
日本は「察する文化」であり、多くを話すのではなく、その言葉から推察される意味を汲み取る必要があります。
その典型例が和歌や俳句ですね。
外国人でよく、俳句を作る場面にこれまで遭遇したことがありますが(特に歌碑が立っている小雲取越)、この「背景を読む」という考えがないためか、見たまんまのことを述べたりとか、自分のその時の感情をストレートに表すことが多いです。
まあ、即興で作っているのである程度仕方のないことですけど。
私がよく視聴しているYou TubeのCGSチャンネルで、面白い例が紹介されていたのでご紹介します。
見しやそれとも分かぬ間に
雲隠れにし
夜半の月影
紫式部の有名な歌ですが、多くの解説書などには
見上げたらキレイなお月さまがあった。
という解釈がされているそうですが、本当の意味はもっと深いところにあるそうです。
和歌というのは、上の句(五・七・五)と下の句(七・七)に分かれていて、その間にあるもっとも言いたいことというのは書かず、読んだ人が上の句と下の句をヒントにそれを探るといういう「察する文化」の象徴とも言えるものです。
この「察する文化」の原点が和歌なので、和歌はあらゆる日本文化の原点だと言われているそうです。
さて、この歌、転勤を命ぜられた幼馴染の友達が、紫式部のもとに挨拶に訪ねて来た時に詠んだ歌だそうです。
挨拶に来るのに夜には来ないので、この幼馴染は日中に訪ねてきました。
「見しやそれとも分かぬ間に」は、物理的な時間と心理的な時間の両方を指しています。
つまり、昔話に花が咲いて、気づけば夜になっていたという、心理的な時間の短さを詠んでいるそうです。
そして、多くの書物やブログに「月かな」と書かれていますが、正確には「月影」であり、「影」であるから大切なのだと、小名木さんは解説しています。
月は形が変わり、やがてもとの形に戻ります。
つまり「巡るもの」であり、上の句の「めぐり逢い」にかかっていて、「早く都に戻って来てね」という紫式部の想いがこの歌に込められているのだそうです。
以前、仕事で同僚に書類の作成をお願いする時に、(書類の話をしていた流れで)作成してもらう理由を伝えたことがありました。
その同僚も理解をしてくれ「わかりました」と言ってくれたのですが、ここに当時の上司から『きちんと最後まで『こうこうこういう理由なので、◯◯の書類を作ってください』と言わなければ伝わらない」と注意をされたことがあります。
ビジネスの場では、そうしなければ解釈の行き違いが発生する可能性がありますので、はっきりと最後まで言わないといけないことは分かりますが、日常においてはそこまで言わなくても、相手の言わんとする事は分かりますよね。
例えば、毎週参加しているセミナーがあった場合、「今日は体調がすぐれないので」と電話がかかってくれば「ああ、今日は休むんだな」と「察する」ことができます。
もちろん、ここで終わる人はあまりいないと思いますので、最後まで言う人が大半だと思いますが、次の場合はどうでしょう?
「さて、ではそろそろ」
「あ、そうですか、おかまいもしませんで」
「いえいえ、ではまた」
「お気をつけて」
この中にはっきりと「帰ります」という言葉が入っていませんが、会話が成立しています。
英語では「I’ve gotta go home.」などと言いいますが、ここが日本文化と西洋文化の違いだと、私は思っています。
これは日本の文化であり、他国の人の価値観を押し付けられても、日本人は直すことはできません。
日本人が、特に幼少の頃に外国に住んでいた人は、日本で生まれ育って来た人に比べて、考え方や感性が違います。
「見た目は日本人、でも中身は外国人」という感じです。
また、そこまでは行かなくても、長年海外に住んでいた人も、日本で生まれ育った日本人に比べると、考え方や感性にズレがあります。
これは、幼少の頃にその国の言語で育ち、その国の言語で物事を考え、その国の言語で教えられてきたからであると思います。
逆に、「タタミゼ」という言葉に象徴されるように、日本に住み始めた外国人が、いわゆる「日本かぶれ」を起こすということがありますが、一過性の人を除けば、これもまさに日本語で物事を考えてきたからであると思います。
「日本に住み始めてからお前は日本人みたいになった」と言われる外国人が多いとも聞いたこともありますし、実際日本に長年住んでいる人が知り合いにいますが、日本人の感性にそっくりです。
「食べ物がその人の体を作る」とはよく聞きますが、同じように「言語が国民性を作る」と言えるのではないでしょうか?
よく二階さんが意味不明なことをいいますが、あれははっきり言って裏に意味はなく、ただの朦朧でしょう(笑)
老害は組織の発展を妨げます。
早く新陳代謝をしていただきたいところです。
