縄文文明

今回も小名木善行さんのお話のまとめと、わたしがこれまでに学んだことについて書きたいと思います。

岡本太郎と太陽の塔

「芸術は爆発だ!」の岡本太郎さん、実は「縄文ファン」で、あの有名な作品「太陽の塔」は、縄文式土器をモチーフに作られたものだそうです。

その岡本太郎さんは「縄文時代」ではなく「縄文文明だ」と主張されていたそうです。

縄文時代とその文化

縄文時代は、今から1万7000年前(!)から、3000年前頃まで、14000年に渡って続いた時代です。

西暦はたった(?)2000年です。
その約7倍の長きに渡り続いた時代です。

縄文遺跡は日本各地で発見されており、数万箇所あるそうですが、「◯◯貝塚」と呼ばれている遺跡は縄文遺跡なのだそうです。

世界各地の遺跡から出土しているもので、いまだかつて縄文遺跡から一つも発見されていないものがあります。

何だと思います?

縄文時代について勉強された方や、小名木さんのお話を聞いたことのある方ならお分かりかもしれません。

答えは「対人用の武器」です。

この14000年の長きに渡り、争いの痕跡が発見されていないのです。

中には頭蓋骨に穴が開いたものが発見されていますが、それが果たして争いによってもたらされたものなのか、事故によるものなのかははっきりと分からないらしいです。
ただ、そういった頭蓋骨も全体の1%しかなく、また、損傷部分が頭蓋骨だけなので、争いではなかったのかもしれません。
もし、争いによってのものであれば、体の他の部分にも損傷が見つかってもおかしくはありませんが、それが発見されていません。

一応、矢尻や石斧が発見されていますが、石斧は対人用にしては柄が長すぎで、人をそれで打とうとするなら柄が折れてしまうらしく、矢尻も対人用にしては小さすぎることから、小動物を狩るためのものだったようです。

このことから、日本人は元来争いを好む民族ではなく、そのDNAがわれわれ日本人の奥にあるのかもしれません。
議論をする時でも、感情的になって言い争ったとしても、殴り合ったりとか暴力に訴えて、最後には武器を突きつけて相手に無理やり従わせるということをせず、どこか共通点や共感点を見つけていくという方法を取ります。

こうした「争わない姿勢」が、縄文時代から学ぶ最も重要な部分であると小名木さんはおっしゃいます。

「歴史とは争いの歴史」ではない

よく「歴史とは争いの歴史」と聞きます。
歴史には戦いがつきものだと。

しかし、以上のお話からも分かるように、日本にははるか昔には争いはなく、人々が協力しあいながら平和に暮らしていたのではないかと思わせます。
「戦いの歴史」が始まったのは、長い縄文の平和な時代から見れば「つい最近」の話なのです。

これをよく表す言葉として「天皇を中心とした」といいます。
「天皇を頂点とした」ではないのです。

天皇を「頂点」とすれば、権力や武力で国民を支配してしまう意味になります。
これは他の大陸の国々のやり方です。
そうではなく、天皇も人々の気持ちや意見を汲み取り、国民とともに生きることで人々からの信頼を得られ、そこから自然と崇められるような存在になられたのだと思います。

「崇めさせる」のではなく、国民が自発的に「崇める」

まさに人々をしらす(知らす・治らす)、つまり、国民を「大御宝」とし、「天皇と国民は一体」として国民を大切にしてきたからこそ、人々から崇められるようになったのでしょう。

その証拠として、京都御所は中学生でも簡単に乗り越えられるような低い塀しかありません。
普通の他国の王であれば、鉄壁の堀と城壁で城を取り囲み、命を狙われないようにしています。
天皇がお住まいになられるところは、それをする必要がなかったことを表します。

古来から争いを好まない文化は今、「ただのお人好し」になっているきらいがありますが、曖昧な気質とともに、日本人特有の文化でもあると思います。

ただ、それでは済まない状態になって来ていることは事実です。
話し合いで納得してくれるような相手が周りにいない今の状態では、毅然とした態度で、時には武力を盾にしながら(武力を行使するという意味ではありません)外交をする必要がある時代に来ていると思います。

歴史に学ぶ重要性(一国であり続けることの意味)

今日も小名木善行さんのお話のまとめです。

人口激減

14世紀(1348年頃)、当時のチャイナ・元ではペストが大流行し、人口1億2千万人いた人口が2500万人にまで減少するという事態が起こりました。
ペストはユーラシア大陸やヨーロッパでも大流行。
人口の約6割が亡くなったそうです。

元でこれほどまでに人口が減少した原因は2つあります。

一つはペスト。もう一つは飛蝗(ひこう)、いわゆるバッタの大群が作物を食い荒らす災害です。
ペストは気温の高い南部、飛蝗は北部で起こりました。

元が滅んで次に明が興ると、またもや同じ理由で9500万人いた人口が2500万人にまで減少します。
明のみならず、ヨーロッパでも同じことが起こってしまいました。

しかし、日本ではこの時期に大した影響はありませんでした。

その理由が、古事記・日本書紀(以下「記紀」)に書かれています。

崇神天皇の功績

時は2500年前、第10代・崇神天皇の時代。
日本では疫病が大流行し、古事記では「人口の大部分が失われた」と書かれ、日本書紀では「人口の半数以上が失われた」と書かれていています。

日本でも、諸外国と同じように、はるか昔に疫病が流行していたのです。

東大のDNA研究チームの研究で、約2500年前に当時の人口26万人が8万人にまで減少したという事実を突き止めました。
この事実は、記紀の時代とぴったり合います。

東大の研究チームは、「自然災害によるものだろう」という曖昧な見解しか示していませんが、ちゃんと記紀には疫病が流行したと書かれています。

当時はもちろん、ウイルスの存在など分かりませんので、崇神天皇は「神々の怒りに違いない」と思い、各神社に神々のお伺いを立てるよう命じます。

各神社からは「◯◯の神様を◯◯に移しなさい」という「神託」が上がってきました。
しかし、当時も神社はたくさんあったことから収拾がつかなくなります。
そこで、各神社からの話をまとめて上げてくるように、天津社(今で言う官幣大社)・国津社(各都道府県の代表の社)・市町村の代表の社・氏神の社と、神社を4階層に分けました。

それと同時に、手水舎の設置を義務付け、手と口をすすぐようにしました。

当時、人々が何かあるときに集まって話し合うところは神社でした。
今は公民館がありますが、あれは戦後GHQによってもたらされたものです。
GHQは、とにかく神・天皇と民衆を切り離したかったのでしょう。

このことがきっかけとなり、8万人にまで減少していた人口が、一気に67万人にまで増えました。
手水舎での「禊」の結果、疫病がなくなったのです。

以来、崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれるようになりました。

「都」の意味

神武天皇は、始めて奈良の橿原に都を置きました。
今から約2680年前です。

当時、ある地方で飢饉が起こり、米が取れなくなった場合、余裕のある地方から米を供給できる仕組みを作る必要があるとお考えになりました。
そのためには、公正な米の融通を確保するための機関が必要だったのです。

これが都の始まりです。

「都」とは「宮の子」という意味があるそうです。

こうして、自然災害が起こった場合は都のおかげで飢饉が起こっても耐え凌げるようになりましたが、疫病に関してはいくらお米があっても人々は死んでしまいます。

これを我が国では、第10代・崇神天皇が見事に克服したのです。

今でも残る「疫病対策」の習慣

日本は高温多湿な気候環境であるため、疫病対策が生活習慣にも溶け込んでいます。

挨拶にしても、西洋にあるハグや握手という習慣もなく、日本では畳一畳分(約1.8m)空けてお辞儀をするだけです。
1.8m離れれば、お互いの唾液が飛ぶこともありません。
さらに、禊、お風呂の習慣を持ち、拭き掃除を励行します。

歴史に学ぶことの重要性

同じように疫病が大流行した西洋でも、同じように疫病対策の習慣があってもいいようなものですが、残念ながらありません。

それは、王朝が代わり、歴史が途絶えているからだと、小名木さんは言います。

これに対し、日本では過去の歴史を学んだことを全部活かしながら、現代まで一貫してつないでいます。

疫病対策一点においても、他国と大きな違いとなって表れています。

歴史を学ぶこと、そして、一国であり続けることの重要性を改めて学ぶことができました。

一国であり続けてこられたのは、我が国には天皇がいらっしゃったからだということは揺るぎない事実なのではないでしょうか。

・・・今、神社では「手水の停止」を掲げているところがありますが、むしろ逆効果ではないの?と思うのは私だけでしょうか?

国号の始まりとその深い意味

今日は歴史のお話です。
小名木善行さんのお話のまとめをシェアさせていただきます。

「日本」の始まり

670年、新羅の歴史書・新羅本記に「670年に倭国が国号を日本と改めた」という記述があり、これが一番古いそうです。
日本国内では、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)で「日本」という言葉が使われました。
また、702年の遣唐使でも日本という言葉が使われており、670年から700年頃にかけて「日本」という国号が使われ始めたということが定説になっています。

「天皇」と「日本」

では「天皇」と「日本」という言葉はどちらが古いでしょうか?

「天皇」という言葉は、608年の第3回遣隋使の時に使われているそうで、「日本」よりおよそ100年前から使われていたそうです。

以前の国号

「日本」と呼ぶ前はといえば「やまと」ですが、チャイナはこれに「倭」という字を当てました。
しかし、日本では「日本」と書いて「やまと」とも呼んでいたそうです。
ちなみに「大和」という漢字は、ただ単に漢字を当てただけです。

「日本」の意味

「日本」は大和言葉で「ひのもと」と言います。
これは、「太陽神である天照大神の本(もと)にある」という意味です。
また、これにはもう一つの大きな意味があり、「ひ」は「霊」とも書き、魂を表すそうです。

日本には古来から「ひふみよいむなやこと」という数え方がありますが、この「ひふみ」の「ひ」は「御霊(みたま)」、「ふ」は「生まれる」、「み」は「身」を表し、「ひ(霊)」から生まれる「み(身)」、つまり人間の体には魂が宿っているという考え方があったそうです。

ですので、「魂が本体であり、身は依物(魂が宿るもの)に過ぎない」という考え方がありました。

このことから、「国家の根本は霊(ひ)であり、霊体・神体が本(もと)になってできた国」という意味があるそうです。

「日本」の呼び方

ちなみに、いまだに我々日本人も「にっぽん」と呼んだり「にほん」と呼んだりしますが、これは「どちらも正しい」というのが正解です。
もう国号自体が日本人の特性である「曖昧さ」を物語っていますよね(笑)

東方見聞録のマルコポーロは、チャイナで日本のことを聞いた時、「日本」をチャイナ読みで「日(ジツ)本(ポング)」と聞き、それを母国語に直して「ジパング」としました。
それがヨーロッパ諸外国で「ヤーポン」とか「ハポン」とか「ジャパン」になりました。

国号「日本」の根底にあるもの

さて、この「日本」という言葉には大きな意味があることを学びました。
さらに、「日本」という国号に基づく素晴らしいお話があります。

前述した

「魂が本体であり、身は依物(魂が宿るもの)に過ぎない」

「国家の根本は霊(ひ)であり、霊体・神体が本(もと)になってできた国」

という意味から、魂をいかに重要視していたかを伺うことができます。
その魂にはランクがあり、この世で修行することにより最終的には神様に近いものになっていくという考え方があります。

神様に最も近い魂は、最終的な人間界の試練として、最も重い肉体を持って生まれてくると考えられていました。

最も重い肉体とは、いわゆる身体障害者や脳性マヒなど、脳や身体に障害を持った人たちのことです。
その人たちは神に近い非常に高貴な魂を持たれているから、大切にしなければならないと考えられ、半島などで障害者を揶揄するような文化とは全く違った考え方が日本にはありました。

「神」がこの世に生まれ変わってくるのか?

ここからは私の考えです。

この世は魂の修行をする場で、肉体を持つことにより魂を磨きやすい環境に置く、これがこの世での修行であると聞いたことがあります。
肉体を持つことにより、自由が利かなくなるからです。
目で見ないと見えない、触らないと感覚がない、耳で聞かないと聞こえない、鼻を通さないと匂いが分からない、口を通してでないと相手に自分の意志を伝えられない・・・こういう状態で暮らさなければならないからです。

この世に生まれ変わるということは、その魂に何らかの欠点があるからです。

そして、生まれ変わりを繰り返し、魂を磨き上げて欠点を補完し、最終的には修行をしなくてもよい状態、それが「神の魂」ということだと思います。

ホツマツタヱを読むと、クニトコタチから始まりアマテラス、スサノオなど、神話に登場する神々は実在の人物として描かれています。
よく神話などに出てくる神様たちはすでにその状態に達しており、この世に生まれ変わる必要のない方々だと思います。

なので、たまに「わたしはスサノオの生まれ変わりだ」とか「アマテラスの生まれ変わりだ」などと言っている人がいますが、こういった人たちは低級な霊に翻弄されているだけなのかもしれません。

また、本宮大社の縁起にイチャモンをつける意図はまったくありませんが、「人格者(神格者?)」ともあろうお方が「私を祀れ」とは言わない、そういう霊は低級な霊であり、みんなからチヤホヤされたいだけ、と何かのブログで読んだことがあります(おそらく有名な霊能者の方だったと記憶しています)
そのことが頭に残っていて、始めて本宮大社の縁起を聞いた時に「それ、違うやろ」と思ったことがありました。

真相のほどはさておき、私がいいたいことは、聞いた情報を鵜呑みにせず、たくさんの情報から判断しましょうねということです。

ではまた。


大東亜戦争の起こりは真珠湾ではない

今日は76回目の終戦記念日ですね。

たった76年前に終わった戦争。

日本は必死でアメリカに和平交渉を働きかけていたにも関わらず、アメリカは無視を決め込み、原爆を投下。罪のない大勢の一般庶民が犠牲になりました。

「太平洋戦争は、日本が早く降伏しなかったからだ」と言われ、私たちも学校ではそう習ってきました。
しかし、その理由がまったく違うということが分かったのは大人になり、ネットが普及し始めてからでした。

終戦の認識も違えば、開戦の認識も違います。

私たちは学校で「真珠湾攻撃のだまし討ちから始まった」と習いました。

しかし、真相はまったく違います。
小名木善行さんの動画から、順を追って見てみましょう。

ポーランド侵攻

小名木さんによると、「第二次世界大戦」が始まったのは1945年12月からではなく、1938年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻したのが始まりでだそうです。

ポーランドに侵攻したナチスドイツは、あっという間にポーランドを占領してしまいました。
なぜ、そう安々とポーランドは侵攻を許したのか?

答えは「ポーランドの多くの国民がそう望んでいたから」です。

第一次世界大戦では、「戦争特需」で非常に景気が良かったのですが、そのうち供給過剰となり物が売れなくなり物価が下がり、世界大恐慌が起こります。

その煽りをまともに受けたのがヨーロッパであり、その中でもナチスドイツの状態は深刻なものでした。

第一次世界大戦で破れたナチスドイツは、戦勝国に多額の賠償金を払い、国内ではハイパーインフレが起こり、失業率は国民の約半分になります。

この状況下で「ナチス党」が生まれ、ヒトラーが総統に就きます。

ヒトラーは、「失業率ゼロ宣言」をし、ハイウェイをつくったり、軍事産業を活性化させたりして公共事業をバンバン始めます。

軍事産業というのは、その周辺の業種にも大きな影響を与えます。
軍事産業を活性化させることにより、塗装、鉄鋼、火薬、造船などの業界が活性化します。
そこからさらに船内の家具、調度品など、その周辺の分野にも影響を与えます。

こうして、不況にあえいでいたヨーロッパの中で、ドイツが好景気に沸き始めました。

一方、ポーランドはいまだに景気が回復せず、国民は好景気に沸くドイツに「元を正せば同じ民族なんだから、彼らに政治をやってもらおう」という動きが始まりました。

ポーランド侵攻の裏には、こういった背景があったのです。

当時の日本の状況

当時ナチスドイツと同盟関係にあった日本ですが、ナチスドイツのポーランド侵攻の1938年から1941年12月まで、戦争をしないように努力をしていました。

当時満州国がありましたが、その満州国の特産品が大豆でした。
しかし、満州は土地柄大豆が育ちにくい環境であったため、土壌改良でリンが必要でしたが、この輸入をアメリカに頼っていました。
このリンを、アメリカが禁輸措置を取ります。
満州は「大豆経済」と言われていたほど、国民の生活を大豆のに頼っていたため、リンが入って来なくなるとその経済は壊滅状態になります。

さらに、日本に対しては石油の禁輸をします。

こうなれば、大豆の50%を満州からの輸入に頼っていた日本は生活ができなくなり、世界最強をほこる日本海軍の軍艦、戦闘機が使えなくなり、国を守る術がなくなってしまいます。

ドイツのオランダ占領と日本の油田確保

この時期、ナチスドイツはオランダを滅ばします。
そのオランダが植民地としてインドネシアに油田を持っていました。
その油田を警護はオランダ軍がしていました。

オランダが滅んだのですから、そのオランダが持っていたインドネシアの油田はドイツのものであり、理屈から言えばこの時点でオランダ軍が「不法占拠」している状態です。
石油の確保にあえいでいた日本は、ドイツから油田を借りる許可を得ました。
そして、1941年12月8日、真珠湾攻撃の日と同じ日にパレンバンに落下傘部隊を派遣してこの油田を制圧しました。

義和団事件

1900年、北京の外国人特区(11ヵ国が駐留)において義和団事件が起こります。
義和団事件とは、当時のチャイナである清が、民衆の間で結成された「義和団」を支持し、20万の人員を送り込み、そこに住んでいる外国人を皆殺しにしようとした事件です。

この時に、柴五郎大佐や安藤大尉などが奮闘し、義和団を蹴散らします。

その後、事後処理として「北京議定書」で清の治安維持のために各国の軍隊を常駐させるという取り決めが行われました。
そのうちの一国が日本でした。

スペイン風邪

ここでまた別の「事件」起こります。

スペイン風邪です。

このスペイン風邪が原因で、北京に駐留していた各国の軍隊が一斉に引き上げます。
残ったには日本だけでした。
この頃(1918年~1920年頃)に、大きな問題が起こっていました。

チャイナの共産化問題

ここで、衰退していく清に代わって、蒋介石を中心として新たな国・中華民国を建国する動きが起こります。
しかし、民主主義の中華民国を建国しようとする蒋介石と、共産主義の国家にしようとする動きで対立が起こってしまいます。

もし、チャイナが共産化すれば、スペイン風邪で出ていった国々の利権がなくなってしまいます。
そこで、フランスやソ連が蒋介石に莫大な資金と武器の援助を行います。
というか、蒋介石が各国の高官を、清王朝の宝物と女をエサに買収をするのですが。

アメリカの加担

そんな中、これをアメリカも黙って見ているわけにはいきませんでした。
奇しくも、蒋介石の妻・宋美齢は、アメリカにいたこともあって英語がペラペラでした。
宋はアメリカに渡り、物と女で政府高官を買収します。

この時、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」というリーフレットを発行します。
普通ならなんてことないリーフレットかもしれませんが、文書を寄せている面々が錚々たるメンバーでした。

フランクリン・ルーズベルト大統領、コーデル・ハル国務長官、スタンリー・ホーエンテック外交担当国務省補佐官、ヘレン・ケラーなどが名を連ねていました。

その内容ですが、「日本はチャイナを侵略している。この日本を見過ごすことは、アメリカは日本のチャイナ侵略に加担している」というものだったのです。

・・・ちょっと待ってください。

スペイン風邪で日本を置いて出ていった分際で、何を言っているの?

このリーフレットが6万部発行され、瞬く間に全米を席巻してしまいます。
超大物ばかりが書いているものです。
その影響力たるや凄まじかったでしょう。

これをきっかけに、アメリカは本格的にチャイナの援助を始めます。

「標的」のすり替え

話はすこし戻って、中華民国の建国を巡って民主主義を推し進める派と共産主義を推し進める派に別れて対立していましたが、共産主義がほぼ壊滅状態になります。

そこで1936年に、民主主義派と共産主義派、蒋介石と毛沢東が手を握ります。

共産主義が壊滅状態になったからには、各国からの「美味しい援助」がなくなるので、それを得るために今度は「標的」を日本に変えてしまいます。
お互い敵同士だったのに、お金のために手を結んだのです。

こうしてまんまと再び「美味しい援助」にありつけたのです。

アメリカは莫大な武器と資金の援助を行い、1941年には100機の戦闘機、トラック300台、5000万ドルの軍事物資、500機のB17爆撃機などを援助し、259名のアメリカ空軍のパイロットや米軍の軍事顧問団と整備士を送り込み、「フライングタイガー」という名で日本の軍事施設の攻撃を始めます。

この「パイロット」ですが、アメリカの空軍が派兵をすると「戦争」になりますので、「退役軍人」という名目で送り込んでいます。
姑息にもほどがありますが、これはもう、事実上の「戦争」です。

このフライングタイガーによる軍事行動は、1941年の真珠湾攻撃より前の、春先から夏にかけて行われていたものです。
やむなく反撃をすれば「チャイナを侵略した!」と騒いでいたというのが当時の状況です。
私たち日本人の先人たちは、一所懸命、バカ正直に「任務」を遂行していただけなのです。

諸悪の根源は学校教育

このように、真珠湾攻撃にいたるまでには複雑な「伏線」があり、単に日本軍が真珠湾を攻撃して開戦したものではないということがお分かりいただけたかと思います。
しかしながら、こういったことを学べるのはネットか本しかありません。
そのネットも、今や検閲がひどくなり、真実、あるいは世の中の流れに逆らうようなことを言おうものなら削除されるという事態が相次いでいます。

テレビでは(特にNHKでは)毎年のように終戦記念日にちなんで特番を組んで放送していますが、すべて「日本は愚かだった」という内容に終始しており、メディアが流す情報からは真実は見えて来ないというのが現状です。

メディアもひどいですが、それに輪をかけてひどいのが教育の現場です。

GHQによって徹底的に自虐史観を植え付けられた教育現場では、完全に日本が悪者にされてします。
私の父親の世代も、いまの政治家も、現在学校に通っている子供たちも、すべて自虐史観の元に育ってきました。
私が小中学校の先生は、「日本が悪い」ということだけにとどまらず、日本を馬鹿にするような発言をよくしていました。
例えば、動画にもありますが、各国の軍人が並んでいる写真で日本人が一番小さいのを見て「日本人が一番小さい」と言って笑いながら説明していました。
「日本人はトーストにバターを塗る時は薄~く塗ってケチ臭く食べるが、欧米人は厚切りのバターを乗せて豪快に食べる」と言っていたことを覚えています。

諸悪の根源は学校にあります。
こうした日本を蔑む先生らを、教育の現場から駆逐することから始めなければなりません。

この学校教育を変えなければ、日本はいつまでたっても隣国に頭を下げなければならないし、自国に誇りを持てないことになります。
我々の世代はもちろん、子供、孫の世代まで、この教育が続く限りずっとです。

もちろん、戦争に「良い悪い」はありません。
戦争が起こってしまったことは、当事者全員が反省するべきものでしょう。
しかし、日本やイラクのように、悪者に仕立て上げられて戦争をせざるを得ない状況に追いやられた国もあるのです。
ユダヤ人を大量に虐殺したドイツはまだ謝っていますか?
ベトナムで住民を殺し、略奪し、強姦し「ライダイハン」と呼ばれる混血児を多く出した韓国はベトナムに謝っていますか?

日本は、戦後76年たって今もなお、GHQが植え付けた自虐史観の路線を踏襲しています。
日本人は馬鹿ではありません。
この76年で随分とアメリカに骨抜きにされてしまいましたが、真実に気づき、自国に誇りを持つ人がまだいることがせめてもの救いでしょうか。
そしていずれはそうした人が増え、この悪しき流れに終止符が打たれることを願ってやみません。

我が国のために散っていかれた英霊の方々、罪もなく殺されてしまった多くの一般市民の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

今回勉強させていただいた動画はこちらです。



日本とヨーロッパ②

鎖国

1635年、江戸幕府はいわゆる「鎖国」をします。
翌年には長崎の出島が完成し平戸が閉鎖され、オランダとだけの交易をすることに決定をします。

これと同時に日本は武装解除をします。
幕府は日本中の鉄砲をかき集めてお寺に釣り鐘にしてしまいます。

これは、世界の他の地域が平和で安定的になったからではありません。
むしろ反対で、ポルトガル、スペインだけでなくオランダ、イギリスがどんどん世界に出始めてきていた時代です。

戦国時代では、鉄砲の伝来以来、日本はどんどんと自前で鉄砲を量産し、ついには当時の軍事力ではスペインやポルトガルでも敵わないほどにまで成長しました。
「我が国は日本には勝てない」と言わしめるにまで軍事力を高めてしまいます。

それを裏付けるエピソードとして、江戸時代には、フィリピンのマニラ沖を日本の朱印船が通った時、その海域で戦闘をしていた諸外国が一時戦闘を中止するという「事件」が起こります。

このことから推測するに、当時は日本の軍事力が他を圧倒しており、日本には軍事で手出しが出来ないと思われていたからではないでしょうか。

いわゆる「鎖国」と言われた政策も、当時の状況からみて窮地に立たされていたからではなく、むしろ優位の上に、それも相手にする国を選んで交易をするという選択をしたものと思われます。
幕府は、琉球や李氏朝鮮を従え、東アジアにおける外交秩序の確立に腐心しており、オランダとチャイナはそれよりも序列が下に位置づけられていました。
特にチャイナ(清)は幕府からはじき出され、チャイナがなくとも外交的にも経済的にも十分やっていける自信があったとされています。

というか、当時の幕府には「鎖国」という言葉すらなく、渡航禁止や蛮族打ち払い、ポルトガルとの国交断絶の令を出したという事実があるだけです。
これは完全に外交を完全に断絶するという政策ではありません。

現に、「明」から「清」に変わった時などは、明の家臣から明の再興を懇願され、当時の将軍家光は、清に2万の軍隊を送ってどうにかして再興してやろうと本気で考えていたそうです。
ただし、この計画は、当時の状況がとても再興するには無理があると踏んで実現しませんでしたが、幕府は必要とあらば海外に出ていくという考えがあったということを示しています。

「鎖国」という言葉はいつから使われるようになったのか?

では、いわゆる「鎖国」という言葉が当時なかったのであれば、この言葉はいつから使われ始めたのでしょうか?
「鎖国」とい言葉は江戸末期、1801年であり、ケンペルの「日本誌」の中の一節を、当時のオランダ通詞の志筑忠雄(しづきただお)が訳したのが最初だったのです。
ただし、この「鎖国」という言葉は、それが初見であったことは事実ですが、使用されていた形跡はなく、江戸も末期の末期、第14代徳川家茂(いえもち・1858-1866年)の時代になっても登場していません。
したがって、江戸時代においては「鎖国」という考え方はなかった・・・というか鎖国は存在していなかったという解釈のほうが正しいということになります。

江戸幕府は、国力も相当あり、国を平和的に保つには交易する相手を選べたということでしょう。
国と国の話になると分かりにくいのですが、これを人と人に置き換えれば分かりやすくなります。
最近はよく人間関係の本やYou Tubeなどで「嫌な人や苦手な人からは距離をおけ」ということが言われています。
苦手な人や悪口をいう人から距離をおくことは、自身の精神状態などを健全に保つ意味で非常に重要です。
当時の江戸幕府は国単位でそれをやってのけたということなのでしょう。

ヨーロッパと日本①

世界の分割

コロンブスとバスコ・ダ・ガマに始まる大航海時代では、当時の海に覇権を握っていたスペインとポルトガルが大西洋を分割します。アメリカ寄りの海をスペインが、ヨーロッパ寄りに海をポルトガルが支配をします。
いや、大西洋だけではなく、地球全土を視野に入れていました。

スペインはアメリカから、ポルトガルはアフリカ大陸を迂回して東を目指していました。
両国ともに、最終目的地は日本だったといいます。

これを、当時のローマ法王が承認しました(トリデシャリス条約)

南米で唯一のポルトガル語圏であるブラジルは、この大西洋を縦に割った線(トリデシャリス条約ライン)に「ポルトガル領」が入っていたためです。

当時の航海技術では、アフリカ大陸の喜望峰を回ることが困難でしたが、ようやくバスコ・ダ・ガマがインドまでの航海を成功させます。

ここで彼らは鉄砲を使って暴れます。

一般に、現在は一部のイスラム教徒と主張する人たちがテロなどの過激な行動をするというイメージが定着してしまいましたが、当時から、イスラム圏は気候が温暖でイスラム教徒は寛大でした。
対して、一貫してキリスト教徒は残酷で暴力的でした。

ポルトガルの鎖

こうして彼らは自分の領土でもない(勝手に決めた)ところに居座り、武力を用いて、外洋から来る船に対して税金をかけ、通行証を発行しはじめます。
そして、違反をした者に対しては査察をして高い税金を取り立てます。
これを「ポルトガルの鎖」といいます。

もやは「国家」ではなく「海賊」ですね。
国を挙げて海賊になった、そんな印象さえ受けます。

鉄砲の伝来

時期を同じくして、日本に鉄砲が伝来したのもこの頃でした(1543年)

朱印船

朱印船とは、徳川家康が定めた制度で、海外との交易を推奨するものです。
海外と交易をするにあたって、自分の船が海賊ではないという「朱印状」を発行して、それを携行させたことにちなみます。

では、「海賊ではない」ということをわかってもらうのにどうしたかというと、火器(大砲など)で武装をしていないということが条件でした。

ポルトガル船やオランダ船は大砲を装備することを義務付けられていたにも関わらず、幕府が日本の船にはこの装備をすることを禁じていたのです。

まるで「江戸の憲法9条」です。

これは、当時のムガール帝国(インド)と同様、新型の戦艦を建造するより、商船として交易した方が安上がりだったからではないかと、西尾幹二氏は述べています。

そして、ごくまれにヨーロッパの船(ほぼオランダ船)が朱印船に対して攻撃や略奪をすると、朱印船は反撃・阻止することなく、長崎に戻って行政官に事の顛末を報告しました。

この報告を受ければ、長崎にあったオランダ商人とオランダ船はすべて差し押さえられ、嫌疑について調査が行われ、賠償が申し渡され、罰が執行されました。

唐との関係

王朝が唐に変わってからというもの、清の時代に至るまで、「礼制」という固有の意識を前提に国家が守られてきたという側面があるようです。

「元会儀礼」といって、君主が臣下や従属国などの使節から受ける年頭行事がありました。

この場では「礼」を競い合ったと言われています。

これに空海と最澄も参列したそうです。

804年11月3日、正月元旦に開かれる元会儀礼に参加するため、二人と大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)一行が福州を出発し、4200kmの行程を昼夜問わず歩いて12月21日に長安に到着しました。
最速の馬でも100日あまりかかるところを、49日で到着するというスピードでした。

この時の唐王朝の待遇はかなりのものであったそうです。

しかし、9世紀になってから遣唐使は間遠になり、円仁が838年に出発した時と、この空海・最澄が出発した間に34年という開きがあります。
円仁が日本に帰国してから半世紀近くたった894年に次の遣唐使が計画されました。

しかし、これに異を唱えたのが菅原道真でした。

この頃というのは唐の国力が衰えて国内の治安が乱れ、航海も困難で途中では賊のために命を落とす者もあったという理由ですが、それ以上に「これ以上唐に学ぶことはない」と判断しての結果だったことが一番大きい要因だったのでしょう。

その唐は、道真公の建議が受け入れられて13年後の907年に滅亡してしまいます。

この頃の日本人、特に菅原道真公の先見の明は目を見張るものがあります。

唐の滅亡は、周辺諸国にも大きな影響をもたらします。

唐と冊封関係を持っていた国々は一斉に滅亡してしまいます。
日本がもし、あのまま唐との関係を続けていたなら、どうなっていたのでしょうか?

西尾先生は、この「事件」を古代ローマ帝国が東西に分裂した時のこととよく似ていると指摘しています。

唐の滅亡後、宋王朝になりますが、北部を遼(契丹)や金(女真族)に押さえ込まれたままで威勢がなく、唐のような強力な王朝がチャイナに現れることがなくなってしまいました。
なので、唐の崩壊をもってチャイナ文明はほぼその役割を終わらせてしまったということです。

遣唐使が廃止されたあとは、日本の国風文化の興隆の時代につながってきます。

日本の歴史 「日本列島通史」より ~受け入れた物、受け入れなかったもの~

時代は一気に7世紀辺りのお話になります。

許容と拒絶

当時の日本は、チャイナからの影響を多く受けます。

仏教、漢字、儒教、律令、科挙宦官纏足、族外婚などです。

この中で、仏教、漢字、儒教、律令は日本に取り入れられ、科挙、宦官、纏足、族外婚は取り入れられませんでした。
当時の日本に考え方や習慣に合わなかったからです。

中でも宦官、纏足はそもそも日本人にはとうてい受け入れられない物ですよね。

日本に取り入れられたものの中で、律令もやがて廃止になります。
律令の「律」は「刑法」、「令」は「行政法」です。
律令制度は、飛鳥時代の7世紀後期から10世紀に渡り実施されました。
当時日本に伝わった「唐律」にある犯罪の規模や性格が、日本の社会では理解できないようなもの多数存在していたため、そのまま取り入れるこができなかったそうです。
平安時代においても、日本には約300年間死刑がなかったことなどもその要因の一つであったようです。
この「律」に関しては改変してもうまくいかず、結局持て余すことになったようです。

現在、「ティール組織」や「ホラクシー組織」が最近もてはやされていて、「これこそが理想の組織だ」と言わんばかりの風潮があります。

しかし、現在の大多数の組織はピラミッド型で、役職の所在や責任などもはっきりとしています。
この制度にティール組織やホラクシー組織を当てはめようとしても、無理が生じることは明らかです。
それるするなら、一から組織を立ち上げてやるしかないでしょう。
それでもうまくはいかないと思います。

話がそれましたが、日本には古くから日本なりのやり方があったわけで、それに全く新しい概念のものを持ってきて当てはめようとしてもうまくいくはずがありません。

律令も、一旦は受け入れられましたが、日本の元来の制度には合わなかったため、廃止になったわけです。

郡県制と封建制

官吏(かんり)というものがあります。
官吏の「官」は「高級官僚」、「吏」は「地方官僚」です。
この「官」は科挙によって採用されていました。
身分などを問わず試験によって採用されるという制度が科挙なわけですが、この制度が郡県制を支えていました。

官はいわゆる帽子のようなものであり、実際に地方の業務を行うのは「吏」でした。

これは、皇帝が国を支配するのに必要であったからです。
「官」は科挙によって採用され、3年に一回「異動」があります。
3年に1回の異動の理由は、その土地の人情に溺れないようにするためだそうです。
こう見ると、今の日本の社会は郡県制で、公務員は試験によってされていて5年くらいで人事異動がありますので、昔のチャイナのやり方そのものといえますね。
この制度が適用されたのは明治時代です。
近代化とうまく噛み合ったのでしょう。

一方、封建制度は、将軍などの有力な者がその土地を借りて(預かって)民衆に対して政治を行うものです。
封建制度では主に世襲制です。

この封建制度と郡県制は相反するものなので、当時の日本では受け入れられませんでした。

一方、朝鮮ではチャイナの言う通りに受け入れ「小中華」となりました。
おそらくこれは、大陸に位置する関係上、自分たちが生き残るためと、前述のように、犯罪の規模や性格が似ていたから適用できたからなのかもしれません。
要は、大陸文化の影響をまともに受けていたからでしょう。

日本にあって、チャイナにはないもの

日本にあってチャイナにはないものとして、仮名、武士、幕府、紋章などがあります。

建物で見る日本とチャイナの相違点

西尾先生は、「国民の歴史」のなかで興味深い点について指摘をされています。
まずは日本とチャイナにおける、建物の違いについてです。
寝殿造は唐の宮殿を祖にしますが、それが取り入れられた頃から、著しい相違を見せます。

日本とチャイナの建築様式の相違点について、次のように挙げています。

1.土間式に対し、日本では高床式

2.寺院を除いて瓦葺ではなく檜皮葺

3.柱は丹土塗りではなく日本人好みの簡素な白木造り

4.土足で建物に入るのではなく、履物を脱いで上がる

5.ベッドではなく、畳の上に寝る

6.椅子には座らず畳の上に座る

7.チャイナは密閉式なのに対し日本は全面開放式

8.個室に対して、家全体が融通無碍(ゆうずうむげ)に大部屋式に開放的になる形式

日中の住宅関係を調べた寝殿造の研究家によれば、旧ソ連、オリエント、中央アジアなどのユーラシア大陸全土がほぼ同じ形式で、日本だけが例外なのだそうです。

次に建物と庭と外郭の関係の違いについても説明がなされています。
チャイナの宮殿と、日本の古来の邸宅についてです。
まずはチャイナから。

1.南北門を開いて東西門を閉ざす

2.左右対称形

3.中庭を持つ狭い空間を特徴とし、自然を排除

4.部屋が密閉式で各個室が仕切られている

5.窓が小さく家が防衛的であるだけでなく、都市そのものが閉鎖的で城壁に囲まれている

これは、朝鮮半島においても同様です。

続いて日本です。
例に挙げているのは宇多天皇、朱雀院推定復元図です。

1.東西南北の全門を開いている

2.建物は敷地内に自由に置かれ、左右対称ではない

3.築山があり、庭があり、池があり、自然を導入している

4.部屋が開放的で、個室に仕切られていない

5.戸口が大きく開放形式であり、また、奈良にも平安にもそもそも城壁はない

東洋 vs 西洋ではなく、日本 vs 大陸

こうして比較すると、日本とチャイナの間でも大きな違いがあることに気付かされます。
チャイナの様式は、ヨーロッパのそれと類似していることから、俗に言われる「東洋と西洋」という括りではなく「日本と大陸」と括る方が自然なのです。

そのことについて、西尾先生は以下のように述べています。

日本は東洋の一角にあるために、長いあいだ日本の文化は東洋の文化の一種だと思われてきた。

儒教文化圏、漢字文化圏、稲作文化圏といった言葉が、日本文化が東洋の大陸文化のなかの一変種であることを、さながら自明の前提であるかのように思わせてきた。

しかし、日本の文化の歴史を探求し、そのあり方を考えていくと、大陸文化の影響は表面的であって、むしろ治乱興亡めまぐるしい大陸とは大いに異なる側面を持っていることに、いやでも気づくことが多いのである。

(中略)

東洋と西洋とは対立するように考えられてきたが、どちらもが地続きの一つの大陸である。

(中略)

大陸では独立した民族の生活文化は簡単には成り立たなかった。
様々な民族が征服したりされたりしながら入り乱れて、怒涛のように動いてきた歴史が存在し、人の命がいかに粗末に扱われてきたかは驚くばかりである。

先生のおっしゃる通り、大陸では違う民族が支配をしたりされたりしながら目まぐるしく入れ替わっています。
「唐律」が日本に合わなかったという点においても、そのことが伺い知れると思います。
いまでは「東洋と西洋」という考えが一般的でしたが、こう考えると「日本と大陸」と考える方が自然だと言えます。

そして、その決定的な要因は言語であると述べています。
日本語はユーラシア大陸のどの言語にも属さないことが明らかになったそうです。

しかしながら、チャイナから影響があったことは確かです。
では、なぜそうなったのでしょうか?

その理由は、地理的な関係にあります。
日本の東には大きな太平洋があり、背中には大陸を背負っています。
したがって、世界の情報のすべては、当時は大陸からしか伝わって来なかったのです。

これを完全に拒否することは不可能です。

模倣して受け入れるか、さもなければせいぜい距離をとって遠ざかろうとするしかありません。

そうして取り入れるところは取り入れ、自分たちに合わないところは拒否をして、うまく距離を取る必要があったのでしょう。
この精神が、日本を長い間に渡って存続し続けていられた要因の一つではないでしょうか。

そしてその精神は、現在でも引き継がれています。

日本人は海外の文化を取り入れ、自国用にアレンジし、そして発展させることが得意ですよね。
そして、いつしかオリジナルを越えるレベルにまで昇華させてしまいます。

日本人が世界から尊敬される一つの要因だと思います。




日本の歴史 「日本列島通史」より ~弥生時代~

民族大移動と無文字社会

この中で西尾先生は、「たしかにシナ人が先に文字を作った。しかし、全ての人間の感情を表現するには足りない。しかし、高度な感情表現をなす言語生活を送っていたに違いない。無文字社会が豊かで深い思想を別の形で表現していた、ということを考える必要がある」と述べています。

ちなみに、「シナ」という呼称は何も侮蔑的な言葉ではありません。
英語では「チャイナ」、フランス語では「シノワ」、スペイン語では「チーノ」、ドイツ語では「ヒーナ」と呼んでいるにも関わらず、日本が「シナ」というと噛み付いてくるのはおかしいですよね。
今でも「小日本」などと呼んでいる国に、そんなことを言われる筋合いはありません。

「中国」という呼称は「中華人民共和国」とか「中華民国」の略称ならかまいませんが、この地域は王朝が頻繁に入れ替わっているため、地域や歴史的な関わりを指す用語は「シナ」が適当なのです。

日本は建国以来ずっと一つの国ですのでどこを切り取っても「日本」ですが、唐や隋や秦のことを「中国」というのは、違います。

縄文人と弥生人

「縄文人」「弥生人」と聞くと、あたかも違う人種や民族というイメージを持ちますが、この呼称は考古学での呼び方であって、人種や民族という括りではないということを先に知っておかなければなりません。

民族大移動

なぜ、こんなイメージが出来上がってしまったのか?

それは、紀元前300年頃に、おびただしい数の渡来人が上陸し、次々と生活圏を広げる「民族大移動」があった、という漠然とした思い込みが、一部の研究者の意識を縛っているからです。

通説では、朝鮮から民族の大移動があり、弥生時代に稲作が普及したというふうに考えらてれいますが、西尾先生はこれを否定しています。

結論から言って、これは、人間が移動したのではなく、情報が移動したということです。

通説であれば、弥生時代に急速に稲作が始まったような印象がありますが、実際には情報の伝播とともに、何世代にも渡ってゆっくり浸透していったのではないか、ということです。

これを先生は日本人の明治の服装の変遷を例に挙げています。
先生のお母さんは、明治の終わり頃の方で、その頃の服装は着物でした。
これが、先生の兄弟くらいの世代になると、着物と洋服が半々くらいになり、今では洋服が主流になっています。

稲作は縄文時代からすでに始まっていましたが、徐々に弥生式、いわゆる水田耕作が浸透していった、ということです。

そして、最も注意すべき点は、弥生文化を担った主体はどこまでも縄文人であったということです。

稲作文化を持ってきた外国人が大挙して押し寄せてきて、縄文人を駆逐したのではないということです。

東北地方でも弥生時代の水田跡が見つかっています。
しかし、土器は縄文の形態をそのまま受け継いでおり、西日本のように一変していない点が興味深いです。
また、銅鐸や鳥形木製品なでの、弥生時代を象徴するような祭礼用の道具も発見されていないことから、東北では水田稲作にあえて頼る必要がなかったということを物語っているそうです。

農業というのは、病気対策や雑草刈り収穫までに実に多くの作業が必要になります。
わざわざそんなことをしなくても、この頃は海に行けば魚が取れ、山に行けば山菜や動物が取れるというように、食料が豊かだったので、あえてそんなしんどいことをしなくても生活が出来ていたと考えられます。

いときょうさんがおっしゃるに、当時の東北は現在の西日本のような温帯の中にあり、逆に西日本は熱帯に近い気候であったらしいのです。
そう考えると、現在では冬にとてつもなく寒くなるような東北において、高度な文明が発達したこともうなずけます。

弥生人が縄文人を駆逐した?

もうひとり、日本の歴史に明るい小名木善行さんのお話によると、このような内容です。
私はこれを支持します。

よく聞く説として、「多くの渡来人がやってきて、平和に暮らしていた縄文人を駆逐し、新しい文化を日本にもたらした」というようなことを言う人がいます。
日本の文化を奪ってやりたいなどと思っている人たち、あるいは、外国の文化が優れているという先入観のある人などは、この説を支持するでしょうが、そういった証拠はどこにもありません。

そういったことを支持する人などが書いた本などには、縄文人の人骨は平べったくて弥生人のそれは面長である、などと書かれています。
しかし、面長の顔の縄文人も多数発見されており、決して縄文人=平べったい顔ではないということです。

こういった断片的なデータだけをつなぎ合わせて結論付けているにすぎません。

「縄文人」「弥生人」の違いというのは、言い換えれば「大正人」と「明治人」と言っているようなもので、そもそも同じ日本人です。
ただ、何らかの事情があって、生活様式が大きく変わってきた、ということに過ぎないということが、最近の研究の主流になりつつあり、この説を覆せるほどの証拠はないそうです。

縄文から弥生へ

今から約3000年前に、縄文から弥生に移り変わり、弥生式土器や埴輪が生まれました。
縄文時代の土偶には武器を持ったものが見つかっていませんが、弥生時代の埴輪には武器を持っているものがあります。

このことから、弥生時代には武器を持つ文化が入ってきたことは明らかです。

ではなぜ、そのような文化が入ってきたか?

その頃の倭人(この表現はあまり好きではありませんが)たちは半島に進出していたそうです。
半島のその向こうは大陸の国があり、そこは戦国時代であり、大変な殺し合いが行われていました。
そこで負けた人たちが流れて倭人たちの村を襲撃するといったことが頻繁に行われていたのではないか。
そこで倭人たちは武装せざるをえなくなったのではないか、と言われています。

また、縄文式土器のような精巧な土器を手間ひまかけて作ったとしてもすぐに割られてしまう。
そうなれば、簡単なものでいいという考えから、簡素な弥生式土器に変わっていったのではないか、とおっしゃっています。

こう考えれば、なぜ複雑で精巧な縄文式土器から弥生式土器に移っていったのか、納得がいきます。

また、「縄文時代は狩猟採取で、弥生時代に稲作文化が始まった」とされる説はもう、ほぼ否定されています。

日本の歴史 「日本列島通史」より ~縄文時代~

今回は、ダイレクト出版から発売されている、「日本再興戦略」ー新しい日本を再定義するー 現代日本論「日本通史」編」より、個人的に興味深かったものを取り上げ、先生の著書「決定版 国民の歴史 上 (文春文庫)」と併用し、さらに、いときょう氏の「古代史ホツマツタヱの旅 第1巻」や、わたしの意見などを交えてお話をしようと思います。

今回お話をいただく方は、西尾幹二先生です。
西尾先生は1935年、東京に生まれ東京大学文学部、同大学院修士課程を修了された方で、1979年に「初期のニーチェ」で東京大学より文学博士を授与され、2015年には瑞宝中綬章を受勲されています。

「国民の歴史」は、現在中古でしか出回っていないようですが、是非手に取って読んでいただけたらと思います。

外の概念

日本人は日本の外に概念を持つことができないそうです。
どういうことかというと、ドイツ人、フランス人、イタリア人は「ヨーロッパ」という概念を持っています。
あるいは「キリスト教文明圏」という概念を持っています。

日本人には、その「外をなす共同体」という概念がないのです。

一方、中華は「中華しかない」という考えで、「我が国こそが世界の中心だ」という考え方です。
この思想が、チベットやウイグル、南モンゴルの弾圧や南シナ海の領土問題の火種になっているわけです。
またいずれチャイナは「日本もうちの一部にしてやろう」という考えを持っています。

日本人の来歴

一般に人類の起源について聞く時、「アフリカ起源説」が有力とされています。

つまり、アフリカから原人が現れ、2つのルートを通って分布された。
一つは陸路を通って日本・シベリアを横に見て、ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に入り、南アメリカまで行った。
これがインディアンとインディオの祖先。
もう一つは海路を通ってニューギニア、オーストラリアを経て南アメリカ大陸に到達した・・・という説です。

しかし、これはあくまで「説」であり、はっきりしたことはいまだに分かっていません。

西尾氏は、その分派の一つが入って来たのだろうと述べています。
ただ、日本という国は、民族文化が深く一つであるにもかかわらず、人種が多様であることに注目をされています。

血液検査で分かったことは、ストランド(インドネシア方面)、江南(チャイナ)、シベリアから来ているということです。
もちろん、一番近い位置関係にある朝鮮からも入って来ています。

そして、朝鮮人の方がむしろ純血度が高く、朝鮮半島よりも多様な人種がこの日本列島に住んでいたそうです。

近寄りがたい環境

当時、太平洋、特にその北側は広すぎてヨーロッパの船でさえも日本には近寄れなかったそうです。
1766年、イギリスのクック船長が第一回目の探検まで待ちます。

それまでは、ヨーロッパを出た船というのは、南アメリカを回り、南太平洋の島々を渡りながらフィリピンまでたどり着き、北上して日本に立ち寄ることなくそのまま西に進路を取ったり、来た道を引き返すというルートを取っていたそうです。

その中で(1000年、2000年という長いスパンの中に)漂流してたどり着いた外国人たちがいたらしいのです。
しかし、彼らは日本から出ていくということはしませんでした。

太平洋が大きすぎたからです。

これが他の国々と違うところなのだそうです。

他の国々、例えば日本の西に目をやるとユーアラシア大陸があります。
大陸では常に民族同士が争い、覇権抗争が絶え間なく繰り広げられてきました。

その中には滅んだ民族があったり、興隆する民族があったりしました。
また、この争いの結果、「自分たちの民族を守らなければならない」という考えが起き、結果的に純血度が高くなったそうです。
なので、朝鮮半島の方が純血度が高いという結果にりました。

一方、日本ではどうだったか?

縄文時代の終わり頃までは、戦争はありませんでした。
その時代の遺骨に、そういった跡が見当たらないのだそうです。

日本は地形的な背景もあり、一旦入ってきた民族は出ていかなかった。
争いもほとんどなかったので、その地勢風土ににを任せて暮らす方が幸せだという考えが日本にはあったのではないか、と西尾先生はおっしゃっています。

これが他の地域との大きな違いとなったのです。

縄文文化

このように、日本は古来より、地政学的に守られていました。
では、このような環境下で文化があったのかどうかというところが気になります。

結論から言って、もちろんありました。
例を挙げていきましょう。

縄文尺

35センチを「一尺」と定めていました。
例えば、東日本を中心に発掘された住居跡の柱と柱の間の間隔や、二つの抜き穴の間隔や、地表から床板までの高さなどが、ことごとく35センチの倍数で成り立っているそうです。

稲作文化と栽培

私たちが習った歴史の教科書には、稲作は弥生時代に中国から伝来したということが書かれていて、それが「通説」のようになっていますが、実は縄文時代からすでに稲作があったことが学会での定説になっています。

この頃の稲作というのは天水田(てんすいでん)といって、用水路を使わず雨水を利用したものだったそうです。

ホツマツタヱの研究をされている、いときょう氏は、縄文には陸稲(おかぼ)といって畑で栽培する方法が取られていたそうです。
陸稲についてはこちらをご参照ください。

畑で作られる「陸稲」とは? 品種や栽培方法を紹介

もちろん、「稲作文化」と呼べるようになるには弥生時代まで待たなければなりませんが、それまでは必要とされていなかったわけで、この事をもって「縄文=原始社会」ということにはなりません。

日本で「農業」というと稲作が普通ですが、西洋をはじめとした世界各国では「放牧」と「牧畜」です。

たしかに、私がスペインのカミノを歩いた時も、沿道のいたるところで牛を飼っており、農作物を作っているところというのはあまり見かけませんでした。

カミノにて

東日本にはブナの森が広がり、他にはナラ、クリ、クルミなどの落葉広葉樹林に覆われていました。
一方西日本にはスギ、カシ、シイ、クスノキなのどの常緑広葉樹林に覆われていました。
これが、縄文後期にはスギが東日本にも広がり、ブナ、ナラなどが退きました。

クリは野生のクリの実とは遺伝子配列が違っているところから、栽培が縄文時代から行われていたのは間違いないという推論がなされています。
そして縄文後期には、クリの自然分布を離れた北海道の石狩低地にまで広がっています。

他にはエゴマ、豆、ソバ、アサ、ホオズキなどが栽培されていました。

ホツマツタヱでも、クリの木の栽培について触れられており、この点では氏の見解と一致しています。
米が主食になる前、縄文人たちの主食がクリであり、大規模な栽培が行われていたことが記されています。

そういえば、昔の発心門地区の住民の方々の主食はイチイガシのどんぐりであったと聞いたことがあります。
これは、この地が地形的に山がちで灌漑用水を引くことが難しかったため、稲作に適していなかったことが要因です。

その後、当時の新宮藩士の河野氏によって開墾され、稲作が可能になりました。

牡蠣の養殖

東京都北区中里貝塚では、マガキとハマグリの干し貝作り跡(!)が発見されています。
それに続いて、牡蠣の養殖場跡も見つかりました。

魚の保存文化

秋田県池内遺跡は、海から50km離れたところにありながら、ブリ、ヒラメ、サバ、ホシザメ、エイ、ニシン、イワシなど11種の海の魚の骨が見つかっています。
しかしこれらの頭の骨が発見されていないことから、海岸部で頭や内蔵を取り出し、天日干しや塩漬けにして運ばれたもので、海の人と山野の人が物々交換をしたり、市が立ったりする流通組織があったのではないかと関係者の間で話題になっているそうです。

また、同じ遺跡から酒をつくるために搾ったヤマブドウ、キイチゴ、ニワトコの種が約30万粒も見つかりました。
このことから、当時から一度に大量の酒がつくられたのではないかと語る専門家もいます。

土器

縄文文化の中で、なんと言っても注目すべきところは土器の古さと多様さだと、西尾先生はおっしゃっています。

日本以外の地で、世界で一番古い土器は、西アジアの8000年前。
かたや日本のそれは16500年前でぶっちぎりの古さです。
それもただ単に古いというだけではなく、質量ともに抜群なのだそうです。

西アジアの土器はすべて食べ物を貯蔵する用途に用いられていたのに対し、日本列島の土器は早くから煮炊き用に使われていたそうです。
なので、加熱の跡を残しています。

大切なのは「無変動文化」ということで、これはエジプトの文明などと同じものです。
その最たるものが土器文明です。

その他

その他縄文文明には神殿、天文学、外洋航海術、家畜の飼育なども行われていました。

特に神殿建築においては、まれに見る高度な建築技術が駆使され、この工法は、奈良時代以降の社寺建築に一般的に用いられていたものと全く同じなのだそうです。
4500年前の建築様式に、そんな高度な技術が使われていたとは、驚きです。

このような建築技術がありながら、文字がないということは考えられません。
なので私は、漢字伝来以前から日本には文字が存在していたと考えています。