唐との関係

王朝が唐に変わってからというもの、清の時代に至るまで、「礼制」という固有の意識を前提に国家が守られてきたという側面があるようです。

「元会儀礼」といって、君主が臣下や従属国などの使節から受ける年頭行事がありました。

この場では「礼」を競い合ったと言われています。

これに空海と最澄も参列したそうです。

804年11月3日、正月元旦に開かれる元会儀礼に参加するため、二人と大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)一行が福州を出発し、4200kmの行程を昼夜問わず歩いて12月21日に長安に到着しました。
最速の馬でも100日あまりかかるところを、49日で到着するというスピードでした。

この時の唐王朝の待遇はかなりのものであったそうです。

しかし、9世紀になってから遣唐使は間遠になり、円仁が838年に出発した時と、この空海・最澄が出発した間に34年という開きがあります。
円仁が日本に帰国してから半世紀近くたった894年に次の遣唐使が計画されました。

しかし、これに異を唱えたのが菅原道真でした。

この頃というのは唐の国力が衰えて国内の治安が乱れ、航海も困難で途中では賊のために命を落とす者もあったという理由ですが、それ以上に「これ以上唐に学ぶことはない」と判断しての結果だったことが一番大きい要因だったのでしょう。

その唐は、道真公の建議が受け入れられて13年後の907年に滅亡してしまいます。

この頃の日本人、特に菅原道真公の先見の明は目を見張るものがあります。

唐の滅亡は、周辺諸国にも大きな影響をもたらします。

唐と冊封関係を持っていた国々は一斉に滅亡してしまいます。
日本がもし、あのまま唐との関係を続けていたなら、どうなっていたのでしょうか?

西尾先生は、この「事件」を古代ローマ帝国が東西に分裂した時のこととよく似ていると指摘しています。

唐の滅亡後、宋王朝になりますが、北部を遼(契丹)や金(女真族)に押さえ込まれたままで威勢がなく、唐のような強力な王朝がチャイナに現れることがなくなってしまいました。
なので、唐の崩壊をもってチャイナ文明はほぼその役割を終わらせてしまったということです。

遣唐使が廃止されたあとは、日本の国風文化の興隆の時代につながってきます。

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