秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く③

始皇帝が王になるまで

この時代、どんな強国でも人質の取り合い、交換をしていました。
しかし、大切な子供まで人質に出すわけにはいきませんので、母親が王の寵愛を受けているかどうかで判断されました。
その女性が産んだ子が人質に出されやすかったのです。

秦の始皇帝の父・子楚(しそ)もその一人でした。
子楚は当時、趙(ちょう・「戦国七雄」の一国)に人質に取られていました。

その当時、秦は、始皇帝の曽祖父にあたる昭王が長い間治めていましたが、皇太子が昭王の40年に亡くなります。
そして2年後、安国君が皇太子に立てられます。
しかしこの安国君には子供が一人もいなかったのです。
安国君が太子に立てられたおかげで、その子供たちに王位を継ぐチャンスが出てきました。
安国君には20数人の子供がいました。
始皇帝の父・子楚もそのうちの一人です。

しかし、秦の都にはたくさんの子楚の兄弟がいましたので、王に就くには、子楚は形勢的に不利です。

ここに一人の人物が現れます。
呂不韋(りょふい)という人物です。
呂不韋は商人であり、各地を旅しているところに、趙の都へ行った時に子楚を知りました。
子楚は本国からの送金もあまりなく、大事にされていないようだったので、これに呂不韋は目をつけます。
そこで子楚に近づき説得をし、子楚を秦の王位に就かせることを計画します。

呂不韋は秦の本国に乗り込み、お金を作り、有力者に運動をします。
まず、子楚というのは大変優れた人物で、各地の有力諸侯とも広く付き合い、人々に信仰されていると売り込みました。
そして子楚に各地の諸侯たちを招いて宴会を開かせます。

子楚はこうして名声をあげていきます。

そして安国君の奥さん(華陽夫人)には、彼女の姉を通して養子縁組を結ぶ話を取り付けます。
彼らに子供がいないことをうまく利用したのでした。

始皇帝が秦の王になったのは、商人である呂不韋の運動のおかげでした。

昭王の跡をついで王位に着いた安国君でしたが、昭王の死後1年、即位の式の三日後になくなってしまいました。
次いで子楚が即位しましたが、この子楚も在位3年で亡くなり、息子の政(後の始皇帝)がわずか13歳で王となりました。
紀元前246年のことです。

しかし、王にはなりましたが自分一人で何もかも決めることはできません。
呂不韋は秦の政界の中で大きな力を持つようになっていきます 。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く④へ続きます。

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