牛馬童子像

今や中辺路のシンボルと言われる牛馬童子像。
一般に牛馬童子像と呼ばれていますが、真相のほどは定かではないようです。
馬と牛に跨ったお方は花山法皇とも言われています。
ではそもそも、「牛馬童子」とは何なのでしょうか?
牛馬童子の本来の意味は、弁財天に使える眷属・十六童子(十五とも)の一人のことであり、印錀童子、官帯童子、筆硯童子、金財童子、稲籾童子、計升童子、飯櫃童子、衣裳童子、蚕養童子、酒泉童子、愛敬童子、生命童子、従者童子、船車童子、善財童子で構成され、それぞれに役割があります。
牛馬童子は動物愛護の功徳があるとされています。
・・・動物愛護の仏が、動物に跨っているって、虐待か?
と思うのは私だけでしょうか?(笑)
熊野の歩き方を表している?
また、牛と馬を熊野の歩き方に例えているのだという説もあります。
上り坂などでは牛のように粘り強く、平坦な道は馬のように軽快にとか、熊野に参る時は牛のようにゆっくり、帰りは馬のように早く・・・など。
まあ、後から何とでも付け加えることができますので、この説自体後付け感が否めませんが。
あるいは、牛と馬は昔、農耕に使われていた動物であることから、農耕の神だという説もあり、みんな言いたい放題です(笑)
寛和(かんな)の変
花山天皇は17歳で代65代天皇として即位し、19歳で天皇の座を追われ、法皇となります。この事件を「寛和の変」と呼びます(次の一条天皇は7歳で即位)
花山天皇が19歳の時、妻とそのお腹にいた子を亡くしてしまいます。
その悲しい出来事以降、花山は仏門に入ることを考え始めました。
一方、自分の娘を花山の叔父(円融天皇)に嫁がせていた当時の右大臣・藤原兼家は、その孫にあたる皇太子(懐仁親王・後の一条天皇)を天皇に即位させ、外戚となることで政治の実権を早く握りたかったが、それには花山の存在が邪魔でした。
そこで兼家は息子の道兼に、花山を仏門に入らせるようそそのかさせます(一度仏門に入ると、二度と天皇の地位には戻れなかった)
道兼は宮中から花山を連れだし、元慶寺でまず花山が剃髪をし、仏門に入ると道兼は「さすがに無断では問題になりますので、父の兼家に事情を説明してきます」といって去ったまま戻って来ませんでした。
そこで初めて騙されたと知った花山は慟哭したそうです。
この後、兼家の孫が三種の神器を授かり、わずか7歳で一条天皇として即位。兼家は摂政*の地位を確立させました。
法皇となった花山は、熊野巡礼の旅に出ます。
*摂政 とは、天皇が子供、あるいは女性の場合に、天皇を後見しながら代理で政治を行う人のことです。
箸折峠と近露
天皇の地位を追われた関係で、お供も少なかったそうですが、ここで昼を食べる際、箸を忘れたことに気づき、近くのカヤを折ったという言い伝えから「箸折峠」と呼ばれるようになりました。
・・・このお話は様々なところで紹介されていますので省略します。
では、なぜ、カヤからそのような赤い液体がでるのでしょうか?
カヤは虫に食わるなどしてダメージを受けると芯が赤くなるそうです。
カヤを折った際に、赤い露が付着して滴り落ちていたのでしょう。
花山法皇は皇族では二番目に熊野に来られたお方です。
西暦987年。
ちなみに、最初のお方は宇多上皇(907年)です。
その後、花山法皇は那智まで足を伸ばし、那智の滝の二の滝に庵を組み、千日間の修行をされ、相当な験力を得たと言われています。
頭部切断事件
2008年6月28日、像の頭部が切断されているのが発見されます。
2010年8月16日、鮎川のバス停のベンチに頭部が置かれているのを地元の中学生が発見します。
この時すでに切断されて行方不明になっていた頭部はレプリカによって復元され、接着剤とボルトで固定されていました。
オリジナルの頭部を元の胴体に取り付けることも検討されたようですが、技術的にレプリカの頭部をキレイに外すのは困難であるため、断念したそうです。
2014年5月1日、再び頭部が破損しているのが発見されます。
しかし、これは像の内部に浸透した水分が凍って膨張して自然破断したらしく、一旦壊れたものを修復し、それを維持することがいかに難しいかを知ることができます。
今日はここまでです。
