闘鶏神社の朱塗りと本宮大社

世界遺産に追加登録された、田辺市にある闘鶏神社では、このたび社殿の修復と江戸時代末期の色彩を復活させたそうです。

闘鶏神社は、424年に本宮大社より勧請された非常に歴史のあるお社です。

昔の熊野への巡礼は、体の悪い人にとっては非常に厳しいものでした。

そういった人たちが闘鶏神社をお参りすることで、本宮大社にお参りしたのと同じとしていたらしいです。

紀伊民報によると、社殿は約360年前に2棟が再現されて以来、修復作業は数回あったそうですが、今回のものが一番大掛かりだったようです。

本宮大社も、江戸時代の大火事以来は現在の白木造りになっていますが、もとは速玉大社や那智大社と同じように朱塗りの建物でした。

朱には意味があり、一つは仏教の影響を受けているということです。
朱(または赤)は魔除けの色とされており、これを塗ることにより、邪悪なものを寄せ付けないという意味があります。
もう一つ、朱には水銀が含まれているため、防腐剤として材の保護の役割もしていました。

本宮は真っ先に仏教色を排除しています。

ではなぜ本宮がその仏教色を排除したのか?

ある方から聞いた話なので真相のほどは定かではないですが、当時、熊野三山には「社僧」と呼ばれるお坊さんがおり、この方たちがそれそれのお社の管理を取り仕切っていました。

社僧とは文字通り「お社の僧」、神社のお坊さんです。

今の時代からすれば変に映りますよね。

その社僧と宮司の仲が悪かったために、宮司が社僧を追い出したという話です。

真相はさておき、神仏分離令のずっと前から仏教色を排除した本宮大社。

ただでは済まない理由が他にもあるかもしれませんね。

野生動物に餌を与えてはいけない

時折、野生動物に餌を与えている人を見かけることがあります。
熊野古道沿いでも、トビに餌を与えている地元の人を見たことがあります。

しかし、野生動物はもともと、自分の力で餌を探して得ることができるものです。

それを、人間が安易に餌を与えることによって味をしめ、人への警戒心がなくなり、人に怪我を負わせる事件も発生しています。

普通、野生動物は人を警戒して寄ってきません。

野生のサルは人を見れば逃げていきますが、餌付けされたサルは人に寄ってきます。
餌を持ったままあげないでいると怒り始めます。

当会の会員が近露の河原でお弁当を食べている時に、トビにコロッケを奪われたそうです。
幸い怪我はなかったそうですが、一歩間違えればトビの鋭い爪で大怪我をしていたかもしれません。

白浜や新宮城跡でも、同じような被害が起きています。

原因は人の餌付けです。

白浜では、釣り人がイカ釣り用の余ったアジをトビに与えているところを見たと、たまたま居合わせた観光客から聞きました。

野生動物がひとたび餌付けの味を覚えると、自分で餌を探さなくなります。
また、人を「警戒する対象」から「餌をくれる対象」へと変わるため、人への警戒心が薄れます。
警戒心が薄れた結果、人を襲ったり、民家の中にまで入って食べ物を漁るという行為に発展します。

また、人間が食べる食べ物は野生動物の体には合わないこともあります。
結果的に免疫力が下がり、病気を起こしてしまうこともあるようです。

直接的ではなく、間接的に餌付けをしている場合もあります。

熊野古道では、食べ物を古道沿いに捨てる行為がそれにあたります。

以前お客様から、
「バナナの皮を山に捨ててもいいだろう?」と聞かれたので、
「ダメだ」と答えると、
「自然に還るからいいだろう」と食い下がってきたので、
「そのバナナの皮を捨てることによって、古道にイノシシなどが出てくることになる」と言ったら納得してくれました。

食べ物は自然に捨てないようにしましょう。

こうして餌付けをすることによって人に危害をくわえた結果、悲しい末路をたどる動物もいます。
森の動物に餌を与えないで 一本のソーセージが招いたヒグマの最後

こちらの記事もご参照ください。
動物の餌付けがどのような問題を引き起こすか、詳しく書かれています。
野生動物への餌付けと問題点について

川船瀞峡体験に行ってきました

熊野川川船センターが3月30日から運行する川船瀞峡体験に行ってきました。
熊野交通のウォータージェット船が運休となり、瀞峡を訪れる機会がめっきり減ってしまっていましたが、これで瀞峡も賑わいそうです。

We went to experience the riverboat Doro-gorge, which will be operated by the Kumanogawa Riverboat Center starting March 30.
Since Kumano Kotsu’s water jet boats have been out of service, opportunities to visit Doro-gorge have been drastically reduced, but now Doro-gorge is expected to become more crowded.

運行期間:3月1日~11月30日(12月~2月は6名以上の団体であれば応相談)
出船時間:9時から1時間おきで最終便が午後3時。
毎週月曜運休(月曜日が祝日の場合は運行、翌平日運休)
乗船時間:約40分
最少催行人数:2名
乗船料:一人3,000円(4歳~小学生は1,500円)
問い合わせ:熊野川川船センター
電話:0735-44-0987

Operating period: March 1-November 30 (December to December) (In February, groups of 6 or more people are welcome.)
Departure times: every hour starting at 9:00 a.m., with the last service at 3:00 p.m.
Closed every Monday (if Monday is a national holiday, the boat will be in service on the following weekday).
Boarding time: approx. 40 min.
Minimum number of people: 2
Boarding fee: 3,000 yen per person (1,500 yen for 4-year-olds to elementary school students)
Inquiries: Kumanogawa Riverboat Center
Phone: 0735-44-0987

しかし、今後SUPができなくなるのでは?と少し心配をしております。
However, will we not be able to do SUP in the future? I am a little concerned.

心配していた雨も出発前には完全にあがり、春の暖かい日差しが柔らかく降り注ぐなか、船頭さんの案内と、すばらしい操舵技術も手伝って、気持ちよく楽しむことができました。
The rain that we had been worried about had completely stopped before departure, and we were able to enjoy the boat under the soft warm spring sunshine, guided by the boatman and his excellent steering skills.

今日は水面に霧がかかっていて非常に幻想的でした。
It was very fantastic with fog on the surface of the water.

午後からは、当会会員さんに筏師の道の一部と、集落跡を案内してもらいました。
どちらもすばらしく美しいところでした。
あまり人が来ると荒れてしまう可能性があるため、あまり人に教えたくない気持ちにさせられました。
In the afternoon, a member of our association guided us to a section of the Raftsman’s Road and the ruins of a village.
Both were wonderful and beautiful places.
I was made to feel that I did not want to tell too many people about them, as they might become desolate if too many people came.


神倉神社、しめ縄交換

次回の現場研修(新宮)の下見に行ってきました。
前年は油断をしてしまい、思うような内容で案内ができなかったので、今回をその失敗を晴らすべく、結構気合を入れております。

その中で、神倉神社を訪れた時、しめ縄の交換作業に出くわしました。

すでに縄を結った後に毛羽立った藁をはさみで整える「最終段階」でした。

この「ローラー」で藁を柔らかくしてから編むそうです。

しめ縄の長さは約20m、重さは約200kgあるそうです。

神倉神社に上がると、しめ縄のないゴトビキ岩が。
一年に一度、この時間帯しか見られない光景です。

しめ縄を担いで「あの」階段を上ってきました。

神倉神社に到着。

ゴトビキ岩に一人が上り、上から針金でしめ縄を吊るします。
・・・ご神体の上に乗るんですね。
いいのか?(笑)
写真では見にくいですが、下からは刺又(さすまた)で持ち上げます。

ちなみにこの日は、語り部さんの案内で訪れました。
昨日の、知識を得るにはどうすればいいかという質問のもう一つの答えになりますが、語り部さんにお金を払ってお話を聞く方法が一番早く多くの情報を得ることができます。
語り部さんの知識の豊富さには本当に頭が下がります。

ありがとうございました。

あぶり鮎

昨日、今度の青森での講演のネタに、中辺路地域で少し写真撮影をしてきました。

滝尻王子近くの「あんちゃんの店」に立ち寄った時、秋の風物詩・あぶり鮎があったので買いました。

以前から気にはなっていたのですが、購入するに至りませんでした。

本来なら落ち鮎を使って作るそうですが、そうすると出来上がった時に身が細くなって格好が良くないので、今年は脂が乗った鮎を使ったそうです。
ただし、脂が乗った鮎はすぐに質が落ちるので早めに食べてくださいとのこと。

食べ方は、身をほぐして炊き込みご飯にしたり、電子レンジで15秒ほどあたためてから醤油で食べるといいとのこと。
わたしは電子レンジで温めたあと、天日塩でいただきましたが、これが美味かった・・・

ちなみに、頭や骨まで食べれます。

炙り独特の香りがありますので、たぶん熱燗に入れても美味しいと思います。

値段は5匹で3,500円(税込)です。

ちなみに写真は4匹です。
すでに1匹はわたしの胃袋の中にあります(笑)

熊野のバス事情

今回は、熊野のバス事情についてお話します。
中辺路については結構整備されていて、発心門王子のような山奥(?)にまで停留所があります。
現在の問題点や、改善された点などについてお話します。

間違いやすいバス停名

以前にくらべ、随分と改善されましたが、いまだにややこしいバス停が存在します。

発心門口と発心門王子

この2つのバス停は、以前は「発心門」と「発心門王子」でした。
本宮大社前から乗ったお客さん(日本人を含む)が、よく「発心門」で降りようとしていたので、バス会社が変えたのでしょう。
そこで、この「発心門」を「発心門口」としたわけですが、外国人には「Hosshinmon-guchi」が「Hosshinmon-oji」にも聞こえるようで、やはりここで降りようとする外国人が後を絶ちません。
さらなる改善が必要だと思います。

湯の峰温泉と下湯の峰

日本人なら間違うことはありませんが、外国人は「Yunomine」という言葉が入っていると「ここか?」と迷うようです。
ガイドをつけていない旅行者がほとんどですので、同乗している時に「違いますよ」と言ったことが何度もありました。

改善されたバス停

参考までに、これまでややこしかったが改善されたバス停を。

「熊野本宮」と「本宮大社前」

現在は「熊野本宮」が「大日越登り口」に変更されましたので、今は間違って降りる人はなくなりました。

「大門坂」と「大門坂駐車場」

大門坂駐車場から約100m先に「大門坂」というバス停がありました。
「大門坂駐車場」で待ち合わせの時に、お客様が「大門坂」で降り、危うくミスミート・・・という事が以前はよくありましたが、「大門坂」と「大門坂駐車場」を統合し、バス停の場所は「大門坂駐車場」、名前を「大門坂」としたことでこういったことはなくなりました。

「那智駅前」と「那智駅」

前回の記事、「下見では何を見ればいい?」にも書きましたが、新宮方面から那智山に行く際に、那智駅で乗り換えなければいけませんが、降りるバス停が「那智駅前」、那智山行きは「那智駅」で乗らなければならず、知らないお客さんは混乱していました。
現在は駐車場をターミナルのように改装し、「那智駅」として統合されました。
もうひとつ欲をいうなら、新宮から那智山へ直通の便があれば非常に助かりますがね。
接続が悪すぎます。

他に間違えた事例

みんなが降りていたから降りた」

もうこれは笑うしかありませんが、バス停の名前を確認せずにみんなが降りていたから降りたお客様がいました。
ちなみに、私のお客様ではありませんでしたが。

単にバス停の勘違い

待ち合わせ場所に、約束の時間にお客様が現れず、宿に電話をしようと思っていたらお客様から直接「間違えた」と電話がかかってきた場合がありました。
この場合は、お客様が電話をしてくれたので会うことができましたが、電話がなければ会えずじまいでした。

間違えないようにするためには

ガイドがついている場合は間違うことはほぼありません(間違った人もいますが)が、問題は、解散後にお客様が自分たちで目的地に向かう場合です。
旅行会社からもらった行程表にはきちんと降りるべきバス停が書かれていますが、結構行程表を持ってきていない方もいらっしゃいます。
そんな場合は、英語名と日本語名でバス停の名前を書いたメモをお渡ししています。
たとえば、降りるべきバス停が「権現前」だとすると「Gongenmae」「権現前」と書いてお渡しします。
読み名を英語で、バス停名を漢字(視覚)で確認してもらうためです。
また、運転手さんに「権現前で降ろしてあげてください」とお伝えする場合もあります。
運賃も一緒にお知らせしておくといいでしょう。

また、降りてから宿まで行く場合、周辺の地図があればお渡ししています。
たとえば、本宮大社前から湯の峰温泉や川湯温泉に行く場合は、本宮館で地図をもらってきてお渡しするようにしています。

だいたいの場合、わたしはあらかじめお客様が泊まる予定の宿の近くに車を置いて、そこからバスで待ち合わせ場所まで向かいますので、終了後は宿までご一緒することが多いです。

翌日続けてお会いする場合や、違うガイドが翌日担当する場合などは、翌日に乗るべきバス停と時間を確認してお別れしています。

現金での支払

本宮には龍神自動車、明光バス、熊野交通、奈良交通、十津川村営バスの4社が入り混じっています。
運賃に差はありませんが、支払い方法は奈良交通以外は特殊な「3日間周遊チケット」などを除いて基本現金オンリーです。
この点では、三重よりも遅れているという印象が拭えないですが、導入と維持管理に莫大なお金がかかるため、導入に踏み切れていないという現状があるそうです。

慣れないお金で、細かい金額を用意することは、なかなか骨が折れます。
また、五円硬貨のようにアラビア数字で書いていない硬貨もありますので、外国人には難しいようです(よく五円硬貨を見せながら「これはいくら?」という質問を受けます)
これが到着時間の遅延を生み出しています。
時には30分遅れという事態も発生していますので、何とか改善してもらいたいところですが、なかなか強く言えない部分でもありますね。

大辺路沿いはそもそも路線バスがない

大辺路で一番困ることが、路線バスがないことです。
一応、町が運営しているバスはありますが、運営が町単位なので、たとえばすさみ町と串本町がまたがるような場合は乗り換えが必要になります。
また、路線によってはあらかじめ予約をしておかなければなりませんし、「地元住民の足」という位置づけなので、可能性は低いですが、仮に住民で満席になれば「乗車拒否」という可能性もあります。
ただ、大辺路沿いには運行頻度は低いですがJRがありますので、「駅から駅」という歩き方で対応ができるところが多いです(富田坂は無理です)

以上、熊野のバス事情でした。
バス会社の努力によって、以前に比べれば本当に改善されています。
お客様の要望に沿って柔軟に対応できる姿勢は見習いたいところです。


皆地笠(みなちがさ)

昨年、2019年に購入した皆地笠

8/30付の紀伊民報、「水鉄砲」に皆地笠が紹介されていましたね。
https://www.agara.co.jp/article/78040?rct=mizu

「皆地」とは、本宮町皆地が産地であることから名付けられましたが、歴史はかなり古く、平安時代から熊野参詣に来る人々は身分の分け隔てなく被っていたことから「貴賤笠」とも呼ばれていました。
皆地笠は桧で作られていて、晴れの日は通気性がよく、雨の日には防水機能を備えているすぐれものです。
購入時は桧特有の薄いピンクがかった色ですが、時間がたつときれいな飴色に変化します。

昨年、わたしも芝さん宅にお邪魔をして皆地笠を購入しましたが、もったいなくて使っていません(笑)

代わりに、わたしの破れた皆地笠を哀れに?思った、前・小口自然の家のご主人の小河さんから、玄関に飾ってあった皆地笠をいただき、それを使っています(笑)
なので、笠にはしっかりと「小口自然の家」と書かれています。

小河さんがいる頃にその笠を被ってもっと宣伝しておけばよかったです。

水鉄砲にも書いている通り、皆地笠は材料の見極めが経験と勘に頼るために難しく、言語化できないらしいです。
また、材料の選択を誤ってしまうと、濡れたときに笠の形が歪んで壊れると聞きました。
見習いの何人かが芝さんの元に来ましたが、みんな続かなかったそうです。
ちなみに、和歌山県では見習いの方に補助金を出して保全に努めていましたが、この政策も功を奏さなかったようです。

しかし、来年で100歳とは驚きですね。

少し耳が遠くなっていて会話が難しい時がありますが、「幸い手が動くから作ることができる」とおっしゃっていました。
今は一日に2~3枚しか作れないそうです。

笠を編む事自体は、もちろん練習が必要ですが、材料の見極めに比べれば難しくないらしく、皆地出身の語り部さんから聞いた話では、全部を編んだのか、それとも笠のてっぺん部分だけを作ったのかはわかりませんが、子供の頃に小遣い稼ぎのために編むのを手伝ったそうです。

そんな皆地笠も、近い将来お目にかかることができなくなるのかと思うと、寂しい気持ちになりますね。

速玉大神について考える

今日は熊野三山の御祭神の一柱、熊野速玉大神について考えたいと思います。

熊野で異名を持つ神々

熊野三山で祀られているそれぞれの主祭神は、一般の呼び名とは違うことはみなさんもご存知のことだと思います。
熊野では家津御子神はスサノオ、熊野夫須美大神はイザナミ、熊野速玉大神はイザナギとされています。

先輩ガイドから聞いた話では、「それぞれの土地で神様の呼び名が違うことがあるように、熊野三山でのこれらの呼び名は、熊野での呼び方」ということでした。
いわゆる、「神様の方言」のような感じでしょうか。
しかし、どういう経緯でそのような名前になったのかという説明がありませんでした。

以前の記事「ソサノヲとクマノ宮」でもお話したように、ホツマツタヱからの解釈では、ソサノヲはイサナミの汚気(おけ)が移った子という意味でした。

「けつみこ」の「け」は「食べ物」を表すので、家津御子神とは、食べ物を司る神だという話を聞いたことがあります。
もちろん、「け」は食べ物の意味も表しますが、スサノオは食べ物の神ではないため、この場合は当てはまらないと思います。

では、速玉大神はどうでしょうか?

速玉さんについて、私が聞いた話や、本で読んだ話を交えてお話をしていきます。
なお、現在の速玉大神の解釈を否定するものではありませんので、あくまでも「一解釈」として読んでいただければ幸いです。

日本書紀に見る速玉大神

古事記を読む限り、「速玉大神」あるいは、それに似た名前の神は登場しません。
日本書紀に唯一、「一書(第十)にいう」として「速玉之男」として登場します。

伊弉諾尊(イザナギノミコト、以下カタカナ表記)が伊弉冉尊(イザナミノミコト、以下カタカナ表記)のおられる所にいらっしゃって、語っておられるのに、「あなたが愛しくてやってきた」と。
答えて言われる。「どうぞ私を見ないでください」と。

イザナギノミコトは聞かれないで、なおもご覧になっていた。

それでイザナミノミコトは恥じて恨んで言われるのに、「あなたは本当の私の姿を見てしまわれました。私もあなたの本当の姿を見ましょう」と。

イザナギノミコトは恥ずかしいを思われたので、出て帰ろうとされた。
その時ただ黙って帰らないで誓いの言葉として「もう縁を切りましょう」と言われた。

また、「お前には負けないつもりだ」と言われた。
そして吐かれた唾から生まれた神を名付けて速玉之男という。

次に掃き払って生まれた神を、泉津事解之男(よもつことさかのお)と名付けた。

二柱の神である。

 

お名前は出せませんが、ある宮司さんからも同じような話を聞きました。
さらにその宮司さんの話では、昔は誓約(うけい)をする時に、「事を分ける」という意味で唾を吐き合ったそうです。
その時に生まれた「仲介の神」が速玉之男、そして、誓約を交わしたこの誓約の言葉によって生まれた神(事を分ける神)が事解之男(ことさかのお)であり、この二柱の神は一対をなすので、別々に祀られているより一緒に祀られているほうが自然だというお話でした。

そして、日本書紀から見れば、速玉大神とイザナギは別の神として描かれています。

少し話題がそれますが、全国の熊野神社に祀られている神を見ると、そのほとんどが、イザナミ、速玉、事解男命の三柱だそうです。
そういえば、私の地元の白浜にも「熊野三所神社」がありますが、祭神はイザナミ、速玉、事解男です。

全国に散らばる熊野神社が三山から勧請されたのであるならば、「オリジナル」の三山のそれぞれの主祭神が、なぜイザナミ、イザナギ、スサノオなのでしょうか。

自然信仰から見た速玉大神

速玉大神について、自然信仰からの解釈も聞いたことがあります。

熊野のみならず、神道の起源は自然信仰とされています。
本宮は木と川、那智は言わずもがな滝、そして新宮はゴトビキ岩と川の信仰があるということです。

その中で、「はやたま」の「たま」とは玉のように早いことを言うそうで、「はやたま」とは、速い川の流れを表すそうです。

ただ、個人的にはあまりしっくりきていません。

和歌山県神社庁の記述

和歌山県神社庁のHPでは、

速玉は映霊で、イザナギノミコトの映え輝くばかりの力強い神霊の意で、夫須美はイザナミノミコトの万物を産み成し、幸へ給う女神としての大神徳を称えた御名である

と書かれていて、速玉はイザナギの称え名(たたえな)としています。
称え名という習慣は、ホツマツタヱでも幾多と記載があります。

例えば、ソサノヲが出雲の発展を成功に導いた時に贈られた名は「ヒカワカミ」、タマキネの称え名は「トヨケカミ(豊受大神)」など、何か国のために尽力をして一定の成果を収めた人物に贈られています。

熊野古道では、野長瀬一族が護良親王から「横矢」の名前を賜ったという話が残っていますので、当時は当たり前に行われていたのでしょう。

ホツマツタヱでは仲人

さて、いつもこのブログを読んでくださっている方(いてるのか?)なら、最後にホツマツタヱではどうなっているのか、興味が湧くところだと思います。

ホツマツタヱでは、イサナギ・イサナミの家系が書かれています。
家系についてはまたの機会にお話するとしてここでは省略しますが、イザナギ・イサナミとも、初代アマカミ・クニトコタチの譜系から誕生しています。

イサナギはアワナギを父に持ち、イサナミはトヨケカミ(豊受大神)を父に持ちます。
なので、トヨケカミはアマテルカミ(天照大神)の祖父であり、師でもあったわけです。

ちなみに、お二人のヰミナ(斎名・本名)はタカヒト、イサコです。

お二人が結婚をするため、まずハヤタマノヲ(速玉大神)が二人の縁結びを試みましたがうまくいかず、代わってコトサカノヲ(事解之男)が引き継いだそうです。
コトサカノヲは、お二人にトコミキ(床酒・二人が交わる前に酌み交わす酒)の作法を授けます。

残念ながら、ホツマツタヱではこれしか書かれていません。
ハヤタマノヲのことも、コトサカノヲのことも、どの譜系の人なのかがまったくわかりません。

ホツマツタヱでは速玉大神、事解之男とも、イサナギ・イザナミの仲人として登場しています。
「仲を取り持つ」という点では、日本書紀の記述と似ています。
そして、ホツマツタヱでもハヤタマノヲはイサナギと別の人物として描かれています。
内容は若干違いますが、日本書紀の「一の書(第十)」というのは、ホツマツタヱからの引用かもしれません。
このように、日本書紀にはホツマツタヱと似た記述が散見されます。

ということは、三山の速玉大神もイザナギではないのでしょうか?

神像の話

これはちょっとデリケートな部分なので、話題に入れようかどうか悩みましたが、「あくまでも聞いた話」というレベルで読んでいただければと思います。

現在国宝とされている神像四躯(速玉、夫須美、家津御子、国常立)のうち、新宮の解釈では一体がイザナミであることは確実なので、もう一体は夫のイザナギであろうとしたしたことから、イザナギ=速玉という解釈が生まれたのだろう・・・という話を複数の方から聞いたことがあります。

記憶がうろ覚えですが、これらの神像は「発見された」と聞いた記憶があります。

どういった経緯で発見されたのかは覚えていませんが、おそらく発見されるまでは、畏れ多くて社殿を開けることがなかった、あるいは、ごく一部の神職さんしか見ることが出来なかったからかもしれません。
伊勢の神宮では、三種の神器の八咫鏡を天皇陛下でさえ見ることが許されないと言われていることからも、こうしたことは十分考えられる事かと思います。

見つかった神像がどなたであるか、神像に彫っていたり書かれていたりすれば別ですが、何もそういったことが書かれていなければ、推定の域を越えることはないと思います。

なので、「イザナミがあるのだから、もう一体はイザナギだろう」と考えるのは自然なことだと思います。

結局、速玉大神とは

これまでの話をまとめると、速玉大神とは、「イザナギのと同一説」と「イザナギとは別の神説」に分けられます。
まず、同一説では、

◯イザナギの称え名である

 

別の神説では、

◯自然信仰から生まれた神である

◯イザナギ・イザナギの誓約の際に生まれた神であり、「事を分ける」儀式によって生まれた仲介役の神である

◯お二人が結婚する時の仲人だった

上記の中で「速玉=玉のように速い川の流れ」という「自然信仰説」は、那智の滝やゴトビキ岩とは違い、後付けかもしれません。
ハヤタマノヲが神格化され、後に自然神として信仰され始めたのではないかと思っています。

個人的な意見ですが、私は三山の速玉大神も、イザナギではないと思っています。
ただし、自分が案内する時はイザナギと説明はしています。
お客様を混乱させてしまうということと、三山や神社庁がイザナギと特定している以上、これに逆らうことはできませんので。

ただ、説明をするたびに心の奥底で「違うのではないか」という気持ちが湧き起こります。
色んな話を聞くと、そう思えてなりません。

「熊野」の由来について考える②

発心門王子

今回は、熊野の由来について考える(その2)です。
「クマノ」の由来について深堀りしていきます。

「通説」の検証

前回までのお話では、通説として

1.死者の霊が籠る国を「こもりくに(隠国)」といい、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じく「くまりの」の変化

2.「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

3.神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

4.熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である

以上の解釈から、「クマ=隈=籠る→死者と神が隠れ籠る国」、あるいは、「中心地から奥まった場所」という解釈と考えることができます。

一方、ホツマツタヱでは、

ソサノヲの傍若無人ぶりは、自分(イサナミ)の穢(けがれ=クマ)が原因だとし、その穢を落とすために「クマノ宮」を建てる。
その後イサナミは、火傷を負って亡くなる。

となっています。

今回は、前回挙げた説について、私なりに考えてみたいと思います(かなり私感とガイド目線で見た考え方が入っています。ご了承を)

まず、1について。

「死者の霊が籠る国を『こもりくに(隠国)』といい、冥界を意味する『くまで』『くまじ』と同じく『くまりの』の変化」

・・・まったく意味不明です。

百歩譲って「くまりの」から変化したとしても、こじつけ感があることは否めません。
私たちガイドがその由来について説明する時、こんな解説ではまずガイドが説明に困ります。
ガイドがうまく説明できないことを話して、お客様が理解してくれるわけがありません。
一体、「こもりくに」がどうしたというのでしょうか?
初めてこの解説を見た時、「これが由来なんだ」と鵜呑みにしてしまい、説明に困りました。
英語ではなおさらです。

あまりにもこの類の説が有力視されていますが、私は初見からしっくりきていませんでした。

「くまりの説」「こもりく説」は、あくまでも個人的な考えであり、これから私がお話することと何らレベル的には変わりはないと考えています。

説はあくまでも説です。

次に2について。

「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

「籠る」までは意味は分かります。
そこから突然、何のつながりもない「樹木鬱蒼」という言葉が出てきて読み手を困惑させてしまいます。
樹木鬱蒼の地を「クマノ」というのであれば、当時の日本中はほとんど「クマノ」と呼ばれていてもおかしくないと思います。

「死者と神が隠れ籠る地」は、まあ納得できます。
この「籠る」を「住まう」とか「坐ます(います)」として解釈するなら理解できるという話です。
神が籠る必要はないと思います。

続いて3について。

神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

意味は2とほぼ同じです。
ムロ(牟婁)とクマノをかけて、より「隠れ籠る」場所が牟婁郡であることを強調しています。

4について。

「熊野の『熊』は『隈』であり、『奥まった場所』という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である」

高野氏は否定的ですが、都から見て熊野地域は南の端にあたり、そのすぐ先は黒潮洗う太平洋が広がっています。
その海の彼方には南方補陀落浄土があると信じられており、深山幽谷の先にそういった大海原が広がっているのを目の当たりにして、そこが「隈」(この場合奥まった場所、あるいは辺境の地)と、都の人が考えることは自然なことだと思います。

まあ、「常世国から見て奥」はちょっと曲解のような気がしますが。

以上からまとめると、「熊野」とは、神と死者が隠れ籠る、辺境の地であり、「クマ」は「隠れ籠る」「奥まった」「辺境」から由来したと考えられます。

・・・「こもりく」は置いておきましょう(笑)
話がややこしくなるので。

ホツマツタヱから熊野の由来を読み解く

一方、ホツマツタヱではどうでしょうか?

諸国を回っていたイサナギ・イサナミは、ソサの国(紀伊半島南端部)でソサノヲを授かります。
ソサノヲの傍若無人ぶりから、イサナミは、自分の隈(くま・ここではケガレのこと)が、ソサノヲに移ってしまったのだと考えその「隈」を落とすため、また、ソサノヲが行った行為によって、米の減収を余儀なくされたことを償うために「クマノ宮」を建てます。

このお話から、クマノ宮→隈の宮→隈を祓うための宮という解釈ができます。

この時点ですでにホツマツタヱでは「クマノ」という言葉が登場しています。

「こもりく」とか「くまりの」という言葉から想像する矛盾さはここにはありません。

では、なぜ「クマノ」という名前が定着したのでしょうか?
それはやはり、イサナミの死が大いに関係しているのではないか、と私は思っています。

アマカミ(当時の天皇の呼び名・イサナギ・イサナミは七代目アマカミであり、二人で天皇の役割を担っていた)であるイサナミが事故死をしてしまったことは、当時でも一大ニュースだったことは想像に難くありません。

縁起でもない話をするべきではないですが、今の世で同じ事が起こった場合を考えれば・・・これ以上話すのはやめておきますが、イサナミの突然の死は、当時の国民にとっても相当ショッキングな出来事であったに違いありません。

それがクマノ宮のある地で起こったことから、いつしか「ソサの国」から「クマノ」と呼ばれるようになったのではないか、と考えています。
鹿島、住吉など、その土地の名前が神社に由来するところが日本にはたくさんあり(「宮」とつくところなど、また、「亀」がつくところなども「神」が転訛したとされるところが多い)、本宮、那智なども、地名が先が神社名が先かは分かりませんが、いずれにせよ、神社とその土地の深い関係が示唆されています。
このようなことから、「ソサの国」が「クマノ」と呼ばれるようになったのも、ごく自然なことではないでしょうか。

熊野が「黄泉の国」と呼ばれていた理由も、イサナミの死が無関係だとは思えないのです。
このショッキングな話と、深山幽谷の熊野の典型的な地形、そしてそのすぐ先に広がる大海原が、「神や死者が隠れ籠る地」と考えられ、平安の上皇・法皇の爆発的な熊野参詣につながったのではないかと思います。
この「参詣ブーム」は、修験者の「広告」が大いに影響を与えたこともその要因の一つと考えられますが。

話がそれましたが、ホツマツタヱから「クマノ」の由来を読み解くと、イサナミが建てた「クマノ宮」に起源があると考えることができます。

おまけ(「八十隈に隠去なむ」を検証する)

さて、前の記事でお話した中で、もう一つ、突っ込みたいところがありますので、最後にお話します。

「熊(隈)には「死者の籠るところ」の意味もあり、日本書紀の中でオオアナムチノカミ(大己貴命)が天孫(ニニギノミコト)に国を献上したあと「八十隈(やそくまで)に隠去(かくれ)なむ」といって死んでいく場面があり、「八十」は強調の字で、「隈」は「幽界」とか「死者の魂の籠るところ」の意味であることは言うまでもない、万葉集ではこのような性格の場所を「隠国(こもりく)」と呼んでいる。

 

というくだりです。

・・・だから、「こもりく」がどうした!?

それは放っておいて、

以前の記事「国譲り②」にも書いたので、読んでくださった方は「ん?」と感じたのではないでしょうか?

オホナムチがいわゆる「国譲り」をしたあと、ホツマツタヱではその後のオホナムチの足跡が描かれています。
この場合の「隠れる」は、「死ぬ」という意味ではなく、「隠遁をする」と解釈しなければ、国譲りは武力をもってオオクニヌシ(オホナムチ)一族を死に追いやったことになります。

「隠れる」の意味はこちら

また、「八十隈(やそくまで)」の解釈ですが、多くの辞典では「多くの曲がり角」とされています。
weblio 「隈」

goo 辞書 「八十隈」

デジタル大辞泉・大辞林第三版 「八十隈」

「八十」は「多くの」という意味であり、強調の意味もあるでしょう。
しかし、ここで登場する「隈」について言えば、「幽界」とか「死者の魂が籠るところ」と解釈するのは、前後の意味のつながりを考えれば、かなりの強引さが感じられます。
いったい、「幽界」や「死者が籠るところ」を強調する必要がどこにあるのでしょうか?

ホツマツタヱに基づいて考えれば「多くの曲がり角(津軽までの道のり)を経て、隠遁した」と解釈でき、合点がいくのではないでしょうか?

神話と正史は別物

以上、熊野の由来について、私なりの考えをお話しましたが、神話は神話で楽しく読めばいいと思いますし、いまのところ日本書紀が「正史」とされていますので、ホツマツタヱが絶対に正しいとかいうつもりは一切ありません。
しかし、日本書紀には「一書にいう」という記述がたくさんあることから、その元になった書物があったはずなのです。
その一つがホツマツタヱではなかったか、と思っています。

「ホツマツタヱは後付けの偽書だ」と言う人がいます。
もちろん、ホツマツタヱは話が出来すぎていて、後付けで改変された箇所がある可能性も否定できませんが、記紀でつながりが分からなかった部分がホツマツタヱでは書かれており、合点がいく点が多いのも事実です。

また、記紀も同様で、神話は神話であり、それこそ、編纂者が改変した可能性も十分考えられますので、それを鵜呑みにして解釈することもいかがなものかと思います。
その一例が、今回検証した「八十隈に隠去なむ」ではないでしょうか。

神話はあくまでも物語として読むべきであり、記紀を元に歴史の研究をするということは、実話を元にして作られたフィクションのドラマを元に、実話を探るようなものです。
そこからは残念ながら、どう研究しても絶対に真実にたどり着くことは出来ません。

話の辻褄が合わなければ、人に説明する立場の人間としてはますます困惑し、迷宮に迷い込んでしまいます。
そういった意味では、ホツマツタヱに書かれている内容の方が、ガイドとしては合点のいくことが多く、お客様に納得してもらえる内容でお話ができるという点では、記紀よりもホツマツタヱの内容を私は支持します。

いずれにせよ、私のような立場にない方については「こういう解釈がある」というレベルでおおらかな気持ちで接することが大切ではないでしょうか。

とにかくまずは記紀に触れてみてください。
世界中で、神話や国の成り立ちについて教育を受けていないのは日本くらいです。
記紀を読むことで、この国のことをもっと知りたいという気持ちになれば幸いです。

「熊野」の由来について考える①

今日は熊野の由来について、定説とされているものと、ホツマツタヱに書かれていることを比較しながら検証したいと思います。

五来重氏の著書・熊野詣 三山信仰と文化 には、熊野は幽国(かくれくに)であり、古代人は死者の霊のこもる国がこの地上のどこかにあると考えたことから、これを「こもりくに(隠国)」と呼んだ。
また、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じ「くまりの」の変化であろうと記しています。

高野澄氏の著書・熊野三山・七つの謎―日本人の死生観の源流を探るには、

◯神が隠れ籠るところを「神奈備(かんなび)のミムロ(御室)」と表記することがあり、牟婁郡の「牟婁」に由来している。

◯紀伊続風土記を引用して、「熊は隈であり、籠るという意味。この地は山川幽谷(さんせんゆうこく)、樹木鬱蒼だから熊野と名付けた」

◯熊野と御室はどちらも「隠れ、籠る」という意味

としています。

さらに、「熊(隈)には「死者の籠るところ」の意味もあり、日本書紀の中でオオアナムチノカミ(大己貴命)が天孫(ニニギノミコト)に国を献上したあと「八十隈(やそくまで)に隠去(かくれ)なむ」といって死んでいく場面があり、「八十」は強調の字で、「隈」は「幽界」とか「死者の魂の籠るところ」の意味であることは言うまでもない、万葉集ではこのような性格の場所を「隠国(こもりく)」と呼んでいる。

としています。

豊島修氏の著書・死の国・熊野―日本人の聖地信仰には、五来重氏の説を有力としながら、次の説が紹介されています。

熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である・・・というものですが、豊島氏はこれには無理があるようだとしています。

そしてやはり「熊野とは隠野(こもりの)=隠国(こもりく)」であり、死者の霊や神が隠れ籠る場所であると結論づけています。

一方、ホツマツタヱではどうでしょうか。
以前の記事にも書きましたが、ざっとおさらいをすると・・・

全国を回って国語と農業の普及に努めていた七代アマカミ、イサナギ・イサナミは、ソサの国(紀伊半島南端部の地域)で、男子を授かります。

その子は、ソサの国で生まれたことから「ソサノヲ」と名付けられます。
ソサノヲは幼少から暴れん坊であり、ソサノヲを産んだイサナミは、自分の隈(クマ=けがれ)がソサノヲに移ってしまったと思い、その「隈」を落とすため「クマノ宮」を建て、その償いを始めます。

ところが、ソサノヲは育ち始めた稲の上からさらに種を撒いて、稲の成長を阻害する行為を働いたため、その年の米の収穫が難しくなりました。
そこで、平野のすくなかったソサの国で、平地では用水路を整備し、養蚕を始めようと山焼きを始めますが、その折に運悪く風向きが変わり、イサナミは火傷を負って亡くなってしまいます。

イサナミの亡骸は、有馬の花の窟神社に埋葬されます。

ホツマツタヱ解読ガイドによると、「隈」とは「曲・隈・阿」であり、
1.離れ。それ。反り。曲り。背き。
2.負の方向に離れるさま。「下がる・勢いを失う・劣る・縮小する・静まる・隅にある・果てる」さま
●枯。暗。病。雲。汚穢。闇。厄。
●隅。末。下。果て。

とあります。
ホツマツタヱのクマノ宮については、

ソサ国に生む
ソサノヲは 常に雄たけび
泣きいさち 国民くじく
イサナミは 世のクマなすも
わが汚えと 民の汚えくま
身に受けて 守らんための
クマノ宮

ここで登場する「クマ」は「汚穢(おえ)」でありケガレを表し、「汚え」と「くま」は同義語で、同じ意味の語を連ねています。おそらく強調でしょう。
そして、意味としては前述の2の「枯。暗。病。雲。汚穢。闇。厄」として解釈されています。

いずれにしても、ここで登場する「クマ」とはケガレのことです。

いったんここで話をまとめます。

熊野の由来について、通説として
◯死者の霊が籠る国を「こもりくに(隠国)」といい、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じく「くまりの」の変化
◯「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地
◯神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味
◯熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である

なので、クマ=隈=籠る→死者と神が隠れ籠る国という解釈、あるいは、中心地から離れた奥まった場所と考えることができます。

一方、ホツマツタヱでは、わが子ソサノヲの傍若無人ぶりは、自分の穢(=クマ)が原因とし、その穢を落とすために建てたヤシロが「クマノ宮」
その後イサナミは、火傷を負って亡くなる。

長くなりそうなので、一旦ここで終わります。