近野神社
1906年に神社合祀が始まり、ここ熊野では1907年から1909年にかけて合祀の嵐が吹き荒れました。
終息は1920年であり、この間、和歌山県と三重県では顕著に神社合祀が行われ、5819社あった神社は1908年末には1922社にまで激減しました。
取り壊された神社がある中、この神社は逆に近野地域にある神社や王子、あるいはすでに無くなって「社なし」となった王子も含めてここに合祀されています。
合祀された王子は、大坂本王子、近露王子、継桜王子、比曽原王子、中川王子、小広王子、岩上王子、湯川王子の8社(継桜王子は復祀)
合祀された神社は春日神社、丹生神社、八幡神社、稲荷神社、下永井八幡神社、大畑八幡神社、湯川の王子神社、地主神社など8社で、計16社が合祀されていました。
1907年には宮ノ上にある金刀比羅神社に合祀されていましたが、手狭になったために1908年に現在地に遷座されました。
今「近露王子公園」となっている場所にはかつて春日神社があり、かなり大きな規模の神社だったと聞いたことがあります。
その春日神社も近野神社に合祀され、「目通り1丈8尺(約3.3m)以上ある古老杉三本」も伐採されました。
継桜王子

ヒノキから桜の花が咲いていたという故事から名づけられた王子。
普通、王子の名前は地名に由来することが多いですが、この王子は故事にちなんだ名前が付けられている珍しい王子です。
境内には9本(実際に数える8本しかないと思うのですが)の「野中の一方杉」があります。
枝のすべてが南を向いていることからこの名前が付けられています。
一説には「枝が那智大社の方を向いている」とありますが、単に太陽が当たる方に向いているだけです(笑)
よく「〇〇の一本松」のように「野中の一本杉」と勘違いされる方がいますが、「一本」ではなく「一方」です。
これらの杉は、先出の神社合祀の際に切り倒されずに生き残った木です。
かつてはこういった巨木は40本ほど(31本とも)あったそうですが、神社合祀の際に切り倒されたそうです。
南方熊楠の神社合祀反対運動なければ、これら現存する9本も見ることが出来なかったでしょうね。
神社合祀のあと、1950年に復祀されています。
地元の人々にとっては、心の拠り所だったのでしょう。
ご神体はなくなっても(近野神社に移っても)、いつでも再びお迎えできるように社殿は残していたそうです。
11月3日の14時頃からは「野中の獅子舞」が奉納されます。
薄暗くなった境内に差し込む太陽と相まって、幻想的な舞を見ることができます。


動画はこちら
2017年に社殿が塗り替えられ、以前に描かれていた絵も復活しています。
・・・最近は結構色あせていますが。
塗り替えだけではなく、基礎の石を整備したり、腐食した木材は新材に替えられています。
総事業費は約1750万円(!)



神社合祀に関する意見
南方熊楠による、近野近辺の神社合祀の当時の様子を神社合祀に関する意見より引用します。
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合祀濫用のもっともはなはだしき一例は紀州西牟婁郡近野村で、この村には史書に明記せる古帝皇奉幣の古社六つあり(近露王子、野中王子、比曽原王子、中川王子、湯川王子、小広王子)。
一村に至尊、ことにわが朝の英主と聞こえたる後鳥羽院の御史蹟六つまで存するは、恐悦に堪えざるべきはずなるに、二、三の村民、村吏ら、神林を伐りて営利せんがため、不都合にも平田内相すでに地方官を戒飭し、五千円を積まずとも維持確実ならば合祀に及ばずと令したるはるか後に、いずれも維持困難なりと詐り、樹木も地価も皆無なる禿山頂へ、その地に何の由緒なき無格社金毘羅社というを突然造立し、村中の神社大小十二ことごとくこれに合祀し、合祀の日、神職、衆人と神体を玩弄してその評価をなすこと古道具に異ならず。この神職はもと負荷人足の成上りで、一昨冬妻と口論し、妻首縊り死せる者なり。かくて神林伐採の許可を得たるが、その春日社趾には目通り一丈八尺以上の周囲ある古老杉三本あり。
また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。そのうち両社共に周囲二丈五尺の杉各一本は、白井博士の説に、実に本邦無類の巨樹とのことなり。またこれら大木の周囲にはコバンモチというこの国希有の珍木の大樹あり。托生蘭、石松類等に奇物多し。年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下を過りて神徳を老樹の高きに比え仰がれたるなり。すべてかかる老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要することなれば、いかにもして同林の保存を計らんと、熊楠ら必死になりて抗議し、史蹟保存会の白井、戸川〔(残花)〕二氏また、再度まで県知事に告げ訴うるところあり。知事はその意を諒とし、同林伐採を止めんとせしも、属僚輩かくては県庁の威厳を損ずべしとて、その一部分ことに一方杉に近き樹林を伐らしめたり。過ちを改めざるを過ちと言うとあるに、入らぬところに意地を立て、熊楠はともあれ他の諸碩学の学問上の希望を容れられざりしは遺憾なり。かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ。
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熊楠は「牟婁新報」「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」「東京朝日新聞」にも神社合祀反対の投稿をし、さらに東京帝国大学で植物学の権威である松村任三(じんぞう)に対しても長文の手紙を寄せ、当時の内閣法制局参事官でもあり、民俗学者の第一人でもある柳田國男が「南方二書」として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けました。
それでも飽き足らず(?)1910年8月、夏期教育講習が田辺中学校であり、それに出席していた神社合祀を進める県の田村某氏に直訴しようと会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、標本を入れている信玄袋を投げ込んだところこれが「家宅侵入罪」となり、18日間監獄に入れられました。
熊楠の残した功績は非常に大きいですね。
引用元:
和歌山県神社庁
南方熊楠記念館
産経新聞
青空文庫
