湯川王子
「湯川」という地名は古くから見られ、定家が後鳥羽上皇に随行した際にはすでにありました。
定家は近露を出発したあと、この湯川で宿泊をしています。
また、1210年には修明門院が参詣した際には「湯川王子」という名が見られることから、この王子は少なくとも800年前には存在していたことは確かなようです。
熊野古道中辺路沿いで社殿がある王子社は非常に少ないことが特徴ですが、この湯川王子は健在です。
この王子もやはり、1909年に近野神社に合祀されていますが、1983年に地元出身の方々の寄付によって再建されました。
ただ、車ではアクセスが難しい場所にありますので、車で訪れることは難しいでしょう。
行けなくはないですが、どう頑張っても少しは歩かないといけません。
ケヤキ
神社合祀前の時代には、境内にケヤキの巨木があったそうです。
このケヤキの内部が腐ったからという理由で伐採をしたところ、200匹のムササビや数百のフクロウやミミズクが飛び出したと言われています。
その切り株の広さは畳8畳分あったと言われています。
祭り
今も続いているのかは分かりませんが、2020年11月23日にここを歩いた時には、ちょうどその時が湯川王子の祭りの日でした。
普通、神社の祭りの神事は神主さんが執り行いますが、ここでは田辺市のお寺からお坊さんを呼んでいました。
湯川出身の方々も一緒に来られていました。

湯川氏と湯川集落
現在は「道湯川(どうゆかわ)」という呼称になっていますが、本来は「湯川」という集落でした。
本宮にも湯川という地名があり、これと分けるために「道」をつけたのだそうです。
地元の方々をこれを嫌ったという話を聞いたことがあります。
私の出身は白浜ですが、仮に同じ地名が他にあり、私たちが住んでいる白浜を「これからは『道白浜』と呼ぶ」と言われれば、やはりいい気はしません。
「なんでうちが名前を変えなければいけないのか?あっちの方が上ということか?」となると思います。
湯川一族は、甲斐武田の流れをくむとされ、彼らが熊野に落ちてきてこの地名である湯川を名乗ったとされています。
彼らは武士であったため、古道沿いの山賊を取り締まっていました。
その成果が認められて日高の領地を授かります。
湯川一族の出世頭、湯川直春は、秀吉の紀州攻めの際には上富田の山本氏とともに徹底抗戦をし、秀吉軍を手こずらせます。
業を煮やした秀吉は、湯川・山本氏に和議を申し入れ、二人は大和郡山城に向かいますが、そこで湯川直春は毒殺され、身の危険を感じて城を脱出した山本氏は、仲間だと思っていた藤堂高虎に殺害されてしまいました。
この事件以来、両氏の勢力は急激に衰えてしまったとのことです。
今はすでにここには誰もいませんが、1902年~1945年までは義務教育免除地でした。
詳しい話は、ガイドと一緒に歩きながらにしましょう(笑)
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一般社団法人 和歌山地域通訳案内士会
