水呑王子跡
1109年、藤原宗忠の中右記には「新王子」という記述があることから、どうもこの王子はその頃に建てられたもののようです。
聞くところによると、王子の場所はスタンプ台と説明看板がある向かいの小高い丘の上にあったそうです。
かつては、大門王子あたりを「水飲」と呼んでいたので、こちらを本宮の内側として「内水呑」と言って区別していたそうです。
ちょうど「湯川」と「道湯川」のようなものですね。
なんか、本宮に近いところが優遇されているようなきらいがあると感じるのは私だけでしょうか?
この近くに建てられている石碑は1723年に徳川宗直が建てたものです。
この石は緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれていて、この地方では採れない石です。
九州から関東に及ぶ「中央構造線」の南側に三波川変成帯がありますが、その三波川変成帯によくある石です。
しかしまあ、よくも和歌山市あたりからこの石を運んで来たものですね。
高野山の五輪塔の石もそうですが、昔の人々の知恵と根性?には頭が下がります。
果無山脈と小辺路

少し見にくいですが、一番奥の山並みが果無山脈で、和歌山と奈良の県境になります。
その向こうは奈良県十津川村で、村としての面積では日本最大です。
その広さは、東京23区を合わせたものよりも大きいとか。
その奈良県十津川村は、明治の神仏分離令が顕著に実行された土地でもあり、1990年代に龍泉寺が建立された以外では、村内にお寺がないようです。
私の父はこの村の出身ですが、例に漏れず?神道派で、毎日神棚にお祈りしていた姿を見て私も育ちました。
うちは違いますが、葬式なんかも神式でされるところが多いと聞きます。
なぜ、ここまで徹底的に寺院が滅却されたのかは、こちらのサイトが詳しいのでリンクを貼っておきます。
なぜ、日本一大きな村から仏教寺院が消え去ったのか。廃仏毀釈 十津川村 玉置神社
さて、その果無山脈の中で尖った頂きの山が石地力山です。
その横の窪んだところに、高野山から本宮大社を結ぶもう一つの熊野古道・小辺路の果無峠越が通っています。
ちなみに、果無山脈と果無峠越をごっちゃに考えている人がいますが、厳密には果無峠越は果無山脈の一部を通っているだけです。
ちょうど山頂の果無峠で山脈と合流しています。
なので、果無山脈の尾根道と果無峠越は、途中までは全くの別ルートです。
果無山脈とは、田辺市龍神村・笠塔山から安堵山、熊野川に至る全長18kmの山脈のことです。
私はよく、黒尾山登山口から冷水山までの往復や、少し先の公文の崩(くもんのつえ)あたりまで、休みの日ごとに7年間歩いていました。
特に冷水山からの眺望は本当にきれいですよ。
熊野古道と違って植生も豊かですし、山自体も厳しくはないので、機会があればご一緒しましょう。
・・・冬はめちゃめちゃきれいですが、雪が深い時があるのでやめておいたほうがいいですが。
