「熊野」の由来について考える②

発心門王子

今回は、熊野の由来について考える(その2)です。
「クマノ」の由来について深堀りしていきます。

「通説」の検証

前回までのお話では、通説として

1.死者の霊が籠る国を「こもりくに(隠国)」といい、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じく「くまりの」の変化

2.「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

3.神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

4.熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である

以上の解釈から、「クマ=隈=籠る→死者と神が隠れ籠る国」、あるいは、「中心地から奥まった場所」という解釈と考えることができます。

一方、ホツマツタヱでは、

ソサノヲの傍若無人ぶりは、自分(イサナミ)の穢(けがれ=クマ)が原因だとし、その穢を落とすために「クマノ宮」を建てる。
その後イサナミは、火傷を負って亡くなる。

となっています。

今回は、前回挙げた説について、私なりに考えてみたいと思います(かなり私感とガイド目線で見た考え方が入っています。ご了承を)

まず、1について。

「死者の霊が籠る国を『こもりくに(隠国)』といい、冥界を意味する『くまで』『くまじ』と同じく『くまりの』の変化」

・・・まったく意味不明です。

百歩譲って「くまりの」から変化したとしても、こじつけ感があることは否めません。
私たちガイドがその由来について説明する時、こんな解説ではまずガイドが説明に困ります。
ガイドがうまく説明できないことを話して、お客様が理解してくれるわけがありません。
一体、「こもりくに」がどうしたというのでしょうか?
初めてこの解説を見た時、「これが由来なんだ」と鵜呑みにしてしまい、説明に困りました。
英語ではなおさらです。

あまりにもこの類の説が有力視されていますが、私は初見からしっくりきていませんでした。

「くまりの説」「こもりく説」は、あくまでも個人的な考えであり、これから私がお話することと何らレベル的には変わりはないと考えています。

説はあくまでも説です。

次に2について。

「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

「籠る」までは意味は分かります。
そこから突然、何のつながりもない「樹木鬱蒼」という言葉が出てきて読み手を困惑させてしまいます。
樹木鬱蒼の地を「クマノ」というのであれば、当時の日本中はほとんど「クマノ」と呼ばれていてもおかしくないと思います。

「死者と神が隠れ籠る地」は、まあ納得できます。
この「籠る」を「住まう」とか「坐ます(います)」として解釈するなら理解できるという話です。
神が籠る必要はないと思います。

続いて3について。

神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

意味は2とほぼ同じです。
ムロ(牟婁)とクマノをかけて、より「隠れ籠る」場所が牟婁郡であることを強調しています。

4について。

「熊野の『熊』は『隈』であり、『奥まった場所』という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である」

高野氏は否定的ですが、都から見て熊野地域は南の端にあたり、そのすぐ先は黒潮洗う太平洋が広がっています。
その海の彼方には南方補陀落浄土があると信じられており、深山幽谷の先にそういった大海原が広がっているのを目の当たりにして、そこが「隈」(この場合奥まった場所、あるいは辺境の地)と、都の人が考えることは自然なことだと思います。

まあ、「常世国から見て奥」はちょっと曲解のような気がしますが。

以上からまとめると、「熊野」とは、神と死者が隠れ籠る、辺境の地であり、「クマ」は「隠れ籠る」「奥まった」「辺境」から由来したと考えられます。

・・・「こもりく」は置いておきましょう(笑)
話がややこしくなるので。

ホツマツタヱから熊野の由来を読み解く

一方、ホツマツタヱではどうでしょうか?

諸国を回っていたイサナギ・イサナミは、ソサの国(紀伊半島南端部)でソサノヲを授かります。
ソサノヲの傍若無人ぶりから、イサナミは、自分の隈(くま・ここではケガレのこと)が、ソサノヲに移ってしまったのだと考えその「隈」を落とすため、また、ソサノヲが行った行為によって、米の減収を余儀なくされたことを償うために「クマノ宮」を建てます。

このお話から、クマノ宮→隈の宮→隈を祓うための宮という解釈ができます。

この時点ですでにホツマツタヱでは「クマノ」という言葉が登場しています。

「こもりく」とか「くまりの」という言葉から想像する矛盾さはここにはありません。

では、なぜ「クマノ」という名前が定着したのでしょうか?
それはやはり、イサナミの死が大いに関係しているのではないか、と私は思っています。

アマカミ(当時の天皇の呼び名・イサナギ・イサナミは七代目アマカミであり、二人で天皇の役割を担っていた)であるイサナミが事故死をしてしまったことは、当時でも一大ニュースだったことは想像に難くありません。

縁起でもない話をするべきではないですが、今の世で同じ事が起こった場合を考えれば・・・これ以上話すのはやめておきますが、イサナミの突然の死は、当時の国民にとっても相当ショッキングな出来事であったに違いありません。

それがクマノ宮のある地で起こったことから、いつしか「ソサの国」から「クマノ」と呼ばれるようになったのではないか、と考えています。
鹿島、住吉など、その土地の名前が神社に由来するところが日本にはたくさんあり(「宮」とつくところなど、また、「亀」がつくところなども「神」が転訛したとされるところが多い)、本宮、那智なども、地名が先が神社名が先かは分かりませんが、いずれにせよ、神社とその土地の深い関係が示唆されています。
このようなことから、「ソサの国」が「クマノ」と呼ばれるようになったのも、ごく自然なことではないでしょうか。

熊野が「黄泉の国」と呼ばれていた理由も、イサナミの死が無関係だとは思えないのです。
このショッキングな話と、深山幽谷の熊野の典型的な地形、そしてそのすぐ先に広がる大海原が、「神や死者が隠れ籠る地」と考えられ、平安の上皇・法皇の爆発的な熊野参詣につながったのではないかと思います。
この「参詣ブーム」は、修験者の「広告」が大いに影響を与えたこともその要因の一つと考えられますが。

話がそれましたが、ホツマツタヱから「クマノ」の由来を読み解くと、イサナミが建てた「クマノ宮」に起源があると考えることができます。

おまけ(「八十隈に隠去なむ」を検証する)

さて、前の記事でお話した中で、もう一つ、突っ込みたいところがありますので、最後にお話します。

「熊(隈)には「死者の籠るところ」の意味もあり、日本書紀の中でオオアナムチノカミ(大己貴命)が天孫(ニニギノミコト)に国を献上したあと「八十隈(やそくまで)に隠去(かくれ)なむ」といって死んでいく場面があり、「八十」は強調の字で、「隈」は「幽界」とか「死者の魂の籠るところ」の意味であることは言うまでもない、万葉集ではこのような性格の場所を「隠国(こもりく)」と呼んでいる。

 

というくだりです。

・・・だから、「こもりく」がどうした!?

それは放っておいて、

以前の記事「国譲り②」にも書いたので、読んでくださった方は「ん?」と感じたのではないでしょうか?

オホナムチがいわゆる「国譲り」をしたあと、ホツマツタヱではその後のオホナムチの足跡が描かれています。
この場合の「隠れる」は、「死ぬ」という意味ではなく、「隠遁をする」と解釈しなければ、国譲りは武力をもってオオクニヌシ(オホナムチ)一族を死に追いやったことになります。

「隠れる」の意味はこちら

また、「八十隈(やそくまで)」の解釈ですが、多くの辞典では「多くの曲がり角」とされています。
weblio 「隈」

goo 辞書 「八十隈」

デジタル大辞泉・大辞林第三版 「八十隈」

「八十」は「多くの」という意味であり、強調の意味もあるでしょう。
しかし、ここで登場する「隈」について言えば、「幽界」とか「死者の魂が籠るところ」と解釈するのは、前後の意味のつながりを考えれば、かなりの強引さが感じられます。
いったい、「幽界」や「死者が籠るところ」を強調する必要がどこにあるのでしょうか?

ホツマツタヱに基づいて考えれば「多くの曲がり角(津軽までの道のり)を経て、隠遁した」と解釈でき、合点がいくのではないでしょうか?

神話と正史は別物

以上、熊野の由来について、私なりの考えをお話しましたが、神話は神話で楽しく読めばいいと思いますし、いまのところ日本書紀が「正史」とされていますので、ホツマツタヱが絶対に正しいとかいうつもりは一切ありません。
しかし、日本書紀には「一書にいう」という記述がたくさんあることから、その元になった書物があったはずなのです。
その一つがホツマツタヱではなかったか、と思っています。

「ホツマツタヱは後付けの偽書だ」と言う人がいます。
もちろん、ホツマツタヱは話が出来すぎていて、後付けで改変された箇所がある可能性も否定できませんが、記紀でつながりが分からなかった部分がホツマツタヱでは書かれており、合点がいく点が多いのも事実です。

また、記紀も同様で、神話は神話であり、それこそ、編纂者が改変した可能性も十分考えられますので、それを鵜呑みにして解釈することもいかがなものかと思います。
その一例が、今回検証した「八十隈に隠去なむ」ではないでしょうか。

神話はあくまでも物語として読むべきであり、記紀を元に歴史の研究をするということは、実話を元にして作られたフィクションのドラマを元に、実話を探るようなものです。
そこからは残念ながら、どう研究しても絶対に真実にたどり着くことは出来ません。

話の辻褄が合わなければ、人に説明する立場の人間としてはますます困惑し、迷宮に迷い込んでしまいます。
そういった意味では、ホツマツタヱに書かれている内容の方が、ガイドとしては合点のいくことが多く、お客様に納得してもらえる内容でお話ができるという点では、記紀よりもホツマツタヱの内容を私は支持します。

いずれにせよ、私のような立場にない方については「こういう解釈がある」というレベルでおおらかな気持ちで接することが大切ではないでしょうか。

とにかくまずは記紀に触れてみてください。
世界中で、神話や国の成り立ちについて教育を受けていないのは日本くらいです。
記紀を読むことで、この国のことをもっと知りたいという気持ちになれば幸いです。

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