広川研修② 稲むらの火講座

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広川研修①

午後からは、和歌山県立文書館の砂川佳子さんの講演を聞きました。

和歌山県立文書館って、あまり馴染みがありませんでしたが、古文書や公文書、行政刊行物の収集・保存・活用により、和歌山県の学術・文化の発展に寄与することを目的として平成5年7月に開館した施設です。

和歌山県立文書館

今回は、濱口梧陵さんに関する古文書「夏の夜かたり」から、梧陵さんがどういった人物だったのかを読み解く、という内容でした。

稲むらの火

稲むらの火のおさらいです。

濱口梧陵さんといえば、稲むらの火というイメージを持たれる方が多いと思います。

安政の大地震は2回起こっています。

1回目は1854年12月23日午前9時頃、2回目はその約32時間後の12月24日午後5時頃です。

津波は2回目の時に起こっています。
この時、梧陵さんも津波に飲まれています。

難を逃れ、広八幡神社にたどり着いた梧陵さんは、次に来る津波に備えます。

逃げ遅れた住民や津波で沖に流されてしまっていた住民を、避難場所である広八幡神社に誘導するために、道しるべとして稲むらに火を放ちます。

稲むらとは、収穫後の藁を積み上げたもので、草履などを作るためのいわゆる「藁の倉庫」のようなものです。
他には畑のマルチとしても使われています。マルチとは、土の温度を過剰に上昇させないように敷くシートのことで、現在はビニール製のものが用いられていますが、現代でも利用しているところがあるそうです。
ビニール製は時期が終われば後片付けをしなくてはいけませんが、藁はそのまま畑にすき込んでしまえば堆肥になります。

稲むら

いまでも、熊野古道沿いでは近露で見ることができます。

濱口梧陵の功績とは?

しかし、夏の夜かたりでは「『ツナミ』に『ススキ』へ火ヲ付ケシ如キハ決シテ大恩ト云フニアラズ」と書いています。

つまり、稲むらに火を付けたことは大きな恩ではないというのです。

記述には続きがあります。

「広村永遠ノ救済ヲ講ゼラレシコトコソ大恩有之所謂ナリ」

とあり、「広村永遠の救済策を講じられたことこそが大恩のいわれである」と述べています。

梧陵さんは、津波に遭って逃げる術を失った住民に対して、機転を利かせて稲むらに火を放ったことはもちろん称賛に値することなのですが、それ以上に、広村を「永遠に」救済する活動をされたことの方が遥かに功績が大きいということを述べているのです。

震災後の取り組みとして

稲むらの火 

広橋の再建 

広村堤防工事 

地租の軽減 

瓦礫の処理

などがあり、生活に困った住民を救済するために尽力されています。
濱口梧陵さんの伝記については、濱口梧陵伝などがありますが、瓦礫処理について書かれているのは夏の夜かたりだけだそうです。

梧陵さんは震災前からずっと広村の発展に尽力をされてきたという点も見逃せません。

広橋の架け替え 

漁業振興 

村役人の給料や祭礼にかかる費用の節約 

稽古場(後の耐久社)の創設

震災後広村を離れたあとは寺朋輩(てらほうばい・同じ寺子屋で学んだ仲間)の伝八や村の有力者が、異国船来襲に備えて農夫・漁夫へ鉄砲の訓練をしたり、熊野古道参詣者の利便性向上のために新しい道をつくったり、汽船と銀行を誘致したりと、さまざまな事業に取り組みました。

梧陵さんの残した功績は、計り知れない大きさがあり、現代そして未来永劫、語り継がれていくことでしょう。

濱口梧陵と徐福

今回のこういった話を聞いて、思わず梧陵「さん」と言いたくなるような人物像が私には見えて来ました。

新宮の方が「徐福さん」と呼んでいるような感覚でしょうか。

しかし、徐福はあくまでも伝説の域を出ない上に、始皇帝を騙して大金を巻き上げ、自分本位の勝手な考えで秦から逃げて来たのに比べ、濱口梧陵さんはきちんと史実として、しかも公のために身を粉にして尽力された記録が残されている点から言えば、私は「徐福」と呼び捨てにはできますが、梧陵さんの場合はそうはいきません。

新宮の人に怒られるな(笑)

徐福についての考証は、こちらをご参考にされてください。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く①

徐福=神武天皇???

さて、前回までの記事では、徐福伝説について検証をし、私なりの考えの述べさせていただきました。

これとは別に、「徐福が神武天皇ではないか?」などという暴論まで生まれています。

前回までの私の考えでいうと、それはまったくもってありえない話であり、それこそチャイナの情報操作に踊らされているのではないかと思えます。

徐福は本当にいたのか?

徐福については、その存在が疑問視されていますが、日本各地に残る伝説や、史記に描かれていることなどから、本当なのかもしれません。
こういった話には「不在説」はつきもので、神武天皇についても同じことがいえます。

「いた、いなかった」という論争自体、馬鹿げています。

もう2000年以上前のことなんて、本当かどうか分かりっこありません。

古事記・日本書紀でも書かれている通り、神武天皇は天照大神の子孫であり、ホツマツタヱでは初代アマカミ・クニトコタチから続く「13代目アマカミ」です。

それを言うなら、「天照大神は男性だったのか、女性だったのか?」という点をしっかり議論したほうがいいと思います。
「天照大神が男性だった」ということが分かれば、女系天皇容認論に終止符を打つことができますからね。

神武天皇は秦から来たお方ではありません。

「熊野権現垂迹縁起」の信憑性

似たような話で、「熊野の神々は唐の天台から来た」という説もありますが、これもホツマツタヱを読めばそんなことはないことぐらいすぐに分かります。
この「熊野の神々は唐の天台から来た」というのは「熊野権現垂迹縁起」という、熊野権現について書かれた一番古い書物によるもです。

ただ、「一番古いから正しい」ということにはなりません。

史記と同様、これが書かれた時代背景を読み解いてから判断するべきだと思います。
少し触りを調べてみると、どうもその意図が見えてきそうな気がしています。

これについては現在勉強中です。
またお話できるようになれば、この場でお話をさせていただきます。

チャイナ至上主義からの脱却

とにかく、チャイナ至上主義からは一刻も早く脱却しなければならないということは確かです。

日本は、チャイナに依存しなければならないくらい困っていたわけではありません。
むしろその逆で、チャイナ国内の情勢が悪かったからこそ、より住みやすい日本に大挙して押し寄せてきたのですから。

チャイナの人々を迎え入れ、助けてあげたのは日本人です。

その時にたまたま、異民族の文化が珍しくて日本に浸透していっただけの話だと、私は思っています。


秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑩

徐福公園

ある方から聞いたお話ですが、この徐福公園の建設費は6億6千万円で、うち、5億6千万円は華僑が支出、残りの1億円は1988年の「ふるさと創生事業」からの支出だったそうです。

ここに、新宮の人々の徐福に対する想いが現れていると思います。

ただ、よその人間の私から見れば、もっと他に使い道はなかったのか?と思わざるを得ません。

この「ふるさと創生事業」で、本宮では大斎原の大鳥居を建てたらしいのですが、まだこちらの方がずっとマシな使い方だと思います。
この鳥居の建設当時は賛否両論があったそうですが、結果的には成功したのではないでしょうか。

華僑に借りを作ってまでしなければいけない事業だったのでしょうかね?

チャイナの思惑

大金が投入されたということは、必ずそこに利害関係が生まれます。
「ここまでしてやったのだから、これくらいのことはやってもらわないと」とか「こんなに良くしてもらったのだから、それくらいのことは、どうぞどうぞ」となる可能性は十分にあります。

チャイナの怖いところは、まさにそこで、これは発展途上の諸外国にやっている手口と同じです。
今の国連やWHOなどがチャイナの言いなりになっているのは、多額の「援助」と称する賄賂で買収されている国が多いからです。

新宮市も、こうならないようにしていただきたいものです。

私の個人的な考えでは、チャイナが共産主義である以上は、チャイナとは関わりにならないほうが良い、いや、すべきではないと思っています。

友好的に見せかけて後で手のひらを返され、苦しんでいる国を見ていると、そう思わざるを得ません。

「考えすぎだ」「中国の人はいい人も多いよ」と思われるかもしれませんが、現にチベットやウイグルなども、それで騙されて支配されてしまった国です。

チャイナとの間に「友好」は存在しない

チャイナが共産主義である以上、「友好」という言葉は両国の間には存在しないというのが私の考えです。
ウイグル人やチベット人、内モンゴル人を大量に虐殺している国、毎日のように領海内に侵入して来る国と友好関係を結ぶことはありえません。

北京五輪など開催するに値しない国です。

また、チベット、ウイグルを支配し「陸の覇権」を手に入れたチャイナは、今度はあらゆる手を使って「海の覇権」、つまり日本と台湾を落としにかかってきます。
それを察することができない「お花畑思考」の人が多いことが、私が今一番気にかけているところです。

日本には高度な文明があった

日本人はこれまで、外国の素晴らしい伝統や技術を取り入れ、それをうまく発展させてきました。
しかし、日本にも古来よりはるかに高い文明があったことや、漢字伝来以前に文字が存在していたことが証明されつつあります。

「チャイナなくしては日本の発展はなかった」「チャイナのおかげで日本は発展することができた」のような考えがある以上、我が国はいつまで経ってもチャイナ至上主義から脱却することはできないでしょう。

「日本には古来より高い文明があったが、諸外国のいいところは愚直に取り入れて発展してきた」

というところが本当なのだと思います。

徐福伝説でも同じことが言えていると思います。

チャイナ依存の今の体質は、変えて行かなければならないと思っています。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑨

前回では、
◯秦の始皇帝は残虐非道な人物として描かれているが、果たしてそれは本当なのか?
◯徐福が来た本当の理由は?
◯なぜ日本各地に徐福伝説があるのか?
について、わたしなりの考えを書かせていただきました。

それをみなさんが支持するかかどうかはみなさんにおまかせするとして、今回は、この背景に潜む問題について検証をしたいと思います。

日本が発展したのは中国のおかげ?

徐福が日本に亡命をして来た時、多くの技術者なども一緒に来たと言われています。
前回でも書きましたが、それら技術者の技術が進んでいて、あるいは日本に元々なかったので、日本はそのおかげで発展をしたというような言い方をする人がいますし、それが通説になっています。

例えば、農業、捕鯨、造船、紙漉きなどの技術を伝えたとされていますが、ホツマツタヱによれば、稲作を含む農業はその頃(縄文時代)からすでに行われており、すでに大きな船を建造する技術も持っていたことが記されています。

また、捕鯨についても縄文時代からすでに行われていたことが分かっています。
クジラの骨が土器を作る時の台に使われていたということが発見されていますし、千葉県館山市の遺跡からは、イルカの骨に刺さったヤスの先が見つかっています。

日本に捕鯨を伝えたのは徐福ではないでしょう。

ただ、農業にしろ、捕鯨にしろ、他の技術にしろ、同じようなものを持っていた可能性はあると思います。
その方法が自分たちのものと違っていれば、興味を持つ人が出てきて、それを習得したいという人が出てきてもおかしくはないでしょう。

それがいつしか「農業や捕鯨などを伝えた」ということになったのだと思います。

また、先日ある方からお話を聞いた時に、中国のマスコミが来た時に出た言葉が「新宮の方は中国に感謝しているでしょう」と言ったそうです。
何のことか分からずにキョトンとしていると、「だって徐福が来たおかげで発展したのですから」と言ったそうです。

日本人は昔、アジア諸国で日本と同等の扱いをしてその発展に貢献してきました。
台湾の人々などは、「今の台湾があるのは日本統治時代があったから」という人が多いと言います。
しかし、「今の台湾があるのは日本のおかげだ」と台湾人に向かっていう日本人に、これまで会ったことがありません。

冗談でもそんなことは言いません。

彼らは平気でそんなことを言ってくるのです。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑩へ続きます。


秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑧

策士・徐福

こうして大金をせしめた徐福でしたが、徐福は何年もなかなか出港しません。
始皇帝は各地をしょっちゅう巡行しますので、徐福がまだ出港していないことを知り激怒します。
「船は行こうとしたのだが、悪い魚がいて邪魔をするので、その魚を退治するために軍隊がほしい」と要求をします。

・・・呆れますね。

この巡行の帰りに始皇帝が亡くなってしまいましたので、徐福が出港したのかどうかは定かではありませんが、日本各地、11ヶ所に徐福伝説があるところを見ると、どうやら出港はしたようです。

ここまでのまとめ

ひとまず、ここまでの検証をまとめておきます。

◯秦の独裁的な政治の手法は、始皇帝からのものではなく、秦の国の統治方法を始皇帝が受け継いたもの

◯始皇帝は現実的な考えの持ち主であり、外国人であろうと有能な人物は積極的に登用した

◯始皇帝は、現実的な考えの持ち主である一方、迷信は信じていた

◯絶対的な王になったからには、不老不死であらねばと考えるようになった

◯その考えを利用した方士たちが、「不老不死の薬を持って帰る」といって始皇帝を騙し、大金を巻き上げた

◯徐福はその方士の内の一人であった

◯当時の秦から亡命をしたい国民が多くいたことが推測できる

始皇帝は「暴君」というイメージがありますが、よくよく調べてみると、そのイメージとは違う側面も見えてきます。
もちろん、独裁的な政治を行っていた以上、人の命を簡単に奪うといったこともしてはいます。

こう考えてみると、当時の時代背景と合わせてみて初めて、徐福伝説が見えてくるような気がします。

日本各地の徐福伝説の真相は?

ここからは私の推論ですが、当時の秦には「霊薬」をダシに始皇帝を騙し、住みやすい日本に移住を計画していた方士がたくさんいたのだと思います。
方士は占い、医療、錬金術など、広い分野での知識がありましたから、それらを携えて日本に来たのでしょう。
また、秦が技術的に進んでいたのかどうかはさておき、たくさんの技術者を連れて来たことからしても、土地の人からすれば「異文化接触」であったに違いなく、「すごい人たちが異国から来た」という話はまたたく間に広がったに違いありません。
なので、その土地に異国の大船団がやってきて、そこに住み着いたということは事実だと思います。

「私が徐福だ!」???

その方士たちが日本各地にたどり着き「私がかの徐福だ」と方士が言ったことをその土地の人が鵜呑みにしてしまったのか、あるいは、当時は言葉もまともに通じなかったでしょうから、その土地の人が「あれはまさに徐福さんに違いない」と言ったのかどうかは分かりませんが、おそらくそういったことが日本各地で起こったことが想像できます。

あるいは、徐福がどこか特定の地に上陸したあと、その分派の人間が「私が徐福だ」と言って各地を回ったか、あるいは徐福自身が日本各地を回ったとも考えられます。

また、秦から大船団を組んで出港したので、それぞれの船がバラバラに別れてしまい日本各地にたどり着いたとも考えられます。
その各地で「私たちは徐福の一団だ」と言ったのかもしれません。

日本各地に徐福伝説があるのは、このためではないかと思います。

今挙げたことをまとめると

■秦の圧政から逃れて日本に住み着くために来た秦の国民が、徐福だけではなく、当時たくさん日本に渡って来た

■徐福自身やその分派が日本各地を回った

■バラバラになった船団が日本各地にたどり着いた

となります。

「秦の硬貨や食器が出土した」とか「お墓がある」からといって、それが徐福が来たという裏付けにするにはあまりにも稚拙です。
2000年後に、ある場所から1セントコインが見つかったからといって「これはトランプが来たに違いない」とはならないでしょう(笑)
お墓なんて後で作ろうと思えばいくらでも作れます。

「徐福英雄伝説」+「徐福上陸の地」を謳っている所を敵に回すような言い方ですが、これまでの検証から見ると、徐福は人を騙してやって来た単なる亡命者ということになります。

注意すべきところは司馬遷

ただし、ここでも注意をしなければならない点があります。
この「史記」を書いた司馬遷は漢の人間であり、秦の始皇帝のことを実際より悪く書いているという点は、以前の記事で述べました。

徐福も斉の人間であることから、司馬遷によって実際より悪く語られている可能性も無きにしもあらずという点です。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑨へ続きます。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑨


秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑦

騙された始皇帝

始皇帝は絶対的な独裁者となったおかげで、不老不死を願うようになりました。
そこにつけ込んだのが方士たちでした。

方士たちは不老不死の薬が手に入るといって始皇帝から資金を騙し取ろうとします。
候生(こうせい)、盧生(ろせい)もその仲間です。

始皇帝がお金を渡しても一向に不老不死の薬が得られないので、とうとう始皇帝は怒って方士たちを捕まえようとします。

彼らは逃げ出しますが、逃げる際に散々始皇帝の悪口を言っています。
それを聞いてますます怒った始皇帝は、彼らを捕まえるために大捜索を開始します。
しかし、彼らを匿う人々がいてなかなか捕まえられません。

そこで、そうした人々まで捕らえて処刑をします。
その数は460人にのぼったと言われています。

「坑儒」は、儒教の人が殺されたとされていますが、実は殺されたのは儒教の人ではなく、こうした人々だったらしいのです。

候生、盧生たちと同じく、徐福も始皇帝を騙し、たかった一人だったのです。

当時の誰もが神仙を信じていました。
始皇帝も信じていました。

徐福は、東の海上に三神山、蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という島があり、そこに行けば仙人がいて不老不死の薬が手に入る、私がそこに行ってその薬をもらって来ましょうと持ちかけ、始皇帝から大金を巻き上げます。

さらに、そこに行くには供え物が必要だ、向こうの神様は若い男女がほしいと言っているなどと言い、約3千人を集めさせ、莫大な旅費をせしめます。

「秦の始皇帝の命により」とはよく聞きますが、始皇帝の方から徐福に命じたのではなく、実際のところは徐福の進言により「それなら行って来い」となったということです。

徐福は、この住みにくい国を離れ、よその土地へ亡命したいと思っていたようです。
前にも触れましたが、徐福は元々、秦によって滅ばされた斉の国の人です。
国は統一されたとはいえ、滅ぼされた国の国民にとっては、さぞかし住みにくくなったことは想像に難くありません。

これは何も、秦の時代だけの話ではありません。

自国の情勢が悪いところからは亡命者が跡を絶ちません。
シリア、北朝鮮など、自国に見切りをつけて命がけでその国を脱出しようとする国民の心理は理解できます。
満州国が建国されてから、満州国が経済的な発展を遂げた時も、多くの人がなだれ込むように住み始め、あっという間に人口が爆発的に増えたという例もあります。

徐福は遼東半島を含む「斉」の人だったので、東に住みやすい日本という国があることは知っていたと思われます。
しかし、そこに行くにはしっかりとした船が必要だ、しかし、それには大金が必要だ・・・こう考えて始皇帝を騙したのでした。

ホツマツタヱにも、渡来人が多くて政治が乱れて困っているという内容の記述があるくらいです。

それくらい、日本は住みやすかったのでしょう。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑧へ続きます。


秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑥

焚書坑儒と方士①

焚書坑儒とは

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)とは、「焚書」と「坑儒」の2つの語から成り立っています。
焚書とは文字通り「書を焚く」書物や燃やしてしまうことです。
これは主に、新しい歴史書を記す時や、占領をした勢力がすることで、その者たちにとって都合の悪い歴史を抹殺するために行われます。

日本でも、敗戦後にGHQによる「War Guilt Information Program」によって、多くの書物が焼かれ、現在は自虐史観による歴史に書き換えられています。
また、徹底した検閲により情報統制され、少しでも反米的であったり、日本が正しいと言おうものなら、その新聞社や雑誌社は発刊停止にさせられるため、そういったことがまったく書けませんでした。

坑儒の「坑」は「穴に埋めて殺す」、「儒」は「儒教」を指します。
つまり、「儒教の人を穴に埋めて殺す」という意味です。

方士

方士(ほうし)とは、占い、医術、錬金術などを行った人です。
徐福もこの「方士」です。
後に「方士」は後の晋の時代に入って「道士」と呼ばれるようになります。
当時はまだまだこうした人々が重宝されていたようで、秦の始皇帝からも絶大な信頼があったようです。

始皇帝の弱点

現実的な思考の持ち主であった秦の始皇帝ですが、唯一の弱点といえるところがありました。

迷信に頼るところがあったことです。

たとえば、神仙を信じ、不老不死になることを望んだり、「六」とう数字を非常に重んじたりました。
たとえば、乗り物の輿の高さは六尺とし、この六尺で「歩(ぶ)」としました。
そして六尺で「一間」としました。
そして六十間で「一丁」、三十六丁で一里というように、何でも六を使いました。

ここに目をつけたのが方士たちでした。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑦へ続きます。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑤

孟子と荀子(じゅんし)

孟子と荀子は儒教の人です。

しかし、孟子は人間は元々善であるという「性善説」、一方荀子は、人間は元々悪であるという「性悪説」です。

その荀子の門下から出た李斯(りし)たちが秦を作りました。

従って秦は性悪説によって治められていたというわけです。
人は元々悪いものだから、その悪が出ないように、押さえつけて良くしなければならないのだという考えです。

孟子は「礼」を非常に重んじ、荀子は「法」を重んじました。
この「法」によって、人を押さえつけようと考えたのです。

ここから、君主は絶対的な「法」によって政治を行い、才能がある者はこれを取り立て、法に触れれば血縁関係であろうと親しい関係であろうと罰する。
そして君主に対する一切の批判は許されないという考えになります。

・・・これって、共産主義の考え方とそっくりというか、同じですよね?

チャイナがソ連の共産主義を受け入れる下地が、この頃には出来上がっていたのでしょう。
こういった思想が支配していたので、共産主義が比較的容易に受け入れられたのかもしれませんね。

ちなみに、儒教や道教というのは思想であり、宗教ではありません。
かなりざっくり言えば、儒教は「支配思想」、道教は「長生きしてこの世の楽しみを味わう思想」です。

・・・ざっくり過ぎますか?(笑)

思想による見方の違い

「戦国七雄」の中の一国に「斉(せい)」がありました。
その斉に魯仲連(ろちゅうれん)という人がいました。

この魯仲連と、荀子では、秦に対する見方が違っていることが興味深いです。

荀子「役人が非常に真面目に働いている」

魯仲連「秦は強権で脅して役人を使っている」

荀子「秦の制度は簡略で、いにしえの聖天子が目指したのはこれだ」

魯仲連「礼を知らない、礼というものを考えずに実質だけでやっている」

荀子「人民は非常に従順だ」

魯仲連「人民を上から押さえつけて奴隷のようにこき使っているだけだ」

性悪説の荀子から秦を見ると、秦はとても理想的な国家であったと言っています。
かたや魯仲連は、秦はとんでもない国家だと言っています。

思想教育というのは、国家の方向性を決定する非常に重要なことであることがこのことから分かります。
現在の日本は、GHQによる戦後の自虐史観の刷り込みにより、政治家でさえも「日本は先の大戦では近隣諸国に多大なる迷惑をかけた」と考えている人が多いのも、この思想教育のためです。

学校で教えている歴史教育が、その国の思想を支配します。

今日本が置かれれている状況は、決して良いとは言えません。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑥へ続きます。


秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く④

始皇帝の人物像

さて、こうして始皇帝(政)は、秦の王となり、天下統一に向けて他の6国を滅ぼしていくわけですですが、これは何も始皇帝の時代に突如として力を発揮したというより、元々あった国力と政策を引き継いで実行したということが分かります。

13歳の王がいきなりそんなことをできるはずがありませんよね。

「秦の始皇帝」と言えば「万里の長城」を連想する方も多いと思いますが、あれも元々各国が国境を明確にするためと、軍事的防衛という意味作っていた物であり、それらを始皇帝がつなぎ合わせたり、補強をしたり、北方に造ったりしたものですので、始皇帝がすべてを造ったわけではありません。

遊牧民の定め

さて、秦は元々遊牧的な要素を多く持っていた国です。

遊牧民は牛や馬を連れて絶えず移動をします。
首長が東に行けば東に全員がついていかなければなりません。
一人だけそれに反対して西に行けば、大平原でのたれ死にです。

なので、一旦首長が選ばれると、全員絶対服従であり、遊牧民の首長というのはある意味独裁者でもあるわけです。

チンギス・ハンも同じです。
「彼についていけば飯が食える、戦争しても勝てる、戦利品の分け前もいっぱいある」というので、多くの人が集まってきました。

こういった傾向が秦には元々あり、始皇帝の代々の祖先はみな独裁者でした。
始皇帝=独裁者というイメージがあり、もちろんそうなのですが、秦は元来から独裁者が治めていた国だったのです。
独裁は何も始皇帝から始まったものではありません。

始皇帝の人物像については、「史記」に記されています。
「秦王(始皇帝)は人と為り、高い鼻、切れ長の目、鷹の胸、山犬の声、恩愛を感じる心が薄い、残忍な心あり。窮することに居れば、易く人の下に出で、志を得れば亦た人を軽蔑し食い散らかす」

いざとなれば土下座もできる、しかしおとなしいと思えばそうではなく人を食ってしまう残忍な人間である・・・と。

また「ともに久しく交際するべからず」と書いています。

歴史は勝者によって書き換えられる

ここで注意しなければならないのは、この「史記」は漢の司馬遷が編纂したという点です。
秦は始皇帝が没してからすぐに滅びます。
その後、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の争いから漢が誕生します。

漢というのは秦とは何の関係もない国です。

その上、始皇帝に滅ばされた国々の人が大勢いたわけで、少なくとも始皇帝を良しと思いっていない人が大勢いたので、実像より悪く書かれている可能性が十分にあります。

中国の食人については、「三国志」にもあるように、劉備が敵に追われ、ある老人の家に匿ってもらったところ、その老人は息子を殺してその腿の肉をごちそうし、それを知らずに劉備が食べたあと、その家を後にする時、片足のない息子が横たわっているのを見て感動したという話があります。

普通、片足のない死体を見て「ああ、この老人は我が息子を殺してまで私にごちそうをしてくれたのか!」と感動しますか?

おそらく食人が当時では普通の習慣だったことの裏付けでしょう。

始皇帝が実際に人を食べたのかどうかはわかりませんが。

話がそれましたが、こうして冷静にい見ていくと、始皇帝はたしかに粗暴な面はあったでしょが、実はそれほどでもなかったのではないか?とも思えてきます。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑤へ続きます。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く③

始皇帝が王になるまで

この時代、どんな強国でも人質の取り合い、交換をしていました。
しかし、大切な子供まで人質に出すわけにはいきませんので、母親が王の寵愛を受けているかどうかで判断されました。
その女性が産んだ子が人質に出されやすかったのです。

秦の始皇帝の父・子楚(しそ)もその一人でした。
子楚は当時、趙(ちょう・「戦国七雄」の一国)に人質に取られていました。

その当時、秦は、始皇帝の曽祖父にあたる昭王が長い間治めていましたが、皇太子が昭王の40年に亡くなります。
そして2年後、安国君が皇太子に立てられます。
しかしこの安国君には子供が一人もいなかったのです。
安国君が太子に立てられたおかげで、その子供たちに王位を継ぐチャンスが出てきました。
安国君には20数人の子供がいました。
始皇帝の父・子楚もそのうちの一人です。

しかし、秦の都にはたくさんの子楚の兄弟がいましたので、王に就くには、子楚は形勢的に不利です。

ここに一人の人物が現れます。
呂不韋(りょふい)という人物です。
呂不韋は商人であり、各地を旅しているところに、趙の都へ行った時に子楚を知りました。
子楚は本国からの送金もあまりなく、大事にされていないようだったので、これに呂不韋は目をつけます。
そこで子楚に近づき説得をし、子楚を秦の王位に就かせることを計画します。

呂不韋は秦の本国に乗り込み、お金を作り、有力者に運動をします。
まず、子楚というのは大変優れた人物で、各地の有力諸侯とも広く付き合い、人々に信仰されていると売り込みました。
そして子楚に各地の諸侯たちを招いて宴会を開かせます。

子楚はこうして名声をあげていきます。

そして安国君の奥さん(華陽夫人)には、彼女の姉を通して養子縁組を結ぶ話を取り付けます。
彼らに子供がいないことをうまく利用したのでした。

始皇帝が秦の王になったのは、商人である呂不韋の運動のおかげでした。

昭王の跡をついで王位に着いた安国君でしたが、昭王の死後1年、即位の式の三日後になくなってしまいました。
次いで子楚が即位しましたが、この子楚も在位3年で亡くなり、息子の政(後の始皇帝)がわずか13歳で王となりました。
紀元前246年のことです。

しかし、王にはなりましたが自分一人で何もかも決めることはできません。
呂不韋は秦の政界の中で大きな力を持つようになっていきます 。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く④へ続きます。