秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く④

始皇帝の人物像

さて、こうして始皇帝(政)は、秦の王となり、天下統一に向けて他の6国を滅ぼしていくわけですですが、これは何も始皇帝の時代に突如として力を発揮したというより、元々あった国力と政策を引き継いで実行したということが分かります。

13歳の王がいきなりそんなことをできるはずがありませんよね。

「秦の始皇帝」と言えば「万里の長城」を連想する方も多いと思いますが、あれも元々各国が国境を明確にするためと、軍事的防衛という意味作っていた物であり、それらを始皇帝がつなぎ合わせたり、補強をしたり、北方に造ったりしたものですので、始皇帝がすべてを造ったわけではありません。

遊牧民の定め

さて、秦は元々遊牧的な要素を多く持っていた国です。

遊牧民は牛や馬を連れて絶えず移動をします。
首長が東に行けば東に全員がついていかなければなりません。
一人だけそれに反対して西に行けば、大平原でのたれ死にです。

なので、一旦首長が選ばれると、全員絶対服従であり、遊牧民の首長というのはある意味独裁者でもあるわけです。

チンギス・ハンも同じです。
「彼についていけば飯が食える、戦争しても勝てる、戦利品の分け前もいっぱいある」というので、多くの人が集まってきました。

こういった傾向が秦には元々あり、始皇帝の代々の祖先はみな独裁者でした。
始皇帝=独裁者というイメージがあり、もちろんそうなのですが、秦は元来から独裁者が治めていた国だったのです。
独裁は何も始皇帝から始まったものではありません。

始皇帝の人物像については、「史記」に記されています。
「秦王(始皇帝)は人と為り、高い鼻、切れ長の目、鷹の胸、山犬の声、恩愛を感じる心が薄い、残忍な心あり。窮することに居れば、易く人の下に出で、志を得れば亦た人を軽蔑し食い散らかす」

いざとなれば土下座もできる、しかしおとなしいと思えばそうではなく人を食ってしまう残忍な人間である・・・と。

また「ともに久しく交際するべからず」と書いています。

歴史は勝者によって書き換えられる

ここで注意しなければならないのは、この「史記」は漢の司馬遷が編纂したという点です。
秦は始皇帝が没してからすぐに滅びます。
その後、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の争いから漢が誕生します。

漢というのは秦とは何の関係もない国です。

その上、始皇帝に滅ばされた国々の人が大勢いたわけで、少なくとも始皇帝を良しと思いっていない人が大勢いたので、実像より悪く書かれている可能性が十分にあります。

中国の食人については、「三国志」にもあるように、劉備が敵に追われ、ある老人の家に匿ってもらったところ、その老人は息子を殺してその腿の肉をごちそうし、それを知らずに劉備が食べたあと、その家を後にする時、片足のない息子が横たわっているのを見て感動したという話があります。

普通、片足のない死体を見て「ああ、この老人は我が息子を殺してまで私にごちそうをしてくれたのか!」と感動しますか?

おそらく食人が当時では普通の習慣だったことの裏付けでしょう。

始皇帝が実際に人を食べたのかどうかはわかりませんが。

話がそれましたが、こうして冷静にい見ていくと、始皇帝はたしかに粗暴な面はあったでしょが、実はそれほどでもなかったのではないか?とも思えてきます。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑤へ続きます。

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