「熊野」の由来について考える②

発心門王子

今回は、熊野の由来について考える(その2)です。
「クマノ」の由来について深堀りしていきます。

「通説」の検証

前回までのお話では、通説として

1.死者の霊が籠る国を「こもりくに(隠国)」といい、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じく「くまりの」の変化

2.「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

3.神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

4.熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である

以上の解釈から、「クマ=隈=籠る→死者と神が隠れ籠る国」、あるいは、「中心地から奥まった場所」という解釈と考えることができます。

一方、ホツマツタヱでは、

ソサノヲの傍若無人ぶりは、自分(イサナミ)の穢(けがれ=クマ)が原因だとし、その穢を落とすために「クマノ宮」を建てる。
その後イサナミは、火傷を負って亡くなる。

となっています。

今回は、前回挙げた説について、私なりに考えてみたいと思います(かなり私感とガイド目線で見た考え方が入っています。ご了承を)

まず、1について。

「死者の霊が籠る国を『こもりくに(隠国)』といい、冥界を意味する『くまで』『くまじ』と同じく『くまりの』の変化」

・・・まったく意味不明です。

百歩譲って「くまりの」から変化したとしても、こじつけ感があることは否めません。
私たちガイドがその由来について説明する時、こんな解説ではまずガイドが説明に困ります。
ガイドがうまく説明できないことを話して、お客様が理解してくれるわけがありません。
一体、「こもりくに」がどうしたというのでしょうか?
初めてこの解説を見た時、「これが由来なんだ」と鵜呑みにしてしまい、説明に困りました。
英語ではなおさらです。

あまりにもこの類の説が有力視されていますが、私は初見からしっくりきていませんでした。

「くまりの説」「こもりく説」は、あくまでも個人的な考えであり、これから私がお話することと何らレベル的には変わりはないと考えています。

説はあくまでも説です。

次に2について。

「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

「籠る」までは意味は分かります。
そこから突然、何のつながりもない「樹木鬱蒼」という言葉が出てきて読み手を困惑させてしまいます。
樹木鬱蒼の地を「クマノ」というのであれば、当時の日本中はほとんど「クマノ」と呼ばれていてもおかしくないと思います。

「死者と神が隠れ籠る地」は、まあ納得できます。
この「籠る」を「住まう」とか「坐ます(います)」として解釈するなら理解できるという話です。
神が籠る必要はないと思います。

続いて3について。

神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

意味は2とほぼ同じです。
ムロ(牟婁)とクマノをかけて、より「隠れ籠る」場所が牟婁郡であることを強調しています。

4について。

「熊野の『熊』は『隈』であり、『奥まった場所』という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である」

高野氏は否定的ですが、都から見て熊野地域は南の端にあたり、そのすぐ先は黒潮洗う太平洋が広がっています。
その海の彼方には南方補陀落浄土があると信じられており、深山幽谷の先にそういった大海原が広がっているのを目の当たりにして、そこが「隈」(この場合奥まった場所、あるいは辺境の地)と、都の人が考えることは自然なことだと思います。

まあ、「常世国から見て奥」はちょっと曲解のような気がしますが。

以上からまとめると、「熊野」とは、神と死者が隠れ籠る、辺境の地であり、「クマ」は「隠れ籠る」「奥まった」「辺境」から由来したと考えられます。

・・・「こもりく」は置いておきましょう(笑)
話がややこしくなるので。

ホツマツタヱから熊野の由来を読み解く

一方、ホツマツタヱではどうでしょうか?

諸国を回っていたイサナギ・イサナミは、ソサの国(紀伊半島南端部)でソサノヲを授かります。
ソサノヲの傍若無人ぶりから、イサナミは、自分の隈(くま・ここではケガレのこと)が、ソサノヲに移ってしまったのだと考えその「隈」を落とすため、また、ソサノヲが行った行為によって、米の減収を余儀なくされたことを償うために「クマノ宮」を建てます。

このお話から、クマノ宮→隈の宮→隈を祓うための宮という解釈ができます。

この時点ですでにホツマツタヱでは「クマノ」という言葉が登場しています。

「こもりく」とか「くまりの」という言葉から想像する矛盾さはここにはありません。

では、なぜ「クマノ」という名前が定着したのでしょうか?
それはやはり、イサナミの死が大いに関係しているのではないか、と私は思っています。

アマカミ(当時の天皇の呼び名・イサナギ・イサナミは七代目アマカミであり、二人で天皇の役割を担っていた)であるイサナミが事故死をしてしまったことは、当時でも一大ニュースだったことは想像に難くありません。

縁起でもない話をするべきではないですが、今の世で同じ事が起こった場合を考えれば・・・これ以上話すのはやめておきますが、イサナミの突然の死は、当時の国民にとっても相当ショッキングな出来事であったに違いありません。

それがクマノ宮のある地で起こったことから、いつしか「ソサの国」から「クマノ」と呼ばれるようになったのではないか、と考えています。
鹿島、住吉など、その土地の名前が神社に由来するところが日本にはたくさんあり(「宮」とつくところなど、また、「亀」がつくところなども「神」が転訛したとされるところが多い)、本宮、那智なども、地名が先が神社名が先かは分かりませんが、いずれにせよ、神社とその土地の深い関係が示唆されています。
このようなことから、「ソサの国」が「クマノ」と呼ばれるようになったのも、ごく自然なことではないでしょうか。

熊野が「黄泉の国」と呼ばれていた理由も、イサナミの死が無関係だとは思えないのです。
このショッキングな話と、深山幽谷の熊野の典型的な地形、そしてそのすぐ先に広がる大海原が、「神や死者が隠れ籠る地」と考えられ、平安の上皇・法皇の爆発的な熊野参詣につながったのではないかと思います。
この「参詣ブーム」は、修験者の「広告」が大いに影響を与えたこともその要因の一つと考えられますが。

話がそれましたが、ホツマツタヱから「クマノ」の由来を読み解くと、イサナミが建てた「クマノ宮」に起源があると考えることができます。

おまけ(「八十隈に隠去なむ」を検証する)

さて、前の記事でお話した中で、もう一つ、突っ込みたいところがありますので、最後にお話します。

「熊(隈)には「死者の籠るところ」の意味もあり、日本書紀の中でオオアナムチノカミ(大己貴命)が天孫(ニニギノミコト)に国を献上したあと「八十隈(やそくまで)に隠去(かくれ)なむ」といって死んでいく場面があり、「八十」は強調の字で、「隈」は「幽界」とか「死者の魂の籠るところ」の意味であることは言うまでもない、万葉集ではこのような性格の場所を「隠国(こもりく)」と呼んでいる。

 

というくだりです。

・・・だから、「こもりく」がどうした!?

それは放っておいて、

以前の記事「国譲り②」にも書いたので、読んでくださった方は「ん?」と感じたのではないでしょうか?

オホナムチがいわゆる「国譲り」をしたあと、ホツマツタヱではその後のオホナムチの足跡が描かれています。
この場合の「隠れる」は、「死ぬ」という意味ではなく、「隠遁をする」と解釈しなければ、国譲りは武力をもってオオクニヌシ(オホナムチ)一族を死に追いやったことになります。

「隠れる」の意味はこちら

また、「八十隈(やそくまで)」の解釈ですが、多くの辞典では「多くの曲がり角」とされています。
weblio 「隈」

goo 辞書 「八十隈」

デジタル大辞泉・大辞林第三版 「八十隈」

「八十」は「多くの」という意味であり、強調の意味もあるでしょう。
しかし、ここで登場する「隈」について言えば、「幽界」とか「死者の魂が籠るところ」と解釈するのは、前後の意味のつながりを考えれば、かなりの強引さが感じられます。
いったい、「幽界」や「死者が籠るところ」を強調する必要がどこにあるのでしょうか?

ホツマツタヱに基づいて考えれば「多くの曲がり角(津軽までの道のり)を経て、隠遁した」と解釈でき、合点がいくのではないでしょうか?

神話と正史は別物

以上、熊野の由来について、私なりの考えをお話しましたが、神話は神話で楽しく読めばいいと思いますし、いまのところ日本書紀が「正史」とされていますので、ホツマツタヱが絶対に正しいとかいうつもりは一切ありません。
しかし、日本書紀には「一書にいう」という記述がたくさんあることから、その元になった書物があったはずなのです。
その一つがホツマツタヱではなかったか、と思っています。

「ホツマツタヱは後付けの偽書だ」と言う人がいます。
もちろん、ホツマツタヱは話が出来すぎていて、後付けで改変された箇所がある可能性も否定できませんが、記紀でつながりが分からなかった部分がホツマツタヱでは書かれており、合点がいく点が多いのも事実です。

また、記紀も同様で、神話は神話であり、それこそ、編纂者が改変した可能性も十分考えられますので、それを鵜呑みにして解釈することもいかがなものかと思います。
その一例が、今回検証した「八十隈に隠去なむ」ではないでしょうか。

神話はあくまでも物語として読むべきであり、記紀を元に歴史の研究をするということは、実話を元にして作られたフィクションのドラマを元に、実話を探るようなものです。
そこからは残念ながら、どう研究しても絶対に真実にたどり着くことは出来ません。

話の辻褄が合わなければ、人に説明する立場の人間としてはますます困惑し、迷宮に迷い込んでしまいます。
そういった意味では、ホツマツタヱに書かれている内容の方が、ガイドとしては合点のいくことが多く、お客様に納得してもらえる内容でお話ができるという点では、記紀よりもホツマツタヱの内容を私は支持します。

いずれにせよ、私のような立場にない方については「こういう解釈がある」というレベルでおおらかな気持ちで接することが大切ではないでしょうか。

とにかくまずは記紀に触れてみてください。
世界中で、神話や国の成り立ちについて教育を受けていないのは日本くらいです。
記紀を読むことで、この国のことをもっと知りたいという気持ちになれば幸いです。

「熊野」の由来について考える①

今日は熊野の由来について、定説とされているものと、ホツマツタヱに書かれていることを比較しながら検証したいと思います。

五来重氏の著書・熊野詣 三山信仰と文化 には、熊野は幽国(かくれくに)であり、古代人は死者の霊のこもる国がこの地上のどこかにあると考えたことから、これを「こもりくに(隠国)」と呼んだ。
また、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じ「くまりの」の変化であろうと記しています。

高野澄氏の著書・熊野三山・七つの謎―日本人の死生観の源流を探るには、

◯神が隠れ籠るところを「神奈備(かんなび)のミムロ(御室)」と表記することがあり、牟婁郡の「牟婁」に由来している。

◯紀伊続風土記を引用して、「熊は隈であり、籠るという意味。この地は山川幽谷(さんせんゆうこく)、樹木鬱蒼だから熊野と名付けた」

◯熊野と御室はどちらも「隠れ、籠る」という意味

としています。

さらに、「熊(隈)には「死者の籠るところ」の意味もあり、日本書紀の中でオオアナムチノカミ(大己貴命)が天孫(ニニギノミコト)に国を献上したあと「八十隈(やそくまで)に隠去(かくれ)なむ」といって死んでいく場面があり、「八十」は強調の字で、「隈」は「幽界」とか「死者の魂の籠るところ」の意味であることは言うまでもない、万葉集ではこのような性格の場所を「隠国(こもりく)」と呼んでいる。

としています。

豊島修氏の著書・死の国・熊野―日本人の聖地信仰には、五来重氏の説を有力としながら、次の説が紹介されています。

熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である・・・というものですが、豊島氏はこれには無理があるようだとしています。

そしてやはり「熊野とは隠野(こもりの)=隠国(こもりく)」であり、死者の霊や神が隠れ籠る場所であると結論づけています。

一方、ホツマツタヱではどうでしょうか。
以前の記事にも書きましたが、ざっとおさらいをすると・・・

全国を回って国語と農業の普及に努めていた七代アマカミ、イサナギ・イサナミは、ソサの国(紀伊半島南端部の地域)で、男子を授かります。

その子は、ソサの国で生まれたことから「ソサノヲ」と名付けられます。
ソサノヲは幼少から暴れん坊であり、ソサノヲを産んだイサナミは、自分の隈(クマ=けがれ)がソサノヲに移ってしまったと思い、その「隈」を落とすため「クマノ宮」を建て、その償いを始めます。

ところが、ソサノヲは育ち始めた稲の上からさらに種を撒いて、稲の成長を阻害する行為を働いたため、その年の米の収穫が難しくなりました。
そこで、平野のすくなかったソサの国で、平地では用水路を整備し、養蚕を始めようと山焼きを始めますが、その折に運悪く風向きが変わり、イサナミは火傷を負って亡くなってしまいます。

イサナミの亡骸は、有馬の花の窟神社に埋葬されます。

ホツマツタヱ解読ガイドによると、「隈」とは「曲・隈・阿」であり、
1.離れ。それ。反り。曲り。背き。
2.負の方向に離れるさま。「下がる・勢いを失う・劣る・縮小する・静まる・隅にある・果てる」さま
●枯。暗。病。雲。汚穢。闇。厄。
●隅。末。下。果て。

とあります。
ホツマツタヱのクマノ宮については、

ソサ国に生む
ソサノヲは 常に雄たけび
泣きいさち 国民くじく
イサナミは 世のクマなすも
わが汚えと 民の汚えくま
身に受けて 守らんための
クマノ宮

ここで登場する「クマ」は「汚穢(おえ)」でありケガレを表し、「汚え」と「くま」は同義語で、同じ意味の語を連ねています。おそらく強調でしょう。
そして、意味としては前述の2の「枯。暗。病。雲。汚穢。闇。厄」として解釈されています。

いずれにしても、ここで登場する「クマ」とはケガレのことです。

いったんここで話をまとめます。

熊野の由来について、通説として
◯死者の霊が籠る国を「こもりくに(隠国)」といい、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じく「くまりの」の変化
◯「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地
◯神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味
◯熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である

なので、クマ=隈=籠る→死者と神が隠れ籠る国という解釈、あるいは、中心地から離れた奥まった場所と考えることができます。

一方、ホツマツタヱでは、わが子ソサノヲの傍若無人ぶりは、自分の穢(=クマ)が原因とし、その穢を落とすために建てたヤシロが「クマノ宮」
その後イサナミは、火傷を負って亡くなる。

長くなりそうなので、一旦ここで終わります。

ヤタの鏡とヤタガラス

今日はヤタの鏡とヤタガラスについてです。
前回の3記事の中で、ヤタの鏡の「ヤタ」の部分をもう一度まとめると、

  1. 「タ(咫)」は約20cmであり、ヤタ(八咫)は約160cm
  2. 「ヤタミ(八民)」であり、万民を表す
  3. 初代アマカミ・クニトコタチが住まいを作る時に、屋根の形をヲシテ文字の「ヤ」をヒントに作られた
  4. 「タ」はヲシテ文字の父、または指導者を表す
  5. 「ヤ」と「タ」を合わせて、「民を教え導くヤシロ」を表す

でした。

さて、ではヤタガラス(八咫烏)の「ヤタ」とは、何なのでしょうか?
順に「ヤタの鏡」の「ヤタ」に当てはめて検証してみます。

1.以前の記事にも書きましたが、八咫烏は「翼開長がヤタ(約160cm)のカラス」と先輩から聞きました。
現実的に、そんな大きなカラス(それも三本足)は熊野地方にも、どこにも存在しません。
ただし、この「三本足」については、記紀にはその記載がないことから、平安時代に中国の三足烏(さんそくう)と習合、あるいは同一視されたのではないかという見解があります。
平安といえば、熊野が上皇・法皇がこぞって熊野に来た時代です。
熊野は神聖な国とされていましたので、八咫烏が神聖な鳥として崇めらたのは、自然なことだと思います。
三本足にすることによって、その「神聖度」が高まったのでしょう。

2.もし八咫烏が万民を表すのであれば、日本国民全員が八咫烏ということになりますので、これは明らかに違います。

3.これは建造物を造った時のお話なので違います。屋根の意味ではありません。

4.父であるかどうかは分かりませんが、指導者ということであれば、神武天皇を導いたということから少し当てはまるかと思います。

5.「民を教え、導くヤシロ」の、「ヤシロ」の部分が違います。
強引に解釈して、「ヤシロ」を「神の依代とする肉体(カラス、あるいは人)」とすれば、なんとなく辻褄は合います。

もう一度1に戻ります。
以前の記事「ヤタの鏡②」に書いていますが、長さの単位を決めるために八十万人の平均身長を測り、そこから導き出された単位が「タ(咫)・約160cm」でした。

ということは、この場合の「ヤタ」とは、やはり人のことを指すのだと思います。
そして、ヲシテ文字の「タ」は「人を導く」という意味があることから、本当に道案内を買って出た地元住民だと、私は思っています。

「神話だ」といって片付けるのは簡単ですが、その元となっているものは何かということを突き詰めていくのも、神話のルーツを探るという意味では、非常に面白いことだと思います。

私のヤタガラスの見解については、「古代史ホツマツタヱの旅⑤ 神武東征とヤタガラス」をご参照ください。

イサナミの死

今回は、イサナミの死についてです。

記紀では、火の神・カグツチノミコトをお産みになる際に火傷を負って亡くなっています。
ホツマツタヱではどうでしょうか?
はじめてのホツマツタヱ 天の巻によると、

ソサノヲが、育ってきた稲の上からまた種を撒いたおかげで、その年に収穫できるはずのお米が穫れなくなってしまいました。
熊野地方は、山が海岸線まで迫り、地形的に稲作ができる所が限られていたため、人々の生活は楽なものではありませんでした。

イサナミは、ソサノヲの所業をすべて自分の責任だと深く心に刻み、稲作の減収を償う決意をされます。

イサナミは、山焼きをして傾斜地には桑を植えて養蚕を興し、平地は水利を整えて水田や農地を増やす事業を進めます。

しかし、ここで不運が起きます。

山焼きをしていたイサナミに、風向きが変わった炎が襲いました。
火に囲まれ、逃げ場を失ったイサナミは、お亡くなりになりました。

イサナミの亡骸はアリマ(三重県熊野市有馬町花の窟神社)にお納めし、その後この地の人々は、毎年桑の花が咲く春と、稲穂が色づく秋に、イサナミを偲んでお祭りをしています。

・・・火傷を負ったということは記紀とホツマツタヱの共通事項ですが、ホツマツタヱでは現実的にイサナミの死について描かれています。

ソサノヲとクマノ宮

イサナギ・イサナミの三男として生まれたソサノヲは、幼少の頃から我が強く、気に入らないことがあれば駄々をこね、大声で叫び、泣きわめいていました。

ホツマツタヱには、ソサノヲが生まれた時のことを、このように書いているそうです。

ソサ国に生む
ソサノヲは 常に雄たけび
泣きいさち 国民くじく
イサナミは 世のクマなすも
わが汚えと 民の汚えくま
身に受けて 守らんための
クマノ宮

その性格は成長しても治まらず、イサナミは、自分の汚れがソサノヲに宿ってしまったのだと思います。

そして、世の隈を一身に受けて民を守ることを決意され「クマノ宮」にお住まいになり、ソサノヲの悪行の償いを始めます。

ソサ国とは紀伊半島南端部の古名。
ソサノヲはそこで生まれたので「ソサノヲ」と名付けられました。

本宮大社の主祭神、家津御子神(けつみこ)ですが、古代史ホツマツタヱの旅 第2巻によると、「け」とは汚気(おけ)のことで、「つ」は上下をつなぐ助詞であり、「汚気から生まれた御子」つまりソサノヲのことをいうそうです。

また、本宮大社の創建年代は一応「不詳」となっており、最古の文献では崇神天皇65年(紀元前33年)とされていますので、一応今年(西暦2020年)で、創建2052年となっていますが、仮にこの「クマノ宮」が本宮大社だとすると、創建年代はもっと古くなります。

アマテルの時代が紀元前1000年頃とされていますので、3000年はくだらないことになります。

アマカミと熊野の御祭神

ここまでのお話で、アマカミについてまとめておきたいと思います。

アマカミ

「アマカミ」とは、国の指導者であり、今の天皇にあたる方々です。
後に「スヘラギ」という呼び名に変わります。

「アマカミ」と呼ばれていた時代を「カミヨ」と言い、「スヘラギ」と呼ばれていた時代を「ヒトヨ」と言います。

初代アマカミは、クニトコタチ、七代目にイサナギ・イサナミ、八代目にアマテルがいらっしゃいます。

ちなみに、歴代アマカミは

初代 クニトコタチ
二代 クニサツチ
三代 トヨクンヌ
四代 ウビチニ・スビチニ
五代 オオトノチ・オオトマヘ
六代 オモタル・カシコネ
七代 イサナギ・イサナミ
八代 アマテル
九代 オシホミミ
十代 ホノアカリ(兄)・ニニキネ(弟)
十一代 ホホテミ
十二代 ウガヤフキアハワセズ

となります。

熊野三山の御祭神

大斎原

これを見た時に、二代クニサツチ、三代トヨクンヌ、四代ウビチニ、五代オオトノジ、六代オモタルは、速玉大社、那智大社の下四社に祀られている御祭神と同じだということに気づきました。
速玉大社・那智大社には、初代から十二代までの歴代天皇(アマカミ)が祀られていることになります。

「ん?クニトコタチは?」という声が聞こえてきそうですが、証誠殿に家津御子神とともに祀られています。
ちなみに、九代から十二代までは中四社に祀られています。

一方本宮は?というと、中四社までの御祭神は他の二社と同じです。
しかし、下四社の御祭神は

カグツチノミコト(火の神様)
ハニヤマヒメノミコト(土の神様)
ミヅハメノミコト(水の神様)
ワクムスビノミコト(農耕の神様)

の四柱です。

よく、「熊野三山は、十二柱同じ神様が祀られています」という説明を聞きますが、本宮だけは明らかに違います。
これがなぜなのかは、わたしも分かりません。
いずれ宮司さんに聞いてみようかと思っています。

スヘラギ

初代アマカミから数えて十三代目からは呼び名が変わり、「スヘラギ」となります。

初代 タケヒト 神武
二代 カヌカワミミ 綏靖
三代 タマテミ 安寧
四代 スキトモ 懿徳
五代 カエシネ 孝昭

と続き、やはりヲシロワケ(景行天皇)まで十二代続きます。

八咫烏、今度はマスク姿

2018年は金色、翌2019年は緑(というか黄緑、あるいは若草色)の姿で大好評?だった本宮大社内の八咫烏像。

今回はマスク姿に「変装」したそうです。
https://www.agara.co.jp/article/61190?rct=nnews
(ちなみに、写真中の鳥居と「20th」の意味は、大斎原の大鳥居建立20周年記念のものです。とにかく「○○周年」がお好きなようです)

ある日突然金色に変わっていたことには驚きましたが、緑に変わっていた時はさらなる衝撃でした。

「おお!何で緑?」と思わずその場で声に出てしまいました。

ちなみに、金色は「本宮大社創建2050年記念」、緑は「世界遺産登録15周年記念」ということでしたが、緑は熊野の山々の色を表したのだそうで。

もはやこうなれば八咫オウムだな(笑)

晴れて元の色に戻してもらえたかと思った矢先にマスクを被せられ・・・こうして最近は毎年のように「いじられている」八咫烏ですが、今回はマスク姿ということで、まあ、納得はできますよね。

さて、来年はどんないじられ方をするのか、今から楽しみです。

一日も早く、元の熊野に戻って欲しいものです。

鶏の死骸焼却開始

※写真のニワトリと本文は一切関係ありません。

いよいよ、田辺市中辺路町にある養鶏場から、鶏の死骸を運び出す作業が始まりましたね。
https://www.agara.co.jp/article/60640?rct=nnews

当の養鶏場は、熊野古道中辺路・滝尻王子~高原の間から眼下に見えています。
ちょうど古道の部分と高原への道路が交わる辺りです(私達は「掘割」と呼んでいます)

「経営破綻をした」ということは聞いていましたが、すっかり「処理」は終わっていると思っていました。
しかし、熊野古道を案内していると、風向きによってひどい臭いがしてくる時があり、お客様からも「これは何の臭い?」と聞かれたこともしばしば。

「ああ、この下にはもう営業してない養鶏場があるんです」と言えば大方納得はしてくれましたが、中には「止めたのに何でこんなに臭うの?」と聞かれることもありました。
「おそらく長年染み付いた臭いのせいでしょう」なんてお茶を濁していましたが、まさか死骸が放置されていたとは夢にも思っていませんでした。

紀伊民報には書かれていませんが、この行政代執行の費用は1億円で、「連絡がつきにくくなってはいるが、この費用は元経営者に請求したい」と田辺市は言っているとか。

私が極真空手をしていた約15年前、この現場のふもとから約3kmの上り坂をジョギングしていましたが、この頃から同じ悪臭が漂っていました。
その頃から死骸があったのかどうかは分かりませんが、「近所の人はよくこの悪臭の中住めるなあ」と思っていました。

ジョギングにも悪い環境でした(笑)

市民の税金が大量に投入され、処分に1億もかかってしまったことは残念ですし、餓死した鶏のことを思うと、心が痛いですね。

なにはともあれ、これでもう悪臭がすることがなくなると思うと、ホッとします。

補陀落渡海(瀬川さんのお話まとめ)

今日は謎が多いとされる補陀落渡海についてです。

世界遺産・補陀落山寺の瀬川さんよりお聞きしたお話の要約をまとめてお伝えします。

さっそく行きましょう。

補陀落山寺と世界遺産登録の理由

建物としての和歌山県熊野地方の世界遺産は5か所で、あとの4か所は熊野三山と青岸渡寺。
この4か所は「全国ブランド」であり、大昔から全国の方々が知っている。

なぜ、補陀落山寺のようなちっぽけな(あくまでも瀬川さんの話ですよ)お寺が世界遺産になったのか・・・・建物自体は平成2年11月と非常に新しいが、開山は4世紀前半で歴史が古く、史実がたくさんあるという点。

本堂には小さい仏像も入れて10体、近くの庫裏にもまだたくさんあり、那智参詣曼荼羅は現在青岸渡寺の宝物殿で保管されている。

境内にも展示されているように、奇抜な宗教儀礼(補陀落渡海)が史実としてあったからだろう。

金光坊事件

補陀落船のような船に乗っていた記録というのは、和歌山県内ではここしかない。
田辺市の跡の浦には、荼毘に付した人を乗せる船があったらしいが、生きた人を乗せた船というのはここしかない。

補陀落渡海の第一回は868年古代・平安、一番最後が1722年。

慣習は新しいが、近世になって61歳を迎えたら補陀落渡海に出なさいというものがあった。

その中の一人に「金光坊」という住職がいた。
ちなみに、「金光坊」は「こんこぶ」と読む。

この金光坊、渡海に行くのが嫌だったが、当時の慣習に従わなければならなかった。
金光坊は、現在「金光坊島」と言われる島で、板を打ち破って渡海船から逃げ出した。
渡海船は、曳航者(寺の関係者が担当)がいないと沖に出られない。
その曳航者が逃げ出した金光坊を見つけ、入水させた。

金光坊事件後の渡海

渡海の歴史850年の中で、この金光坊事件が転機となる。

当時曳航していた者が帰って来た時、金光坊を入水させてしまったことに対して大いに反省をした。
「無理に殺すことはないのではないか」と。

これを機に、渡海の様相が一変する。

今までは、生きていた上人が船に乗り込んでいたが、僧侶が亡くなってから船に乗せて沖へと送り出す「水葬」へと変わっていった。

その「水葬」の渡海が計8回。
その一番最後が1722年の宥照上人(ゆうしょうしょうにん)

()((

渡海の始まりとその理由

第一回の868年(貞観10年)の(けい)(りゅう)上人に関しては、それよりずっと前だったんではなかろうかという先生もおられるが、熊野年代記によれば、これが第一回。

868年が第一回だが、どうしてそれが第一回なのかということを記したた書物がない。

貞観時代に、大きい地震が起きており、どうやらその前(貞観10年の前)に大きな地震が起きているらしい。
地震は貞観年間に一回きりではなく数回起きている。
その数回の中の一回は、マグニチュード9以上だったと言われている。

恐らく、この近隣の人々は渡海上人に「こんな災害はどうか止めてください」とお願いしたんではなかろうかと思っている。「どうかお上人様、観音浄土へ行ってそれを止めてください」と、「もっと平穏な暮らしができるようにお願いします」というふうなことを託したんではなかろうかと。

自身が補陀落山寺に来てから二十数年間その疑問を持っていたが、2011年の東日本大震災があって初めて「貞観時代に大きな地震があった」というのを知った。
個人的には第一回の868年がどうして第一回なのかということに関して、ひょっとしたらそれも関係あるかなと思っている。
何か原因がないことにはこんな「渡海に出る」なんていう発想は出ない。
その「何か」が貞観の大地震だったのではなかろうかと思ってる。
しかしながら、資料がないので先生方でもどうしようもない。

「自殺行為」について

何よりも一番知りたいのは、死ぬ行為、自殺行為。

当時のような船で、「観音の浄土(南方補陀落浄土)に行けるわけがない」ということは、昔の人々も分かっていたはず。
どうして100%死ぬと分かっているのに、渡海に出て行ったのか、そこが一番知りたい。

僕ら(瀬川さん)の年代になってくると、周りの人がどんどん亡くなっていく。
おのずと人間の現世の死を真剣に考える。
「次は僕じゃないかなあ?」と。

結論は、「死にたくない」です。健康で長生きしたい。

色んな意見があるが、その中でも補陀落山寺の背景も関係している。渡海は特に中世に集中している。日本における中世の時代というのは、一歩外へ出たらバサッと斬られるような末法の世の中。
そういった背景も影響したと思うが補陀落山寺の住職は、実は修験者だったらしい。
その修験者が、生死の境をさまようような厳しい修行(千日回峰行など)を経て、人間の現世の死に対する考え方が違って当然ではなかろうかと思う。

われわれは死にたくない。
だから現世の死のハードルというのは、相当高い所に引っ張っている。
しかし彼らはそうではないだろう。
厳しい厳しい行によってその線引きがもっともっと下に出来たんではないだろうか。
いわゆる死を超越できたのではなかろうか?
現世の死なんてものはわれわれ人間にとっては、そんな大きな問題ではないんだと。
もっと上の段階、さらに上の段階が、あるんだというような境地に達したからではなかろうかと。

このように考えると、ここで死の行為が28回も行われたというのは、「そうなのかなあ?」という気はするけれども、残念ながら資料がないので一説に過ぎない。

全国の渡海

兎にも角にも、補陀洛山寺で渡海は今のところ、根井先生の研究では28回。
これだけ28回も数多く行われたのは補陀落山寺だけ。

他には足摺で6回、室戸で2、3回、鹿児島、福岡、大阪の泉南、鳥取県、関東でも2、3回ある。
東端は千葉県那珂湊市で1回。
今のところ全部で56回で、補陀落山寺の28回というのは偶然にもちょうど半分。
だから「補陀洛渡海」イコール「補陀落山寺」

以前の補陀洛山寺

昔は神仏習合。
神仏習合の時代は神社(現・熊野三所大神社)と、庫裏とこの建物(補陀落山寺)の間にもう一つ建物があった。
現在「補陀洛山寺」と呼ばれる建物は、かつては千手観音の「千手堂」と言われ、この四つあわせて「補陀洛山寺」と言った。
千手堂は大昔からここにある。
上人たちは渡海へ出る一週間前、このお堂へ籠って秘密の行を積んでいた。

吾妻鏡に見る補陀洛渡海

補陀落渡海についての資料は乏しく、熊野年代記や熊野巡覧記があるが(金光坊住職のことは熊野巡覧記に記載がある)一番有名な信憑性の高い書物としては、吾妻鏡。

()定房(じょうぼう)という住職は元々は鎌倉幕府に仕える武士で、当時は下河辺六郎(しもこうべろくろう)(ゆき)(ひで)という、なかなかの弓矢の達人だった。

ある時、頼朝のお供で那須へ鹿狩に行った際、頼朝公に「あの鹿を射よ」と言われ射っがその矢が外れて近くにいた同僚に当たってその同僚を死なしてしまうという大失態を演じた。
その後、いわゆる逐電をしてこちらへやってきた。
法名を智定坊、「那智の智と定めるのお坊さん」
その智定房が、30日分の食糧とわずかの灯油だけを積んで出て行ったという資料がある。

時代も全然違うし、背景ももちろん違うし、渡海上人も違うし、考え方も違う。
その時によって違うというのは大切だが、少なくとも智定房は30日分、一か月の食糧と灯油を積んで行ったということは、やっぱり生きて、本当にその観音の浄土があるんだということを信じてそこへ行くんだということを信じて行ったのだと思う。智定房に関しては。
そうでないと、それだけの食糧なんか積まないだろう。
他の渡海上人たちは、どうなのかは分からないが。

石碑の前でのお話

※補陀落山寺には、歴代の渡海上人たちが補陀落渡海を行った年代が記録された石碑がある。

石碑では25回という記録になっているが、3回増えて28回。
()()(きよし)先生。補陀落渡海研究の第一人者の見解。

すべてが補陀落山寺の住職だったのかどうかというのは分からないが、他府県から来た修験者もいたのではないか。
他府県から来た人には上人の称号がない。

一番若い方で18歳。

以上、約1時間に渡るお話をかなり圧縮してお伝えしました。
お話を聞いたのが2015年3月ですので、お話にさらなる進展があるかもしれないですね。

また機会を見てお話を伺いたいと思っています。

お役に立てましたら幸いです。