熊野古道の花 秋編

熊野古道シーズン真っ只中ですね。

和歌山地域通訳案内士会でも、日々ガイドがどこかの熊野古道をご案内しています。

今回は熊野古道で秋によく見られる花をご紹介いたします。
花期が過ぎているものもありますが、ご容赦を。

チャボホトトギス

花期は9月頃です。

地面に這いつくばるように葉が伸び、黄色い花が咲きます。

「ホトトギス」という名は、花や葉にある斑点が鳥のホトトギスに似ていることから付けられたそうです。

「チャボ」もニワトリのチャボのように小型で寸詰まりの姿になぞらえて付けられたそうです。

ホトトギス

余談ですが、私の生まれ育った白浜町には「チャボ公園」があります。
昔は「チャボの森」と言われていました。

アケボノソウ

リンドウ科センブリ属。

花期は9月~10月。

花冠の斑点を夜明けの星に見立てたことに由来します。

ツリガネニンジン

日本全国に分布しています。

花が釣鐘に似ていて、根が朝鮮人参に似ていることから名づけられました。

山の山菜で「トトキ」と言われ、和え物、炒め物、天ぷら、煮びたし、菜飯などに利用されます。

また、根は薬用に用いられ、健胃、痰きり、鎮咳に効果がると言われています。

マツカゼソウ

花期は8月~10月。

ミカン科で唯一の草です。

これ、毒持ちです。

キイジョウロウホトトギス

紀伊半島南部の固有種です。

花期は8月~10月で、古くから観賞用として用いられています。

「ジョウロウ」は「上臈(じょうろう)」で貴婦人を表します。

「キイ」は紀伊で、紀伊半島のジョウロウホトトギスという意味で、この種は絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。

かつては崖などに多く自生していたそうですが、乱獲によって数が激減してしまいました。

すさみ町佐本では、キイジョウロウホトトギスを栽培して種の維持に努めています。
キイジョウロウホトトギス見頃 和歌山県すさみ町

熊野古道では、伏拝王子の石垣や、青岸渡寺横の大雲取越入口の石垣などで見ることができます。

・・・写真は撮っても花は取らないでくださいね。

アサマリンドウ

熊野古道で秋によく見る代表的な花。

秋に咲く花は少ないため、結構目立ちます。

この種は三重県の朝熊山(あさまやま)で初めて発見されたことから名付けられました。

花期は9月~11月で、発心門王子~本宮大社の間と、小雲取越、大日越などでよく見かけます。

ナンバンギセル

寄生植物で、ススキなどのイネ科の植物に寄生します。

寄生された植物は枯死することがあります。

ママコナ

花期は7月~9月。

若い種子が米粒に似ているからとか、花びらの下の部分が米粒に似ていることなどから名づけられたようです。

半寄生で自生もできるという、なかなか器用なヤツです。

以上、熊野古道で見られる秋の花でした。

お客様からの質問5選

ガイド中によく受ける質問5つを選んでみました。
目に入るもの、宗教的なこと、あなたのこと、熊野古道のことなど、お客様の質問は多岐に渡ります。
もし受けた時のご参考にされてください。

1.しめ縄の意味は?

海外のお客様の特徴として、目に入ったものを聞いてくる傾向があります。
その代表格の一つがしめ縄。
鳥居に張られていたり、ご神木に巻かれていたりしますよね。
それを見て「あれは何?」という質問が飛んできます。

「俗界と神域を分けるものです」

まずこう答えるかと思います。

しかし、簡単に引き下がる相手ではない場合があります。

「なぜ藁なのか?ぶら下がっている紙の意味は?」

と聞かれたらどう答えますか?

外国の方、特に欧米系の方は2週間程度かけて日本中を旅してまわることが多いです。

「今までのガイドに聞いてきたけど、初めてその意味が分かった」と言ってくれた方がいました。

その意味とは?

昔、人々はお金に代わりにお米を神社に供えていました。
お米から取れた藁は、その感謝の気持ちと、来年の豊作を祈念して供えられていました。
それが、時代が下って「神聖なもの」となり、結界を意味するようになりました。

しめ縄は雲を表します。

雷の形をした神は、まさに雷を表します。
一説によると、雷が落ちた土地というのは、作物がよく育つと言われています。

また、スカートの形をした藁は雨。

すべて稲作に関係のあるもので構成されています。

私の経験上、ここまで説明すると納得してくれます。
「しめ縄が雲で、雷が落ちた土地云々・・・」というのは、宮沢賢治の説です。

もちろん諸説あると思いますので「これが正しい」とは言いません。
しかし、重要なのはいかに自分が腹に落ちる説明であるかということです。

2.お地蔵さんによだれかけがあるのはなぜ?

これも諸説あることは先にお伝えしておきます。

私が聞いた話の中で、一番腹に落ちたものは、こういう内容です。

地蔵はあの世にある6つの世界を自由に行き来できる仏様と言われています。

昔、赤ちゃんを亡くしたお母さんが、「もし、私の赤ちゃんが間違って下の世界にいたならば、上の世界に引き上げてやってください。私の赤ちゃんがつけていたよだれかけがあります。これに赤ちゃんの匂いがついていますので、これを使って探してください」という願いから、お地蔵さんにつけ始めた・・・

あの世の6つの世界とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人道、天道のことを指しますが、説明では私はそこまでは言いません。
これをいちいち説明していると、長くなりすぎるからです。

「よだれかけはなぜ赤いのか?」という質問もよく受けます。

なぜでしょうかね?

ご自身で調べてみてください(笑)

3.神社とお寺の違いは?

ガイドを始めて間もないころ、お客様と本宮大社を訪れた時に、境内に椅子がたくさん並べられていました。

その時は何も質問がなかったのですが、帰りのバスで「あのお寺にあった椅子は何のためだったの?」と聞かれ「は?お寺??今日はお寺には行ってないぞ?」と思ってしまい、時間もたっていたために何のことを言っているのか分かりませんでした。

「椅子がたくさん並べれていたじゃないか」と言われて思い出すことがきましたが、日本人が陥りがちな盲点だと思いました。

「外国人には神社とお寺の区別がつかない」

自分は神社だと思い込んでいるので、お寺という言葉にピンとこなかった。

今は対応できますが、最初は戸惑った記憶があります。

神社とお寺の違いですが、見分けやすいものをまずは1つだけ言うようにしています。

それは「千木(ちぎ)」です。

神社の屋根に乗っかっているあの「✕」です。

「あれがあると神社だ」と言っています。

もちろんどの世界にも「例外」はありますので、千木がない神社もあります。
特に拝殿にはありません。

また、伊勢のように「✕」ではなく「V」になっているものもありますが、これはこれで話のネタになります。

伊勢の神宮 唯一神明造

もともと、この千木は屋根を補強する役割を持っていました。

よーくみると、「V」の下の部分が屋根の縁を貫通しているのが見えます。

この「V」が、時代がくだって神社を象徴する意味の「置き千木=『✕』」に変わっていったものです。

神社とお寺の違いについては、「鳥居があるかないか」というのもありますが、神仏習合の熊野では、鳥居がありさらに「神門」いわゆるお寺でいうところの「山門」がありますので、外国人には区別が難しいです。

以前は山門と鳥居の違いについても説明をしていましたが、上記の理由でやめました。

4.何年ガイドをしてるの?

いわゆるアイスブレイクです。

正直に答えるのもアリですが、私はずっと経歴を「詐称」して「3年くらいです」とか言っていました。

・・・多分、お客様にはバレていると思いますが。

ただ、昔聞いた話では、「経験者と新人とどちらがいいか?」というアンケートをお客様に取ったところ、「新人がいい」と答えたお客様が半数あったそうです。

なので、特に詐称をする必要はないと思います。

ちなみに、和歌山地域通訳案内士会では、新人さんでもある一定のスキルを持ってもらってからデビューしていますので、新人さんでも高いスキルを持ち合わせていますよ。

5.熊野古道歩きで一番いいシーズンは?

春と秋、3、4、5、10、11月です。

ただ、秋は気候はいいですが日暮れが早いので、ロングコースを歩く時には注意が必要です。

また、10月は台風の影響を受ける時があります。

個人的には、すでに暑いですが5月が気候的にも、日照時間の点でもいいと思っています。

お客様からの質問すべてに答えられることが理想ですが、最初からなかなかそうはいかないかもしれません。

その場合はそのままにせずに自分なりに調べたり、仲間に聞いたりして自分の納得のいく答えを探してください。

それを積み重ねることで自分の知識量が積みあがっていきます。
スキルアップは現場が一番手っ取り早いです。

お客様の質問は「生の声」です。
この生の声に揉まれることによって、一番実践的な知識が身につきます。

上記に挙げたものはほんの一例です。
日本についてなど、マクロなことを聞かれる場合もあります。

例えば、「日本の車はなぜ右側通行なのか?」とか「日本人はなぜ靴を脱いで家に入るのか?」など、日本人では当たり前過ぎてまったく気にもかけていなかったことについて聞かれることもあります。

中には「(日本に来て分かったが)日本人はみんな優しいのに、なぜ戦争ではあんなに残忍だったのか?」と聞かれたこともありました。

これは同じ日本人でも歴史認識の違いによって大きく意見の分かれるところだと思います。

教育って本当に大切ですよ。

お客様に聞かれて「そういえばそうやなぁ」と改めて気づかされることもあります。
日本の内側にいる人間と外側にいる人との視点の違いを発見することも、ガイドの面白さの一つです。

他の質問集については、こちらもご参照ください。
お客様からの質問「あなたについて」
お客様からの質問「熊野の気候について」

熊野の生き物 雨の日編

今回のトピックは結構特殊です(笑)

普段はあまり見ないけれど、雨が降るとよくあらわれるヤツらがいます。

今回はその生き物たちをご紹介いたします。

サワガニ

日本の代表的な淡水ガニです。
キレイな水のある場所に生息していますので、コイツがいる谷の水はキレイだという証拠にもなります。

地域によって個体差があり、中には紫がかったものもありますが、熊野では普通にオレンジ色をしています。

オスは基本的に右のハサミの方が大きいですが、中には左の方が大きいものもあります。

普段は夜行性なのであまり見かけることはありませんが、雨の日になると、川から離れた森でも見ることができます。

雨の日や雨上がりには古道によく現れるので、海外のお客様は非常に珍しがります。
非常におとなしい(?)ので、捕まえてもあまり挟まれたりはしません。

食性は雑食で何でも食べます。

唐揚げや佃煮にして食べることができます。

一度、ガイドの帰りに10数匹を捕まえて(世界遺産エリア外ですよ、念のため)、家に持ち帰り素揚げにして食べましたが、なかなか美味しかったです。

ただ、母は「うーん・・・」といってあまり箸が進まなかったですが(笑)

アカハライモリ

繁殖期以外は水辺の近くや森の中に住んでいるのですが、特に雨になると、どこからともなく現れます。

サワガニと同様、コイツも水のきれいなところに住んでいます。

特筆すべき(?)は、再生能力があるということです。

エサは昆虫類や他の両生類の卵や幼生です。

冬は落ち葉の下や石の下で越冬します。

イモリの黒焼きは「惚れ薬」としても有名だったとか。
そういえば、「惚れ薬」とは言っていませんでしたが、「千と千尋の神隠し」でも登場していましたね。

渓流釣りに行くと、コイツがうじゃうじゃいます。
たまにエサのミミズに食らいついてくることがあります。

シーボルトミミズ

私の足と比べてください。

閲覧注意(笑)

私の生まれ故郷の白浜では「カプラタ」、本宮では「カンタロウミミズ」と呼んでいます。

春と秋の雨の日に、特に小雲取越でよく見ます。

色ツヤ、大きさ、すべて規格外です(笑)
大きいものでは50センチくらいになります。

冬になると集団で越冬するようです。

「蓼食う虫も好き好き」

コイツはイノシシとウナギの大好物です。

ウナギ釣りの時にこれを付けるとよく釣れるのだとか。

やったことはないですが(笑)

以上、雨の日に現れる生き物でした。

・・・あとはヤマビルですね。

ヤマビルに関する記事はこちら。
ヤマビル??
ヤマビル来襲

熊野古道の神社⑧

すみません、以下の神社、すべて写真が見当たりません。
見つけ次第アップします。

浜王子(王子神社)

創建年代は定かではありませんが、記録による初見は1473年の「九十九王子記」です。
定家が熊野に参詣した際にこの王子があったのかどうかは分かりません。

ご祭神は、神武天皇の兄神・稲飯命(いないのみこと)と三毛入野命(みけいりののみこと)です。

神武東征の折、熊野の暴風雨に遭い、この二柱の神が海に身を投げて嵐を鎮めたという話から、このお社の祭神になられたそうです。

1879年に阿須賀神社に合祀されましたが、1926年に復祀されています。

かつてはこのお社の境内地もかなり広かったらしいですが、1946年の南海地震の後、住宅建設の必要に迫られ、住宅地に変わってしまったとのことです。

金光稲荷神社

高野坂の途中にあるお社。

ここは三輪崎の鬼門(北東)にあたるため、ここにお稲荷さんを勧請してきたそうです。
鬼門除けに稲荷神社が建てられることがあるので、おそらくそういう意味があったのではないでしょうか。

三輪崎は古座、太地と並んで紀南の代表的な捕鯨の地でした。

漁師町なので、各家庭には神棚を設ける空間があったのですが、核家族化や西洋建築の普及によって、神棚をお祀りする場所がなくなったため、以前は結構ここに神棚を持ってきていた住民がいたようです。

境内には刃刺(はざし)が祀ったと言われる祠があります。
その祠の裏には、鯨が尾びれを海面から突き出している絵が彫られていると聞いたことがあるのですが、今は摩耗が激しくて確認できません。

刃刺と古式捕鯨についてはこちら
捕鯨について①
捕鯨について②

浜の宮王子

現在は王子跡で社はありませんが、境内には熊野山三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)があります。

このお社と補陀洛山寺が隣接しているので、神仏習合を見ることができる珍しい場所です(那智大社と青岸渡寺もそうですが)

那智参詣曼荼羅にも描かれていますが、当時は鳥居のすぐ前が浜で、そこから補陀落渡海が行われていました。

今回は、神社のご紹介なので割愛します。
補陀落渡海についてはこちら
補陀落渡海(瀬川さんのお話まとめ)

ご祭神は夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神。

この主祭神三柱の座像は、国の重要文化財に指定されています。
像は輿に乗ったカヤ製の座像で、この社殿の裏にある倉庫に保管されていると聞いたことがありますが、そのお姿を見た人は、私の知っている人の中にはいません。

本殿向かって右には、丹敷戸畔(にしきとべ)を祀る祠があります。

あまり記録がないので詳細は不明ですが、神武東征の折、ここで神武天皇の軍勢と戦った一族とされています。

丹敷とは水銀、戸畔とは女酋長のことを表す言葉だそうです。

かつて熊野は地下資源が豊富で、つい昭和の時代まで、この近辺にも銅山がありました。

一説によると、かつての上皇・法皇が熊野に足しげく通ったのも、この地下資源の利権を得るためではなかったのではないか?とも言われています。

市野々王子

祭神は天照大神、(あめの)(おし)()(みみの)(みこと)()(がや)草葺不合(ふきあえずの)(みこと)(かな)山彦(やまひこの)(みこと)

元は100mほど離れた場所、「お杉社」にありましたが、江戸時代に現在の地に移されました。お杉社には、天照大神が降臨したとされる(よう)(ど)(いし)があります。

ここはかつて、熊野詣の最後の起点として栄えたところです。大門坂にある多富気王子は歴史的に浅いですが、この市野々王子は歴史が古く熊野御幸の時代にも登場しています。

市野々地区の住民は那智山の氏子にあたり、ヤタガラスの子孫とされています。

那智の扇祭り(火祭)は、元々この地区の氏子が担っていました。現在は人数不足のために那智勝浦全体で担っているそうです。

この地の住民は巡礼者をもてなしたり、市を開いたりしており、また宿場としても栄えました。

神社横手には米を一時的に収める郷倉(ごうくら)があります。普段は屋根がなく米を保存する時にだけ垂木(たるき)を渡し上から葉を被せて屋根にしたとのことです。

以上、今回は熊野古道中辺路沿いにある神社についてご紹介させていただきました。

機会を見て、紀伊路や大辺路の神社についてもご紹介できればと思っています。

熊野古道の神社⑦

阿須賀神社

創建は皇紀238年と伝わります。

皇紀とは、神武天皇が即位されてから数えるもので、今年(2024年)が皇紀2684年です。

ということは、このお社は2446年前の創建ということになりますので、熊野三山のそれよりも古いということになります(本宮で約2050年、速玉で約1900年、那智で約1700年)

弥生時代の土器が境内以外からも出土したことから、そのころから大きな集落があり、建物はなかったにしろ、この場所に宗教的な祭祀場所があったと考えられています。

古来は白木で、朱塗りになったのは1952年(昭和27年)、米軍の空襲により焼失して以後のことです。

・・・民間人を大量に殺傷した無差別爆撃の被害は、ここ新宮市にもあります。

話せば長くなりますのでまたの機会に。

中右記(1109年)には「参阿須賀王子奉幣」との記述があり、九十九王子の一つとしての扱いを受けていました。

藤原定家の日記には記載がなく、単に「明け方、新宮の宿所を出発し、また那智への道を進んだ(中略)山や海の眺めは、趣があった。この道中にもまた王子が数多く鎮座している」としか書かれていません。

懸け仏とご祭神

懸け仏とは、現在でいう絵馬のようなもので、願いを込めて神社に奉納していました。
高原熊野神社ではご神体になっています。

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で境内の大木が倒木した際、その地下から懸仏200体以上が良好な保存状態で発掘されています。

その半数が本地仏の大威徳明王(勝利の仏)だが、そのほとんどが元寇(文永の役・弘安の役)の時に作られたものとされ、戦勝祈願で納められたものではないかと言われています。

阿須賀神社が火事で焼失した際に、傷んでしまった懸仏を埋納したのではないかと言われています。

このような数・保存状態で発掘された例は日本に3例しかないそうです。

私的な意見ですが、1281年に亀山上皇が熊野に来られた年がちょうど弘安の役と重なるため、おそらく伊勢にお参りされた後に熊野にも来られたのではないかと思っています。

なぜ、ここにそれほどまでの信仰があったのか?

おそらく、こちらの神様に由来するものと思われます。

ご祭神はコトサカオ様(事解男命)
熊野は神仏習合(神仏混淆とも)なので、熊野の神様は神様と仏様の名前をお持ちです。

その仏様のお名前が「大威徳明王(だいいとくみょうおう)」

この大威徳明王様は水牛に乗り、6つの顔、手6本、足6本の恐ろしい形相をした戦いの神様(仏様)とされています。

なので、多くの方々が必勝祈願で来られたのでしょう。

水牛に乗っているということにも意味があり、陸はこの世、水中はあの世を表しあの世とこの世を行き来する特殊な力を備えています。

こちらのご神体は、社殿の後ろにある山・蓬莱山です。
ご神体なので禁足地ですが、西宮司さんが子供の頃は、よくこの山に入って遊んだということを聞いたことがあります(もう時効だからバラしてもいいですよね?笑)

神奈備の定義

神奈備(かんなび)という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

神奈備とは、神道では神の依り代とされる場所などを指す言葉です。

阿須賀神社のご神体・蓬莱山は、その神奈備の定義に当てはまるそうです。

神奈備の定義とは、

①そんなに高い山ではなく、ちょうどお椀を伏せたような形をしたもの
②山深いところにあるものではなく、人里に近いところ、または人里の中にあるところ

蓬莱山を遠くから見てもらったら一目でそれが分かります。
神倉神社からも見えますので、登った際には探してみてください。

蓬莱山とは、チャイナ古来から伝わる東方絶海にある3つの山の1つで、そこには不死の薬を持った仙人が住むとされています。
その3つの山とは、蓬莱、方丈瀛州 (えいしゅう) とされています。

非常に珍しい立地条件

なぜ、この地なのか?

それは、色んな条件が重なっているからと宮司さんからお聞きしたことがあります。

1つ目は、この辺りは昔は水葬の場所だったらしく、ここから約80m下流の宮井戸遺跡がちょうどあの世の入口とされていたそうです。

なので、生と死の交わる場所であり、陰と陽の交わる場所。

2つ目は、この裏を流れる熊野川の水にも陰と陽があり、川の飲用可能な水は陰、禊をする海水は陽とされていること。

3つ目は、その陰と陽が交わる場所に神奈備があること。

このような条件がそろっていることは、非常に珍しいのではないかというのが学者の見解なのだそうです。

神社は、適当なところに建っているものではなく、きちんとそこに建つ意味があり、簡単に移転するものではないとも聞いたことがあります。

まさに、この阿須賀神社は、きちんとした意味がありますよね。

「なぜ、ここなのか?」そういったことを考えながらお参りするのも面白いかもしれません。

熊野古道の神社⑥

発心門王子

五体王子の一つです。
田辺市には、滝尻王子とこの発心門王子の2社があります。

発心門王子の「発心」とは、「仏門に帰依する」「仏門への道を決心する」という意味であり「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」の四門、すなわち、仏教における教理である四門のうちのひとつ。

当時は、ここが本宮大社への聖域の入り口とされていたことから、いよいよここからは新たに気を引き締めるという意味が込められていたと思われます。

1907年には近くの三里神社に合祀されてしまいますが、その後復祀されています。
現在の建物は1990年に「古道ピア」というイベントの開催に合わせて再建されたものです。

藤原定家は、この発心門王子裏手の南無房に泊まっており、その様子が「熊野御幸記」に記されています。

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(現代語訳)

午の時ほどに、発心門に到着した。
尼の南無房の家に宿泊した。
この宿は普通の所である。
その尼は京都からやって来ていた。
私はこの尼に逢って挨拶をし、来ていた袙(あこめ)を与えた。

ここまでの道中、私は常に筆や硯を携帯していなかった。また考えるところがあって、まだ何もしていない。他の人々は、たいてい王子ごとに名前を書き付けていた。この発心門の門柱に、初めて一首を書きつけた。門の南東の角柱である。静かなところである。

■慧日光前懺罪根 大悲道上発心門 南山月下結縁力 西刹雲中吊旅魂

(仏の大いなる知恵の前に、自らの罪業を覚え、改心することだ。衆生を救う誓いを立てられた仏のいらっしゃる、熊野本宮への途上に、発心門がある。熊野の月のもとで、仏と結んだ縁の力によって、往生できよう。はるか西方浄土にかかる雲を見て、旅にある私の心を慰める)

■入りがたき 御法の門は けふすぎぬ 今より むつの道にかえすな

(なかなか入ることのできない仏道の門に、今日この発心門を通って入ることができた。これからは私を六道に輪廻させないようにして欲しい)

この発心門王子の前で、特に信心を発した。
紅葉が風に舞い落ちている。
社殿の上には四、五尺ほど、木が隙間なく茂り、多くは紅葉している。

社殿の背後に、この尼南無房の堂がある。この堂の内側に、また一首書き付けた。

後で聞いたところでは、この尼は制止して、堂に何も書かせないという。それを知らずに書いてしまった。

夕方、また水垢離をし終えて、王子の御前に出て、参拝の所作を終えた。
月が山から出てくる頃合いであった。

今日通った道は、山深く樹木が多かった。
苺苔があって、それが木の枝に懸かっている様子は、藤の枝のようであった。
遠くから見ると、本当に春の柳に似ていた。

*****************

翌日は「まだ暗いうちに」発心門を出発しています。

2首目の歌は、現在境内の石碑に刻まれています。

・・・おそらく、当時日記に書かれていた字体をコピーしたものなんでしょうね。

覚えてなければ読めません(笑)

熊野古道の神社⑤

湯川王子

「湯川」という地名は古くから見られ、定家が後鳥羽上皇に随行した際にはすでにありました。
定家は近露を出発したあと、この湯川で宿泊をしています。
また、1210年には修明門院が参詣した際には「湯川王子」という名が見られることから、この王子は少なくとも800年前には存在していたことは確かなようです。

熊野古道中辺路沿いで社殿がある王子社は非常に少ないことが特徴ですが、この湯川王子は健在です。
この王子もやはり、1909年に近野神社に合祀されていますが、1983年に地元出身の方々の寄付によって再建されました。

ただ、車ではアクセスが難しい場所にありますので、車で訪れることは難しいでしょう。
行けなくはないですが、どう頑張っても少しは歩かないといけません。

ケヤキ

神社合祀前の時代には、境内にケヤキの巨木があったそうです。
このケヤキの内部が腐ったからという理由で伐採をしたところ、200匹のムササビや数百のフクロウやミミズクが飛び出したと言われています。
その切り株の広さは畳8畳分あったと言われています。

祭り

今も続いているのかは分かりませんが、2020年11月23日にここを歩いた時には、ちょうどその時が湯川王子の祭りの日でした。
普通、神社の祭りの神事は神主さんが執り行いますが、ここでは田辺市のお寺からお坊さんを呼んでいました。
湯川出身の方々も一緒に来られていました。

社殿横にお坊さんがいます

湯川氏と湯川集落

現在は「道湯川(どうゆかわ)」という呼称になっていますが、本来は「湯川」という集落でした。

本宮にも湯川という地名があり、これと分けるために「道」をつけたのだそうです。
地元の方々をこれを嫌ったという話を聞いたことがあります。
私の出身は白浜ですが、仮に同じ地名が他にあり、私たちが住んでいる白浜を「これからは『道白浜』と呼ぶ」と言われれば、やはりいい気はしません。
「なんでうちが名前を変えなければいけないのか?あっちの方が上ということか?」となると思います。

湯川一族は、甲斐武田の流れをくむとされ、彼らが熊野に落ちてきてこの地名である湯川を名乗ったとされています。
彼らは武士であったため、古道沿いの山賊を取り締まっていました。
その成果が認められて日高の領地を授かります。

湯川一族の出世頭、湯川直春は、秀吉の紀州攻めの際には上富田の山本氏とともに徹底抗戦をし、秀吉軍を手こずらせます。

業を煮やした秀吉は、湯川・山本氏に和議を申し入れ、二人は大和郡山城に向かいますが、そこで湯川直春は毒殺され、身の危険を感じて城を脱出した山本氏は、仲間だと思っていた藤堂高虎に殺害されてしまいました。

この事件以来、両氏の勢力は急激に衰えてしまったとのことです。

今はすでにここには誰もいませんが、1902年~1945年までは義務教育免除地でした。

詳しい話は、ガイドと一緒に歩きながらにしましょう(笑)

ガイドのご用命はこちらから。
一般社団法人 和歌山地域通訳案内士会

熊野古道の神社④

近野神社

1906年に神社合祀が始まり、ここ熊野では1907年から1909年にかけて合祀の嵐が吹き荒れました。
終息は1920年であり、この間、和歌山県と三重県では顕著に神社合祀が行われ、5819社あった神社は1908年末には1922社にまで激減しました。

取り壊された神社がある中、この神社は逆に近野地域にある神社や王子、あるいはすでに無くなって「社なし」となった王子も含めてここに合祀されています。

合祀された王子は、大坂本王子、近露王子、継桜王子、比曽原王子、中川王子、小広王子、岩上王子、湯川王子の8社(継桜王子は復祀)

合祀された神社は春日神社、丹生神社、八幡神社、稲荷神社、下永井八幡神社、大畑八幡神社、湯川の王子神社、地主神社など8社で、計16社が合祀されていました。

1907年には宮ノ上にある金刀比羅神社に合祀されていましたが、手狭になったために1908年に現在地に遷座されました。

今「近露王子公園」となっている場所にはかつて春日神社があり、かなり大きな規模の神社だったと聞いたことがあります。
その春日神社も近野神社に合祀され、「目通り1丈8尺(約3.3m)以上ある古老杉三本」も伐採されました。

継桜王子

2020年の社殿(2017年に塗り替えが施されています)

ヒノキから桜の花が咲いていたという故事から名づけられた王子。
普通、王子の名前は地名に由来することが多いですが、この王子は故事にちなんだ名前が付けられている珍しい王子です。

境内には9本(実際に数える8本しかないと思うのですが)の「野中の一方杉」があります。
枝のすべてが南を向いていることからこの名前が付けられています。
一説には「枝が那智大社の方を向いている」とありますが、単に太陽が当たる方に向いているだけです(笑)

よく「〇〇の一本松」のように「野中の一本杉」と勘違いされる方がいますが、「一本」ではなく「一方」です。

これらの杉は、先出の神社合祀の際に切り倒されずに生き残った木です。

かつてはこういった巨木は40本ほど(31本とも)あったそうですが、神社合祀の際に切り倒されたそうです。

南方熊楠の神社合祀反対運動なければ、これら現存する9本も見ることが出来なかったでしょうね。

神社合祀のあと、1950年に復祀されています。
地元の人々にとっては、心の拠り所だったのでしょう。
ご神体はなくなっても(近野神社に移っても)、いつでも再びお迎えできるように社殿は残していたそうです。

11月3日の14時頃からは「野中の獅子舞」が奉納されます。
薄暗くなった境内に差し込む太陽と相まって、幻想的な舞を見ることができます。

動画はこちら

花懸かり①
花懸かり②

2017年に社殿が塗り替えられ、以前に描かれていた絵も復活しています。
・・・最近は結構色あせていますが。

塗り替えだけではなく、基礎の石を整備したり、腐食した木材は新材に替えられています。

総事業費は約1750万円(!)

背面

神社合祀に関する意見

南方熊楠による、近野近辺の神社合祀の当時の様子を神社合祀に関する意見より引用します。

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合祀濫用のもっともはなはだしき一例は紀州西牟婁郡近野村で、この村には史書に明記せる古帝皇奉幣の古社六つあり(近露王子、野中王子、比曽原王子、中川王子、湯川王子、小広王子)。

一村に至尊、ことにわが朝の英主と聞こえたる後鳥羽院の御史蹟六つまで存するは、恐悦に堪えざるべきはずなるに、二、三の村民、村吏ら、神林を伐りて営利せんがため、不都合にも平田内相すでに地方官を戒飭かいちょくし、五千円を積まずとも維持確実ならば合祀に及ばずと令したるはるか後に、いずれも維持困難なりといつわり、樹木も地価も皆無なる禿山頂へ、その地に何の由緒なき無格社金毘羅社というを突然造立し、村中の神社大小十二ことごとくこれに合祀し、合祀の日、神職、衆人と神体を玩弄してその評価をなすこと古道具に異ならず。この神職はもと負荷人足にもちにんそくの成上りで、一昨冬妻と口論し、妻首くくり死せる者なり。かくて神林伐採の許可を得たるが、その春日社趾には目通り一丈八尺以上の周囲ある古老杉三本あり。

 また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。そのうち両社共に周囲二丈五尺の杉各一本は、白井博士の説に、実に本邦無類の巨樹とのことなり。またこれら大木の周囲にはコバンモチというこの国希有の珍木の大樹あり。托生蘭たくせいらん石松類なんかくらんるい等に奇物多し。年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下をよぎりて神徳を老樹の高きによそえ仰がれたるなり。すべてかかる老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要することなれば、いかにもして同林の保存を計らんと、熊楠ら必死になりて抗議し、史蹟保存会の白井、戸川〔(残花)〕二氏また、再度まで県知事に告げ訴うるところあり。知事はその意を諒とし、同林伐採を止めんとせしも、属僚輩かくては県庁の威厳を損ずべしとて、その一部分ことに一方杉に近き樹林を伐らしめたり。過ちを改めざるを過ちと言うとあるに、入らぬところに意地を立て、熊楠はともあれ他の諸碩学の学問上の希望を容れられざりしは遺憾なり。かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ。
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熊楠は「牟婁新報」「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」「東京朝日新聞」にも神社合祀反対の投稿をし、さらに東京帝国大学で植物学の権威である松村任三(じんぞう)に対しても長文の手紙を寄せ、当時の内閣法制局参事官でもあり、民俗学者の第一人でもある柳田國男が「南方二書」として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けました。

それでも飽き足らず(?)1910年8月、夏期教育講習が田辺中学校であり、それに出席していた神社合祀を進める県の田村某氏に直訴しようと会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、標本を入れている信玄袋を投げ込んだところこれが「家宅侵入罪」となり、18日間監獄に入れられました。

熊楠の残した功績は非常に大きいですね。

引用元:
和歌山県神社庁
南方熊楠記念館
産経新聞
青空文庫

熊野古道の神社③

高原熊野神社

創建は1403年、本宮から勧請されたと伝わり、熊野古道中辺路では最も古い神社とされています。

このお社は王子には含まれておらず、地元の氏神さんとして存在してます。

祭神はスサノオノミコト、速玉さん、アマテラス様。

・・・本宮から勧請されて来たのに、イザナミさんがいません。

これは憶測ですが、本宮の主祭神がイザナミさんからスサノオさんに変わってから勧請されたのかもしれません。

ここにも、神仏習合が現れています。

ご神体は、熊野ならでは?の懸け仏(十一面観音)です。

十一面観音であれば、本宮ではアマテラスさんと同一とされています。
ということは、こちらの主祭神はアマテラスさんなのかどうか?私には分かりません。

社殿は春日造りの桧皮葺で、桧皮は約30年に1回葺き替えられています。

この葺き替えには相当な金額がかかります。
桧皮葺に最適な樹齢100年以上のヒノキが入手困難であることと、桧皮葺職人の技術的な面からなのだそうです。

1938年 30万円
1968年 200万円
1998年 2000万円
2016年 1400万円

クスノキ

樹齢の話

境内には、樹齢800年~1000年と言われるクスノキが3本あります。

なぜ、切ってもいない木の樹齢が分かるのか?
不思議ではありませんか?

1950年のジェーン台風がこの地方を襲った際に、このクスノキの近くにあった杉の巨木が倒れたそうです。
その倒れた杉の年輪を数えたところ、800年を超えているということが分かったそうです。
そこから、このクスノキの樹齢を推定したとのことです。

境内社務所の裏手にあるクスノキが一番大きいです。

このうちのどのクスノキのものかは分かりませんが、ここよりずっと下にある石船川の護岸工事をしている際に、クスノキの根っこが出てきたという話があります。

神社から川まではクスノキがありませんので、このクスノキの根っこだということになったようです。

信じるか信じないかは、お任せします。

クスノキの用途と意味

クスノキと言えば樟脳で有名ですね。
あと、海外の方ならタイガーバームの原料と言えば分かってくれます。

クスノキは、よく神社に植えられています。
お寺にはイチョウ。
聞いた話では、海南の藤白神社や田辺市の蟻通神社のクスノキは、神社が火事に見舞われた時に白い水?を出して延焼を防いだという話が残っているそうです。
イチョウにも似たような話があります。
昔は防火の意味で植えられたのかもしれません。

あとは、神聖な木、または縁起のいい木という意味合いもあるようです。
現在では「サカキ」といえば、あのサカキですが、昔は杉、松、クスノキ、ツバキなどもそういわれていたようです。

これらはすべて常緑樹です。
常緑樹は葉が全部落ちることはありませんので「永遠」を意味するというところから植えられたという話もあるようです。

サカキの語源は「栄木」「境木」のようです。
俗世間と神域を分ける境目の木、その神社が栄えるという意味合いもあったようです。

熊野古道のクスノキ

中辺路沿いには、クスノキが自然に生えているのが珍しいです。
神社の境内でも珍しいです。
そういう理由からかは分かりませんが、「熊野古道にはクスノキがない」と言っている人があいます。
しかし、それは中辺路の話であって、これが大辺路では様相は一変します。
いたるところにクスノキが自然に生えています。

私はよく「熊野古道は中辺路だけではない。熊野古道の他のルートのことも知って初めて『熊野古道のガイド』と言える」と会員には言っています。

井の中の蛙にならないように、物事を俯瞰する習慣をつけていただきたいものです。

南方熊楠とクスノキ

よく「南方熊楠が神社合祀反対運動でこのクスノキを守った」という解釈をする人がいますが、ちょっと違います。

この鎮守の森を守ったのは、当時の高原村の村長・宮本わぞう(漢字が分かりません)さんです。

当時の高原村の集落は95軒(現在は42軒)
その村人たちは、村民の憩いの場がなくなる、鎮守の森がなくなるということを懸念し、行政に陳情した結果、ある条件を元に許可を得ます。

その条件とは、基本金5000円を拠出することと、神社に宮司を置くこと。

この5000円、今の金額に換算すると約1億にもなるそうです。

宮本氏は、県の官吏が来た際には、栗栖川や田辺の新地の料理屋に連れて行き、「待ってくれ」と言って何度も先延ばしにしていました。

そこへ、南方熊楠の神社合祀反対運動の波が押し寄せ、この件はうやむやになったというのがこの話の真相のようです。

なので、熊楠は間接的にこの森を救ったと言えることができると思います。


熊野古道の神社②

滝尻王子

現在の正式な名称は「滝尻王子宮十郷神社」です。

創建は定かではありませんが、奈良時代の末頃とも言われています。
少なくとも藤原宗忠が記した「中右記(1109年)」には記載がありますので、その頃にはすでに王子として存在したいたようです。

中右記には「初めて御山の内に入る」とも書かれ、ここからが熊野の神域の入口とされていました。

現在の名前は、1908年から1909年にかけてこの地域で起こった神社合祀によって、滝尻周辺の神社がここに集められてきたことにちなんだものです。

「十郷」とは栗栖川の厳島神社・杵荒神社・石船の八柱神社・小皆の竃神社・水上の岩戸別神社・内井川の若宮神社・熊野川の若宮神社・真砂の八幡神社2社・北郡の日吉神社・西谷の大山祇神社を指します。

かつての参詣者たちは、滝尻王子に入る際には目の前を流れる石田川(いわたがわ。現・富田川)と石船川(いしぶりがわ)で禊をしてから入ったそうです。

石田川は観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる水、石船川は薬師如来の瑠璃光浄土からながれてくる水とされていたようですが、石田川は薬師如来、石船川が千手観音、あるいはその逆・・・というようにこの解釈は分かれています。

地元の語り部さんからは、
「石船川を擁す分領山には平安時代から千手観音が祀られている。
石田川の少し上流域には「釜ん滝」というところがあり、遠い昔には釜ん滝という場所には薬師如来が祀られていることから、石船川には千手観音、石田川には薬師如来が宿ると考えている」
とお聞きしました。

祭神と五体王子

滝尻王子は、五体王子の一つとして数えられ、最も格式の高い王子社として数えられています。

五体王子とは、熊野の御子神5柱すべての神が祀られている王子のことです。

五体王子はこの他に海南市の藤白王子、印南町の切目王子、上富田町の稲葉根王子、田辺市の発心門王子があり、全部で5つあります。

5つあるので「五大王子」と勘違いされている方もいるようですが、正式には「五体」です。

その御子神とは、アマテラスオオミカミ、アメノオシホミミノミコト、ニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトを指します。

本宮のかつての主祭神・イザナミノミコトの、いわゆる「子孫」に当たる神々なので、「御子神」という表現はちょっと違うと思いますが、一応「御子神」と言われていますので、ここではそう表現します。

ちなみに、私がガイドをする時は「decendants」を使います。

王子にはそれぞれ「金剛童子」が祀られていたそうです。
この金剛童子は熊野の神の眷属にあたる神で、参詣者の道中の安全を守る神とされていました。

滝尻王子には、平安末期に作成された金剛童子像(35.8cm)が祀られていましたが、現在は県立博物館で保存されています。
2011年の台風12号で滝尻王子が浸水し、像への被害は免れたものの、今後もその懸念があることから、移転されたとのことです。
現在はその複製が祀られています。

和歌会と歌碑

後鳥羽上皇4回目の御幸・建仁元年(1201年)には、ここで和歌会が開かれています。

和歌会ではお題が与えられ、そのお題を元に歌をつくり、披露します。

この日のお題は2つ。

河辺落葉

(山姫が美しく染め上げた秋は暮れてしまったと、いったい誰が言ったのだろうか。岩田川には、山姫の袖、すなわち川に落ちた色鮮やかな紅葉が、まだ波を越えてゆくことであるよ)

旅宿冬月

たきがはのひびきはいそぐたびのいほを いづかにすぐるふゆのゆ月かげ

(滝川の響きがせわしなく聞こえる旅の庵を、光を投げかけて、静かに通り過ぎてゆく冬の月であるよ)

定家はこのあと退出して少し眠り、12人が支える輿に乗って「山中」の小屋に泊まっています。

この「小屋」は大門王子付近であったろうと言われています。

ここで定家は「嵐が寒く、とても耐え難い」と嘆いています。

後鳥羽上皇も歌を2首詠んでいます。
そのうちの1首が境内の石碑に刻まれています。

おもいやる かものうはけのいかならむ しもさへわたる 山河の水

この時は旧暦の10月に来られているので、太陽暦にすれば11月の終わり頃にあたります。
この歌は、秋から冬にかけての熊野詣の厳しさを詠っているとか、石田川に浮かぶ鴨を見て、京都の鴨川の鴨を思い出して懐かしんでいるとかいう意味だと聞いたことがあります。

ちなみに、この歌のお題は「山河水鳥」です。

この碑に使われている石は、承久の変(乱)のあと、後鳥羽上皇が隠岐に流され、そこで余生を過ごしたその隠岐から持って来られたものです。

石碑の裏には、この碑を建立する際に寄付をした方々の名前とともに、
「平和は何よりも尊い。戦争の愚かさを体験した我ら飛行兵9名は、恒久平和の願いをこの碑に託す」と刻まれています。

「飛行兵」とは特攻兵のことです。

この碑には、後鳥羽上皇でさえ戦を起こしたけれども、戦争はいけない。これから先は誰も経験してはならないし、経験させてもいけない。という、反戦の意味が込められています。

経塚跡

平安の代には「末法思想」が世の中を席巻し、死後の世界への関心が高まり、各地に経塚が多くつくられるようになりました。
熊野も例外ではなく、特に神仏習合の色合いが強かったこともあってか、多くの経塚が残されています。

経塚とは、いわゆるタイムカプセルで、経文などを経筒という銅製の筒にいれて埋納したものです。
経文と一緒に他の貴重なものなどを納めることも多く、ここ滝尻王子の経塚からは鈴、刀、合子、鏡などが一緒に発見されています。

経塚跡はこの先の熊野古道沿いの剣ノ山、本宮の備崎、飛瀧神社入口(現在は駐車場)などでも発見されています。

かつての境内

現在はその面影はありませんが、以前(といっても昭和の時代)には社務所や宮司さんの社宅、土俵などもあったそうです。

以前は10月10日が祭りの日で(現在は11月3日)、この日に子供の相撲大会が開催されていました。

勝ち抜けば景品もあったようです。

現在(1999年以降)は、熊野古道へは社殿の裏から入るようになっていますが、実はあの道は山仕事をする人たちの杣道であり、本来は宮司さんの社宅があった裏手から、急なつづら折れの道を上ったそうです。

まさに「己が手を立てるが如し」だったそうです。

奥州の藤原秀衡が子供に恵まれなかったために熊野権現に願ったところ、見事懐妊されました。
そのお礼参りに、妻(側室とも)と共に7か月の身重で滝尻まで来られた際に、黒漆塗小太刀とミニチュア版の七堂伽藍を建立したと伝えられています。

残念ながら、その七堂伽藍は秀吉の紀州攻めの際に焼失してしまったと伝わります。
なお、黒漆塗小太刀は県立博物館に所蔵されています。

今回は他の神社もご紹介する予定でしたが、分量が少し多いので今日はこの変でご勘弁を。