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広川研修①
午後からは、和歌山県立文書館の砂川佳子さんの講演を聞きました。
和歌山県立文書館って、あまり馴染みがありませんでしたが、古文書や公文書、行政刊行物の収集・保存・活用により、和歌山県の学術・文化の発展に寄与することを目的として平成5年7月に開館した施設です。
今回は、濱口梧陵さんに関する古文書「夏の夜かたり」から、梧陵さんがどういった人物だったのかを読み解く、という内容でした。
稲むらの火
稲むらの火のおさらいです。
濱口梧陵さんといえば、稲むらの火というイメージを持たれる方が多いと思います。
安政の大地震は2回起こっています。
1回目は1854年12月23日午前9時頃、2回目はその約32時間後の12月24日午後5時頃です。
津波は2回目の時に起こっています。
この時、梧陵さんも津波に飲まれています。
難を逃れ、広八幡神社にたどり着いた梧陵さんは、次に来る津波に備えます。
逃げ遅れた住民や津波で沖に流されてしまっていた住民を、避難場所である広八幡神社に誘導するために、道しるべとして稲むらに火を放ちます。
稲むらとは、収穫後の藁を積み上げたもので、草履などを作るためのいわゆる「藁の倉庫」のようなものです。
他には畑のマルチとしても使われています。マルチとは、土の温度を過剰に上昇させないように敷くシートのことで、現在はビニール製のものが用いられていますが、現代でも利用しているところがあるそうです。
ビニール製は時期が終われば後片付けをしなくてはいけませんが、藁はそのまま畑にすき込んでしまえば堆肥になります。
いまでも、熊野古道沿いでは近露で見ることができます。
濱口梧陵の功績とは?
しかし、夏の夜かたりでは「『ツナミ』に『ススキ』へ火ヲ付ケシ如キハ決シテ大恩ト云フニアラズ」と書いています。
つまり、稲むらに火を付けたことは大きな恩ではないというのです。
記述には続きがあります。
「広村永遠ノ救済ヲ講ゼラレシコトコソ大恩有之所謂ナリ」
とあり、「広村永遠の救済策を講じられたことこそが大恩のいわれである」と述べています。
梧陵さんは、津波に遭って逃げる術を失った住民に対して、機転を利かせて稲むらに火を放ったことはもちろん称賛に値することなのですが、それ以上に、広村を「永遠に」救済する活動をされたことの方が遥かに功績が大きいということを述べているのです。
震災後の取り組みとして
広橋の再建
広村堤防工事
地租の軽減
瓦礫の処理
などがあり、生活に困った住民を救済するために尽力されています。
濱口梧陵さんの伝記については、濱口梧陵伝などがありますが、瓦礫処理について書かれているのは夏の夜かたりだけだそうです。
梧陵さんは震災前からずっと広村の発展に尽力をされてきたという点も見逃せません。
漁業振興
村役人の給料や祭礼にかかる費用の節約
稽古場(後の耐久社)の創設
震災後広村を離れたあとは寺朋輩(てらほうばい・同じ寺子屋で学んだ仲間)の伝八や村の有力者が、異国船来襲に備えて農夫・漁夫へ鉄砲の訓練をしたり、熊野古道参詣者の利便性向上のために新しい道をつくったり、汽船と銀行を誘致したりと、さまざまな事業に取り組みました。
梧陵さんの残した功績は、計り知れない大きさがあり、現代そして未来永劫、語り継がれていくことでしょう。
濱口梧陵と徐福
今回のこういった話を聞いて、思わず梧陵「さん」と言いたくなるような人物像が私には見えて来ました。
新宮の方が「徐福さん」と呼んでいるような感覚でしょうか。
しかし、徐福はあくまでも伝説の域を出ない上に、始皇帝を騙して大金を巻き上げ、自分本位の勝手な考えで秦から逃げて来たのに比べ、濱口梧陵さんはきちんと史実として、しかも公のために身を粉にして尽力された記録が残されている点から言えば、私は「徐福」と呼び捨てにはできますが、梧陵さんの場合はそうはいきません。
新宮の人に怒られるな(笑)
徐福についての考証は、こちらをご参考にされてください。