
滝尻王子
現在の正式な名称は「滝尻王子宮十郷神社」です。
創建は定かではありませんが、奈良時代の末頃とも言われています。
少なくとも藤原宗忠が記した「中右記(1109年)」には記載がありますので、その頃にはすでに王子として存在したいたようです。
中右記には「初めて御山の内に入る」とも書かれ、ここからが熊野の神域の入口とされていました。
現在の名前は、1908年から1909年にかけてこの地域で起こった神社合祀によって、滝尻周辺の神社がここに集められてきたことにちなんだものです。
「十郷」とは栗栖川の厳島神社・杵荒神社・石船の八柱神社・小皆の竃神社・水上の岩戸別神社・内井川の若宮神社・熊野川の若宮神社・真砂の八幡神社2社・北郡の日吉神社・西谷の大山祇神社を指します。
禊
かつての参詣者たちは、滝尻王子に入る際には目の前を流れる石田川(いわたがわ。現・富田川)と石船川(いしぶりがわ)で禊をしてから入ったそうです。
石田川は観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる水、石船川は薬師如来の瑠璃光浄土からながれてくる水とされていたようですが、石田川は薬師如来、石船川が千手観音、あるいはその逆・・・というようにこの解釈は分かれています。
地元の語り部さんからは、
「石船川を擁す分領山には平安時代から千手観音が祀られている。
石田川の少し上流域には「釜ん滝」というところがあり、遠い昔には釜ん滝という場所には薬師如来が祀られていることから、石船川には千手観音、石田川には薬師如来が宿ると考えている」
とお聞きしました。
祭神と五体王子
滝尻王子は、五体王子の一つとして数えられ、最も格式の高い王子社として数えられています。
五体王子とは、熊野の御子神5柱すべての神が祀られている王子のことです。
五体王子はこの他に海南市の藤白王子、印南町の切目王子、上富田町の稲葉根王子、田辺市の発心門王子があり、全部で5つあります。
5つあるので「五大王子」と勘違いされている方もいるようですが、正式には「五体」です。
その御子神とは、アマテラスオオミカミ、アメノオシホミミノミコト、ニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトを指します。
本宮のかつての主祭神・イザナミノミコトの、いわゆる「子孫」に当たる神々なので、「御子神」という表現はちょっと違うと思いますが、一応「御子神」と言われていますので、ここではそう表現します。
ちなみに、私がガイドをする時は「decendants」を使います。
王子にはそれぞれ「金剛童子」が祀られていたそうです。
この金剛童子は熊野の神の眷属にあたる神で、参詣者の道中の安全を守る神とされていました。
滝尻王子には、平安末期に作成された金剛童子像(35.8cm)が祀られていましたが、現在は県立博物館で保存されています。
2011年の台風12号で滝尻王子が浸水し、像への被害は免れたものの、今後もその懸念があることから、移転されたとのことです。
現在はその複製が祀られています。
和歌会と歌碑
後鳥羽上皇4回目の御幸・建仁元年(1201年)には、ここで和歌会が開かれています。
和歌会ではお題が与えられ、そのお題を元に歌をつくり、披露します。
この日のお題は2つ。
河辺落葉
そめし秋をくれぬとたれかいはた河 まだなこみこゆる山姫のそで
(山姫が美しく染め上げた秋は暮れてしまったと、いったい誰が言ったのだろうか。岩田川には、山姫の袖、すなわち川に落ちた色鮮やかな紅葉が、まだ波を越えてゆくことであるよ)
旅宿冬月
たきがはのひびきはいそぐたびのいほを いづかにすぐるふゆのゆ月かげ
(滝川の響きがせわしなく聞こえる旅の庵を、光を投げかけて、静かに通り過ぎてゆく冬の月であるよ)
定家はこのあと退出して少し眠り、12人が支える輿に乗って「山中」の小屋に泊まっています。
この「小屋」は大門王子付近であったろうと言われています。
ここで定家は「嵐が寒く、とても耐え難い」と嘆いています。
後鳥羽上皇も歌を2首詠んでいます。
そのうちの1首が境内の石碑に刻まれています。
おもいやる かものうはけのいかならむ しもさへわたる 山河の水
この時は旧暦の10月に来られているので、太陽暦にすれば11月の終わり頃にあたります。
この歌は、秋から冬にかけての熊野詣の厳しさを詠っているとか、石田川に浮かぶ鴨を見て、京都の鴨川の鴨を思い出して懐かしんでいるとかいう意味だと聞いたことがあります。
ちなみに、この歌のお題は「山河水鳥」です。
この碑に使われている石は、承久の変(乱)のあと、後鳥羽上皇が隠岐に流され、そこで余生を過ごしたその隠岐から持って来られたものです。
石碑の裏には、この碑を建立する際に寄付をした方々の名前とともに、
「平和は何よりも尊い。戦争の愚かさを体験した我ら飛行兵9名は、恒久平和の願いをこの碑に託す」と刻まれています。
「飛行兵」とは特攻兵のことです。
この碑には、後鳥羽上皇でさえ戦を起こしたけれども、戦争はいけない。これから先は誰も経験してはならないし、経験させてもいけない。という、反戦の意味が込められています。
経塚跡
平安の代には「末法思想」が世の中を席巻し、死後の世界への関心が高まり、各地に経塚が多くつくられるようになりました。
熊野も例外ではなく、特に神仏習合の色合いが強かったこともあってか、多くの経塚が残されています。
経塚とは、いわゆるタイムカプセルで、経文などを経筒という銅製の筒にいれて埋納したものです。
経文と一緒に他の貴重なものなどを納めることも多く、ここ滝尻王子の経塚からは鈴、刀、合子、鏡などが一緒に発見されています。
経塚跡はこの先の熊野古道沿いの剣ノ山、本宮の備崎、飛瀧神社入口(現在は駐車場)などでも発見されています。
かつての境内
現在はその面影はありませんが、以前(といっても昭和の時代)には社務所や宮司さんの社宅、土俵などもあったそうです。
以前は10月10日が祭りの日で(現在は11月3日)、この日に子供の相撲大会が開催されていました。
勝ち抜けば景品もあったようです。
現在(1999年以降)は、熊野古道へは社殿の裏から入るようになっていますが、実はあの道は山仕事をする人たちの杣道であり、本来は宮司さんの社宅があった裏手から、急なつづら折れの道を上ったそうです。
まさに「己が手を立てるが如し」だったそうです。
奥州の藤原秀衡が子供に恵まれなかったために熊野権現に願ったところ、見事懐妊されました。
そのお礼参りに、妻(側室とも)と共に7か月の身重で滝尻まで来られた際に、黒漆塗小太刀とミニチュア版の七堂伽藍を建立したと伝えられています。
残念ながら、その七堂伽藍は秀吉の紀州攻めの際に焼失してしまったと伝わります。
なお、黒漆塗小太刀は県立博物館に所蔵されています。
今回は他の神社もご紹介する予定でしたが、分量が少し多いので今日はこの変でご勘弁を。
