秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く②

熊野市・熊野古道「波田須の道」にある徐福の里

強権の始まり

秦の始皇帝と言えば、強権を振るって圧政を行ったというイメージがありますが、これは「戦国七雄」の時代から受け継いだものです。

秦という国の特徴として、実力がある者であればたとえそれが外国人であろうと積極的に採用したとい点が挙げられます。
これは、秦は牧畜や狩猟の民族であったことから、政治を執り行う人材が少なかったことによるものだと考えられています。

牧畜といえば、チンギス・ハンが率いたモンゴル帝国が真っ先に浮かびますが、これもやはり同じような理由で、外国人であろうと積極的に採用をし、勢力を伸ばしていったそうです。
「あそこに行けば生活も安泰だし、褒美ももらえる」という噂が広がり、爆発的に人が増えました。

秦はこうして国力をつけていきます。

鄭国渠

国力増強にもう一つ、大きな「事件」がありました。
それが鄭国渠(ていこくきょ)の建設です。

戦国七雄のひとつ、「韓」の鄭国という人が秦に灌漑工事をしたいと申し出ます。
これには韓の意図があり、この事業でたくさんのお金を使わせて国力を落とそうと考えていたのです。
しかしこれが結局裏目に出ます。
農作物がたくさん取れるようになり、逆に国力が上がってしまったのです。

この工事中、鄭国が韓のスパイであることがバレてしまいすが、この灌漑工事は秦にとってたいへんいいことだと説得し、引き続き工事を続ける許可をもらったといいます。

始皇帝(この時はまだ「始皇帝」ではなく「政」という名でしたが)は、こういったところは現実的というか、寛大というか、何か、信長公と似ているようなところがあると思うのは私だけでしょうか。

商鞅

秦の強権政治は、公孫鞅(こうそんおう)という人物が始めました。
公孫鞅は、商から領土をもらい、そこに封じられたので「商鞅(しょうおう)」と言います。
この商鞅も外国「衛」の人です。

商鞅は住民を5つに区切り、それを「一保」とし、それが10集まれば「隣保(りんぼ)」としました。
つまり1隣保で50戸です。
商鞅はこの50戸に、連帯責任を追わせる仕組みを作りました。
隣保の中で悪事を働いた人がいれば、それが50戸の責任になるというのです。

また、それだけではなく、「仲間」の悪事を伏せていると、その伏せていた人も罪に問われます。
いわゆる「密告制度」が奨励されたわけです。

さらに階級制度を設けました。

この階級制度が・・・

戦の功績を、獲った首の数で定めたのです。

首を3つ獲った者は3階級上がる、という具合に。

この等級を表す「級」という字は、もともとは首級の級、すなわち首の数を数える字でもあったそうです。

こうして商鞅が厳罰主義を敷いたことにより、民は段々と背けなくなり、内政は整備され、開墾が急速に進み、産業が振興しました。
この結果、軍隊が強くなっていきました。

こうして見ると、秦の始皇帝というのは突如として現れたのではなく、現れるべくして現れた英雄とも言えると思います。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く③に続きます。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く①

徐福公園(新宮市)

新宮市には、秦の始皇帝から命を受けた徐福が、不老長寿の霊薬を求めてたどり着いたという伝説が残っています。
しかし、この「徐福伝説」は、日本で11箇所確認されているそうです。

新宮市に近い熊野市・波田須(はだす)でもその伝説があり、各地で「うちが徐福さんが来た所だ」と主張をしています。

この話を聞いた時、「なぜ各地にこのような話が残っているんだろう?」と素朴な疑問を感じたことから、徐福が来たとされる秦の時代の時代背景や、始皇帝の人となりを調べることによってその背景が見えてくるのではないか?と思うようになり、今回それを検証てみました。

秦の始皇帝は残虐非道な人物として描かれていますが、果たしてそれは本当なのか?
徐福が来た本当の理由は?
なぜ日本各地に徐福伝説があるのか?

そのあたりについて検証していきたいと思います。

先にお断りしておきますが、この検証はあくまでの個人の検証・見解であり「こうだ」ということではありません。
あらかじめご了承ください。

秦の始皇帝の人となりを見るには、まずどのような時代背景から秦が成り立ち、始皇帝がどのような環境で育ってきたのかを知る必要があります。
それを知ることにより、なぜ、徐福に霊薬を求めるように命令したのかが見えて来ます。

秦の始皇帝の功績

当時の中国には「戦国七雄(せんごくしちゆう)」といって7つの強国があり、秦はそのうちの一つでした。
始皇帝があとの6国を次々と滅ぼし、紀元前221年に、最後に残った山東半島の斉(せい)を滅ぼして天下統一がなされました。

ちなみに徐福はこの斉の出身です。

始皇帝が天下統一を成し遂げると、様々な制度を作ります。

同文

これまで7つの国で異なっていた文字を統一しました。
秦で使われていた小篆(しょうてん)という文字に定め、残りの6国の文字は廃止・焚書されました。

・・・これを「功績」と言っていいのかは分かりませんが、勝者が敗者の歴史を塗り替えるのは世の常ですので、当時としても当然の考えだったのでしょう。

焚書とは、文字通り「本を燃やす」ということです。
これは、戦後日本のGHQが行ったものと同様、勝者が敗者の歴史を抹殺するために行われるものです。

ちなみにこれらの廃止された文字を六国文字(りっこくもじ)といいます。
六国文字は今でも、特に砂漠の地下から現れる金属の印章に見ることができるそうです。

轍(わだち)の統一

当時は外国のくるまが容易に入って来ないように、各国で轍の幅が違いました。
この「くるま」とは戦車を指します。
天下を統一した始皇帝は、もはや轍の幅の違いは全国の交通を阻害するものと考え、「馳道(ちどう)という道路を造り、車輪の幅を統一します。

馳道は幅67メートルあり、6~7メートルおきに樹木が植えられていた大変立派な道だったそうです。

郡県制の採用

天下統一を成し遂げたあと、国を治めるための制度をどうするかということで問題になりました。
各地を統治する王を配置するか、中央の人間を各地に送って中央が統治する「郡県制」にするか・・・。

前者は、王の下に王を凌ぐ実力者が現れる可能性があるとしてこれをとりやめ、全国を直轄地にして36の郡に分け、郡の下に県を置く「郡県制」を取り入れました。

ただし、この郡県制は、秦の始皇帝が始めたことではなく、7国の中で唯一、秦がすでに採用していた制度だったのです。
これを全国に広めて統一した、というのが本当のところです。

度量衡の統一

一合、一升、一斗という単位を聞いたことがあると思います。
いまでもお酒などでは「日本酒なら一日一合が適量」などと言います。
この単位も国によってバラバラだったので、これらをすべて統一しました。
これは、天下統一をした年にすぐに実施をしています。

このことにより、これまで各地でいちいち換算しなければならなかった手間がなくなり、産業、経済が大いに発達しました。

こうして全国がひとつになることにより「中国はひとつだ」という意識が生まれました。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く②へ続きます。