熊野古道館
このコースの始まりは、滝尻王子近くにある古道館です。
ここで熊野の概要をお話することができますが、注意しなければならない点として、あまり長く話しすぎないということです。
だいたいこの日が熊野古道行初日というお客様が大半ですので、歩きたくてウズウズしています。
その出鼻をくじくような長話をするとお客様は退屈してしまい、話を聞いてくれなくなります。
道中でもたくさん話す機会はありますので、道中でできる話は小出しにし、古道館での説明は必要最小限に留めるべきです。
ではいってみましょう。
平安衣装

古道館に入ると、まず目に飛び込んでくるのがこの平安衣装をまとった美男美女?です。
女性の衣装はおそらくよく見かけると思いますが、男性の衣装も含めて、この出で立ちで熊野古道を歩いたわけではありません。
この後ろに写真がありますが、巡礼者たちは白装束を着て歩いていたそうです。
これは、熊野に詣でることはよく聞く「蘇り」とされていて「擬死体験をする」という意味で死装束とされていることが由来だとか。
万一巡礼半ばで亡くなってしまえばそのまま埋葬され、持っていた杖を墓標の代わりに使ったとも聞いたことがあります。
地図と熊野古道

熊野は現在、5つのルートに分類されています。
まずは大阪・窪津王子に端を発し、田辺に至る「紀伊路」、田辺から紀伊半島を横切るようにして本宮を目指し、速玉大社から那智大社、さらに本宮へと結ぶ「中辺路」、田辺から海岸線を通って那智の補陀洛山寺に至る大辺路、高野山から本宮に至る小辺路、伊勢の神宮から海岸線を通って速玉大社・本宮大社に至る伊勢路があります。
昔は「紀伊路」と「中辺路」をあわせて「紀伊路」または「紀路(きじ)」と呼んでいたそうですが、現在は「紀伊路」と「中辺路」とに分けて呼ばれています。
そして、「熊野古道」と呼ぶかどうかは意見の分かれるところですが、同じく熊野と吉野を結ぶ「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」があります。
元来、熊野古道は修験者によって開かれたものであり、それ以前から開かれていたこの大峯奥駈道が、熊野への巡礼道の先駆け的な存在です。
その影響が色濃く残っているのが「王子」と呼ばれるお社ですが、これはまたの機会にお話します。
よって、熊野と他の地域を結ぶ巡礼道は全部で6つあることになります。
ルートの分類(どこからどこまでが「大辺路」なのかなど)については様々な見解があるそうなので、あくまでも一例としてご理解ください。
一説によると、大辺路は新宮までだという説もあります。
展示物

古道館には様々な貴重な展示物があります。
これを全部説明しようとすれば30分くらい必要ですので、必要最小限のものだけにします。
私はいつも日記、壺、3枚の写真、刀の写真(左上)、笠くらいしか話しません。
この中で、壺と刀については案内中に話の続きが登場しますので、ここでそのきっかけを作っておくためです。
では、奥の左上、刀から。
黒塗小太刀

奥州・藤原秀衡が熊野に詣でた際、妻(側室らしいですが)が滝尻王子近くで産気づき、乳岩に子供を残して熊野詣を続けます。
跡継ぎが欲しかった秀衡は喜び、この地に七堂伽藍を建立し武具を納めました。
その中のひとつがこの「黒塗小太刀」で、現在は和歌山県立博物館に所蔵されています。
ちなみに、この七堂伽藍、1585年・秀吉の紀州攻めの際に消失しました。
その七堂伽藍がどの現在のどの位置にあったのかは分からないそうです。
熊野懐紙

1201年、後鳥羽上皇参詣の折、道中様々な場所で和歌会(わかえ、いわゆる歌会)が開かれ、その当時の和歌(レプリカですが)が展示されています。
和歌会は住吉、厩戸王子、藤代王子、切目王子、滝尻王子、近露王子、発心門王子の合計7回に渡り開かれ、ここ滝尻王子でも開かれました。
歌会ではまずお題が与えられ、それに基づいて即興で歌を詠みます。
滝尻王子では「河辺落葉 旅宿冬月」のお題が与えられました。
おそらく定家も詠んだはずですが、現存しておらず定かではありませんが、神坂次郎氏の著書「熊野御幸」にはこのような歌が紹介されています。
たきがはのひびきはいそぐ旅のいほを しづかにすぐる冬の月かげ
この熊野懐紙、当時は非常に高値で取引されていたので、後鳥羽上皇の貴重な収入源となっていたそうです。
熊野懐紙の詳しい情報については、こちらが詳しいのでご参考にされてください。
今日はここまでです。
続きはまた明日です。
