わせ、両国の国力を奪って疲弊したところに攻め入るという「漁夫の利」をまんまと得たのでした。

九条は、いまだに日本を縛り付けています。

自分の家を守るのに、近所の強い人にお金を払って守ってもらうんですか?
その人は、本当にあなたを守ってくれますか?

強盗が押し入って来ても「話し合えば分かる。話し合おう」と言えば相手は納得して話し合いに応じてくれると思いますか?

「私は武器を持っていません」と言えば相手は強盗に来ないのですか?

「武器を持てば強盗に入られます。武器は持つな!」
もっと言えば「傘を持つと雨が降ります。だから傘は持つな」と言っているのと同じです。

滑稽ですよね?

共産党や公明党が言っているのは、これと同等のことです。

国防についてはまたの機会に触れたいと思います。

本は戦後の悲劇「平和教育」、そして終わらぬ「戦後」の始まりへと続きますが、続きはぜひ書籍を読んでいただければと思います。

この本の中で、日本占領初期にGHQの労働部で労働法立案に関わったヘレン・ミアーズは至極真っ当なことを言っています。
アメリカの鏡・日本

最後に、この本に書かれている彼女の見解が紹介されていますので、それをご紹介して終わりたいと思います。

戦後から、占領中にかけ、アメリカ政府およびマッカーサーのGHQが「極悪・残酷日本人」観を創り上げ、それがアメリカ国民の常識となっていたが、ミアーズはその日本人観をぶち壊した。

彼女によれば、ペリーの黒船から終戦までの日米関係は次のようなものだ。

アメリカ政府は、日本が朝鮮半島やアジア大陸へ侵略をしたから日米戦争になったとアメリカ国民と世界中に言い触らしているが、世界地図を見れば、どの国がアジアへ進出したか歴然としている。

我々アメリカが遠く離れたアジアへ乗り込んでいったのだ。

日本は、アメリカ大陸へも、ヨーロッパ大陸へも進出していない。
アメリカは、アジアで日本が邪魔になったので、無理難題を投げつけ、日本を窮地へ追い込んだ。

日本は、自衛のために闘うより他に生きる道はなかったのだ。

アメリカは、勝つことの解っていた戦争に日本を引き摺り込み、日本を徹底的に破壊し、力尽き果てた日本兵と一般市民を殺しまくり、勝敗のついた後でも、原子爆弾を二発も使い、さらなる大量殺戮を実行した。

占領下、GHQは狂気の軍国主義日本を民主平和国家にすると独善的な言葉を使っているが、すばらしい文化と長い歴史を持っている日本に武力でアメリカ様式を押し付けているだけだ。

私たちの国と子孫を守るため、勇敢に散って行かれた英霊の方々は、今の日本の姿を見てどう思っておられるでしょうか?

「私たちが残したかった日本ではない」

という答えが返って来そうです。

身を挺して我が国のために戦ってくれた英霊の方々、すべてに感謝を申し上げます。

國破れてマッカーサー①

明日は終戦記念日ですね。
今回は2回に分けてオススメ書籍をご紹介いたします。

國破れてマッカーサー」です。

著者は西鋭夫(にしとしお)先生。
西先生は、フーバー研究所の研究員として、またいくつかの大学で教鞭を執っている方です。
詳しくはこちら。
西鋭夫

西先生は私見をほとんど挟まず、淡々と戦況について書かれています。
淡々と事実が述べられているからこそ、余計に戦争の酷さが浮き彫りになるということが皮肉です。

今回ご紹介する本は合計500ページ以上もある「大作」ですので、もちろん内容のすべてをお伝えすることはできません。

今回は、触りの部分を部分的に引用してご紹介いたします。
これを読んで少しでも興味を持っていただけたら、ぜひ購入をして読んでみてください。

はじめに

1946年春、アメリカから教育施設団が来て日本の学校教育を見学。結果「日本語は難しすぎる」という理由で「日本語をローマ字にせよ」と迫った。50年後の1997年、文科省は小学1年から、ローマ字ではなく英語を教えると発表した。

首相が「参勤交代」をするかのようにアメリカを訪問し、ワシントンDCにあるホワイトハウス招待され、その後必ず隣の国立墓地と無名戦士の墓に参る。連れていかれる。
日本にもアーリントン国立墓地に匹敵する場所がある。 ところが、首相が帰国して、祖国の英霊が眠っている靖国神社に足を運ぶのか。 運ぶ首相もいる。
だが、近隣諸国の感情を逆撫でしてはいけないと細心の気を配り、あたかも悪いことをしているかのように人目を避け、終戦記念日を避け、こっそりと英霊に黙祷する。
近隣諸国は、待ってましたとばかりに「戦争犯罪人を擁護している」と日本を攻撃する。敵兵の英霊に頭を下げ、祖国の兵を無視する国は、もはや「国」としての「誇り」も、いや、その「意識」もないのだ。

アメリカの大統領も日本に来る。彼らは靖国神社に表敬訪問しない。

占領中、日本での公用語は英語だった。 日本政府の全文書、マスコミの全印刷物、NHKの全放送内容は英訳されGHQの判断を仰がなければならなかった。 日本の政治家の発言、演説もすべて英訳された。

玉砕

マッカーサー率いる勇猛果敢な海兵隊は、1944(昭和19)年6月15日、サイパン島(日本帝国の重要基地)に猛攻撃を開始した。 サイパン島の日本兵、31000名は23日間戦い続け、弾尽き、玉砕した。

日本人の子どもたちも、母親と共に島の北に追い詰められ、Suicide Cliff(自殺の絶壁)から次々と飛び降りる。その数、5000名という。

サイパン沖での海戦も悲惨な結末となる。日本海軍の航空母艦9隻の内、3隻が撃沈され、 473機あった零戦 は956機のグラマンF6Fとの空中戦で、ほぼ全機撃ち落とされる。このサイパン島から、ボーイング社の新型B29爆撃機が福岡、名古屋、大阪、東京へ空襲をかけることになる。

神風特攻隊

西先生は、ワシントン大学に在籍中にアメリカ海軍水兵たちの神風特攻隊に関する回顧録を何冊も読んだそうですが、それには、皆があたかも同じ艦に乗っていたかのように、同じことを語っていたそうです。

現場にいなければ分からない、生々しい記述がそこにはあります。

アメリカはレーダー探知機を持っていた。
レーダーに「点々」が現れる。神風はまだ肉眼では見えない。

しかし、その点々の方向に全ての機関銃を、全ての対空砲を、撃ち始める。十機ぐらいの神風が肉眼に見える。

まっすぐ航空母艦に突っ込んでくる。水兵たちは、気が狂いそうな恐怖に震えながら、機関銃を撃ち捲る。
ほとんど30分くらいで撃ち落とす。だが、時折、一機だけが幾ら機関銃弾を浴びせても落ちない。
銃弾の波間を潜り、近づいてきては逃げ、そしてまた突っ込んでくる。

日の丸の鉢巻が見える。

祖国のために死を覚悟し、己の誇りと勇気に支えられ、横殴りのような機関銃の弾雨を見事な操縦技術で避け、航空母艦に体当たりして撃沈しようとする恐るべき敵に、水兵たちは深い畏敬と凍りつくような恐怖とが入り混じった「感動」に似た感情を持つ。

命をかけた死闘が続く。ついに、神風は燃料が尽き、突っ込んでくる。
その時、撃ち落とす。その瞬間、どっと大歓声が湧き上がる。
その直後、耳が裂けるような轟音を発していた甲板上がシーンとした静寂に覆われる。

水平たちはその素晴らしい敵日本人に、「なぜ落ちたのだ!?」「なぜ死んだのだ!?」「これだけ見事に戦ったのだから、引き分けにして、基地に帰ってくれればよかったのに!!」と言う。

占領独占

敗戦後、GHQによる統治が行われます。
GHQの最高司令官・マッカーサーは本気で日本人をキリスト教の国にしようと思っていたらしく、

私が持っている権力を使えば、天皇と7000万人の日本人を一夜にしてキリスト教徒にできる

と曰わっていたそうです。

日本には古来より神道があり、中世には仏教が入り、神道と仏教が見事に融合して日本人に溶け込んだという歴史をまったく知らないのか、この発言には思い上がりにもほどがあります。

そしてそれだけではなく、次のようなことも曰わっています。

もしアングロサクソンが科学、芸術、神学、文化などの分野において45歳だとすると、ドイツ人は我々と同様十分成熟している。

しかし、日本人は歴史の長さにも拘らず、まだまだ勉強中の状態だ。

近代文明の尺度で計ると、我々が45歳であるのに対し、日本人はまだ12歳の子供のようだ。

勉強中は誰でもそうだが、彼らは新しい手本、新しい理念を身につけ易い。
日本人には基本的な思想を植えつけることができる。

事実、日本人は生まれたばかりのようなもので、新しい考え方に順応性を示すし、また、我々がどうにでも好きなように教育ができるのだ。

差別、侵略、支配、略奪が得意な、いかにもアングロサクソンが考えそうな発想です。
日本人を完全に馬鹿にしています。

そしてこのマッカーサーの考えが、今なお日本の教育に居座り続けています。

天皇とマッカーサー

天皇とマッカーサーについては、実際に本を読んでいただくとして、この章の中で真珠湾攻撃に関する興味深いことが書かれていましたのでご紹介いたします。

日本海軍が秘策に秘策を練った真珠湾奇襲につき、ワシントン大学で私の担当教授アレックス・エデルスタイン博士から興味深い話を聞いた。

彼は、真珠湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の航空母艦(3隻)の水兵であった。

1941年(昭和16年)12月5日、金曜日の朝の話。

「俺たち、上官に大声で文句を言ったんだ。『日曜日は外出禁止だ』と命令されていたからだ。その上、『明日、土曜日の朝から演習がある』とのありがたいご命令をもいただいた。俺には美しい彼女がいたんだ。週末した会えないのに!それも、空母3隻だけに演習命令だ。土曜日、パール・ハーバーからずっと離れた海原へ一晩かけてお出掛けしましたネ。パール・ハーバーに帰ってきて、俺たち水兵は助かったと思ったと同時に、なぜ空母だけを助けたんだと不思議に思ったよ」

ルーズベルト大統領は、日本が真珠湾に向かっていることを知っていて、製造するのに時間と銭(かね)がかかり、戦略上重大な機動力を持つ空母だけは隠していたのだ。

しかし、アメリカが日本の暗号を解読している日本側に感付かれないように、他の軍艦を湾内に残しておいた。

アメリカ海軍史上、日曜日に演習をしたのは、この時が最初で最後だ。

日本の零戦は、3隻の空母を沈めに来たのだ。

必死になって探したのだが・・・。

ルーズベルトは、日本海軍があれほどの大打撃を与えるとは思ってもみなかったのだろう。

日本人大嫌いのルーズベルトにとって、神からの贈り物が絶妙のタイミングで届いた。

アメリカはすでに早い時期から日本の暗号を解読しており、日本の作戦は筒抜けだったと言います。
日本はこのことに無頓着で、暗号が解読されていたことも知らずに、ずっと暗号を変えずに終戦を迎えてしまいます。

ルーズベルトは反戦を掲げて大統領に当選していた手前、アメリカが参戦する決定的な口実が必要でした。

ABCD包囲網で日本を経済的に追い込み、ハル・ノートでさらに追い込み、必死の日本の開戦回避の交渉はことごとく無視されました。

日本を戦争に誘導したのは、このルーズベルトです。

ハル・ノートの「コーデル・ハル」という人物はソ連のスパイだったことが明らかになりましたが。

結局、終戦後に朝鮮戦争が勃発したのは、日本が負けたからです。
焦ったのはアメリカです。
国力や軍事力のない朝鮮はもとより、日本まで共産化されてしまう可能性があったからです。
しかし、その頼りの強い日本は消耗しきっていて抵抗する力もない。
朝鮮は一時、落ちる寸前まで攻められました。

結局、アメリカも結局はソ連の「漁夫の利」のためのシナリオ作りに利用されただけということになります。

飢餓と暴動

戦後、極度の飢餓にあえぐ日本。
そして、ついに暴動が起き始めます。

マッカーサーはこれに苛立ち、本国に「食料を送るか兵隊を送れ」という強烈な電報を送るまでに事態は悪化していました。

「食と教育は密接に繋がっている」ということを証言している記述があります。
「食と健康」と「教育」が繋がっているということは、参政党が掲げている3つの重点政策の一つでもあります。

大学生の受けた影響も大きかった。

政治顧問事務室付きのエマーソンは、学生たちと対談し、彼らの発言を内部メモに記し、ワシントンへも報告している。

「殆どの学生たちは、体力の消耗を防ぐために日曜日は寝ている」

「学生たちの誰一人とて、日に2食以上は食べていない。良書を読み、勉強し、政治活動に参加したいと思っていても、食物のことで頭が一杯で、本を読むなどの意欲が起きない」

「現在日本国民の頭の中にあるのは、衣食住のことのみだ。民主主義について考える余裕はない。腹も十分満たされていないのに、民主主義への建設的な足取りを踏み出せるはずがない」

こうした現状を、マッカーサーは元大統領で基金緊急委員会長のハーバート・フーバーに報告をします。
フーバーはそれを聞き日本への食料不足は日本再建の妨げとなると言っています。

このフーバーが、フーバー研究所の創設者です。

最近は「一日2食」とか「3日間断食」などをする人も増えてきました。
期限が分かっているものであれば何とか頑張ることができますし、かえって体調が良くなったりするようですが、戦後の人々は慢性的な飢餓状態だったわけで、こうなれば話が違ってきます。

自由枠の枠・「ダメ」の十項目

1945年8月10日、マッカーサーは「報道・思想の自由」に関する司令を発します。
マッカーサーは、これによって日本国民の間で天皇に対する批判が巻き起こることを期待していたからです。

しかし、これを聞いた日本のマスコミは大混乱を起こします。

こぞって「アメリカの原爆による日本人虐殺」「占領軍による治安の悪化」などの記事を出しました。

至極まっとうなことだと思います。

これを知ったGHQは、日本政府の河合達夫、NHK会長・大橋八郎、同盟通信(時事通信および共同通信の前身)社長・古野伊之助を呼びつけます。

「マッカーサー元帥は日本政府および新聞ラジオの9月10日の司令に対する対応に満足されていない」と前置きし、「元帥は報道の自由に強い関心を持ち、連合国もそのために戦ってきた。しかし、お前たちは、報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。従って、マッカーサー元帥はより厳しい検閲の実施を指令された。元帥は、日本を対等と見做していないし、日本はまだ文明国の仲間入りをする資格はない、と考えておられる。この点とよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し百パーセントの検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合軍に対するいかなる批判も絶対に許さない。同盟通信社は昨日、公安を害する報道を行ったことで業務停止処分を受けた」と通告した。

ここから9月19日に「プレス・コード」が始まります。

①ニュースは絶対に真実でなければならない。

②公共の治安を乱すことは掲載してはならない。

③連合国に関して、破壊的または誤った批判をしてはならない。

④占領軍に対して破壊的な批判を加えたり、疑いや怨念を招くようなものを掲載してはならない。

⑤公式に発表されない限り、連合国軍部隊の動静を報道してはならない。

⑥ニュース記事は、事実通りに掲載し、意見を完全に除いたものでなければならない。

⑦ニュース記事は、いかなる政治宣伝とも結びついたものであってはならない。

⑧ニュース記事の一部を特定の宣伝のために誇張してはならない。

⑨ニュース記事は、事実の一部を省略することで曲げられてはならない。

⑩新聞作成において、特定の政治宣伝をするために一つのニュース記事を不当に大きくしたりしてはならない。

マッカーサーは、9月22日、「ラジオコード」を発表した。プレス・コードと酷似していた。GHQは、日本放送協会(NHK)を完全に支配下に置く。

日本はいまだにこの影響を引きずっています。
NHKの言うことを信用できないという理由はここにあります。

國破れてマッカーサー②に続きます。


茶番

長崎原爆投下の日

今日8月9日は、広島に続き、長崎に原爆が投下された日ですね。
この一撃だけで14万人という方が亡くなっています。
ご冥福をお祈りいたします。

広島では約20万人、長崎は14万人で合計34万人です。

和歌山県の人口の約3分の1が2日で消えた計算です。

また、東京大空襲では約10万人。

戦争と虐殺

戦争と虐殺の定義とは何でしょうか?

戦争とは、そもそも民間人のいないところで武装した兵隊同士が戦うことを言います。
関ヶ原の戦いなども、戦場は「原っぱ」です。

日本軍が南京を陥落させる前には、住民に退去の命令が出されています。
それに従わず、民間人の格好をして攻撃してきたのがチャイナです。

これは明らかにルール違反です。

さて、先出の原爆投下と東京大空襲はどうでしょうか?

犠牲になったのは民間人です。

広島には軍需工場などありませんでした。

この行為は明らかに虐殺です。

前の記事で模擬原爆のことについて触れましたが、東京大空襲の前にも、アメリカ本土では日本人(ベトナム人?)を駆り出して木造の建物に入れ、どうすれば効果的に焼夷弾で焼き殺せるかという実験までしたと聞いたこともあります(たしか青山繁晴さんがおっしゃっていたような)

原爆を投下した国、しなかった国

東京裁判は、この事実を隠すために行われた茶番です。
だいたい、戦勝国が敗戦国を裁いてはいけませんから。

新型コロナ、過去最多

8月10日付けの紀伊民報に、「感染者 過去最多」という記事がありました。

相変わらずの煽りです。

うち、亡くなった方は4日に1人、5日に6人。
いずれも全員70代以上で基礎疾患持ち。
重症者の報告はなし。

重要なのはここです。

1686人のうち、重症者は何人なのかということです。

単にあてにならないPCR検査の数字を見て、それだけで判断するのはちょっと違うと思います。

8月8日現在、エクモを利用している「全国の」患者数は16人です。
エクモネット

これ、本当に怖い病気ですか?

一日1000人亡くなっているガンの方が怖くないですか?

すでに感染症学会は

「順調な場合には、普通の風邪とあまり大きな違いはない。検査を受けられなくても慌てないで、自宅療養をすることが大事」

と言っています。
発熱「軽い症状なら慌てて受診は不要」

コロナを終わらせる方法は、

これにつきます。

すべて茶番です。

原爆を投下した国、しなかった国

昨日8月6日は、広島に原子爆弾が落とされ、約20万人という「民間人」が殺された日でした。

今は私も曲りなりに本やネットで色んな情報を取るようになってからは、ある程度のことは把握していると思っていましたが、小名木善行さんの昨日の記事を読んで、愕然としたことがありました。

それと同時に、天皇陛下の「人類」を想うお気持ちというものに触れ、改めて昭和天皇の偉大さを思い知ることができました。

なぜ、アメリカは原爆を落とすことができたのか?
原爆を落とす本当の目的は?
当時の日本はすでに原爆を使用できる段階に来ていた?

詳しくはこちらの記事をぜひ読まれてください。
8月6日 広島に原爆が投下された日(ねずさんの学ぼう日本より)

私は、アメリカは遅かれ早かれ、日本に原爆を落とす計画をしていたことは、本を読んで知っていました。
その証拠に、アメリカは日本各地に「模擬原爆」を落としています。
和歌山でも、初島に落とされています。

原爆を落とすのには、投下後に自分たちも被爆しないように急旋回して回避する技術が必要なので、「落とす訓練」をしていたのです。

原爆投下について、私たちは学校で「日本はなかなか戦争をやめようとしなかったので落とされた」と習いました。

私は大人になってもずっとそうだったのだと信じていました。

「日本が侵略戦争をして欧米のようにアジア諸国を植民地支配して、酷いことをした」とも習いました。

そうして日本が嫌いになり、「正義のアメリカ」が大好きになりました。

しかしある日、図書館で偶然見つけた「大東亜戦争肯定論」という本をきっかけに、私の考えが変わり始めました。

教科書には一切書かれていない記述や、学校の先生が言っていたこととまったく違うことが書かれていたことにショックを受け、それからというもの、自分で情報を取るようになり、本やネットで調べるようになるうちに、「日本は決して侵略戦争をしたわけではない」という結論に至りました。

この時季に決まって放送するNHKの言うことは信用してはいけないですよ。
日本と日本人が嫌いになります。

NHKはすでにGHQによって左翼メディアに成り下がっていますから、戦争の悲惨さを語ることを隠れ蓑にして、結局日本人が悪いことをしたと刷り込むように番組が作られているからです。

教育というのは本当に恐ろしいです。

そして、小名木さんの記事は、今の日本の国防についても示唆していると思います。
日本にもし、まったく反撃する意思や能力がなければ?

今のチャイナが度々領海侵犯をしたり、韓国が竹島を占領したりしても何もしなければ相手は好き放題するということを証明しています。

憲法9条があるからではありません。

反撃する能力はあっても、意思がなければ同じことです。

憲法9条は単なる国防の足かせにすぎません。

「先住民」について考える①

先住民という言葉ですが、今の日本では曲解されている傾向があります。
今回はこの「先住民」について考えてみたいと思います。

民族とは?

言語、人種、文化、歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団

調べてみるといろいろ書いてあって定義がなかなか難しいですが、上の言葉が一番端的に民族について表していると思います。

言語について

チャイナがよく沖縄のことを「自分の物だ」的なことを主張していますが、言語を見ると中国語とは違うことが分かります。

単語こそ日本の標準語とは違うものがたくさんありますが、その中でもけっこう日本語の単語が沖縄式の発音に変化しただけの言葉も多いです。

私は空手をやっています。

もうかれこれ25年以上になりますが、その中で沖縄空手にも触れてきました。

みなさんご存知のように、空手は沖縄が起源です。
その中からですが例を挙げてみます。

沖縄空手(沖縄剛柔流)の久場良男先生の著書に、蹴りのことについて書かれています。

昔、沖縄では

カチミラーキリ(掴んだら蹴れ)

カチミラリラーキリ(掴まれたら蹴れ)

このように昔から教えられているそうです。

沖縄には母音が3つ(あ、い、う)しかなく、「え」と「お」がありません。
なので、「え」が交じる言葉だと「い」になり、「お」が「う」に変換されます。

上記の場合、「蹴れ」の「け」が「き」になり「れ」が「り」になるので「キリ」となります。

「カチミラー」や「カチミラリラー」の「カチミ」ですが、「カチミユン」であり、沖縄の地域共通語で「つかむ」を意味します。
ただ、今ではほとんど使われていないようです。

「ラリラー」はおそらくですが受動態と理解することが一番納得できるでしょう。

あと、よく聞く「北谷(ちゃたん)」ですが、これはもともと「きたたに」が沖縄流の発音に変化した言葉だそうです。

「き」が「ち」に変化し、語尾の「に」が「ん」に変化。

これで「ちたたん」になります。

昔は「ちたたん」と言っていたものが徐々に言いやすいように変化し「ちゃたん」となったとのことです。

また「肝(きも)」も同じく「き」が「ち」になり「も」が「む」になるので「チム」と発音します。

「こもりく」が「くまの」になったという暴論よりも自然ですよね(笑)

沖縄の言葉については、こちらの動画をご参考にされてください。

「先住民」について考える②に続きます。