秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑧

策士・徐福

こうして大金をせしめた徐福でしたが、徐福は何年もなかなか出港しません。
始皇帝は各地をしょっちゅう巡行しますので、徐福がまだ出港していないことを知り激怒します。
「船は行こうとしたのだが、悪い魚がいて邪魔をするので、その魚を退治するために軍隊がほしい」と要求をします。

・・・呆れますね。

この巡行の帰りに始皇帝が亡くなってしまいましたので、徐福が出港したのかどうかは定かではありませんが、日本各地、11ヶ所に徐福伝説があるところを見ると、どうやら出港はしたようです。

ここまでのまとめ

ひとまず、ここまでの検証をまとめておきます。

◯秦の独裁的な政治の手法は、始皇帝からのものではなく、秦の国の統治方法を始皇帝が受け継いたもの

◯始皇帝は現実的な考えの持ち主であり、外国人であろうと有能な人物は積極的に登用した

◯始皇帝は、現実的な考えの持ち主である一方、迷信は信じていた

◯絶対的な王になったからには、不老不死であらねばと考えるようになった

◯その考えを利用した方士たちが、「不老不死の薬を持って帰る」といって始皇帝を騙し、大金を巻き上げた

◯徐福はその方士の内の一人であった

◯当時の秦から亡命をしたい国民が多くいたことが推測できる

始皇帝は「暴君」というイメージがありますが、よくよく調べてみると、そのイメージとは違う側面も見えてきます。
もちろん、独裁的な政治を行っていた以上、人の命を簡単に奪うといったこともしてはいます。

こう考えてみると、当時の時代背景と合わせてみて初めて、徐福伝説が見えてくるような気がします。

日本各地の徐福伝説の真相は?

ここからは私の推論ですが、当時の秦には「霊薬」をダシに始皇帝を騙し、住みやすい日本に移住を計画していた方士がたくさんいたのだと思います。
方士は占い、医療、錬金術など、広い分野での知識がありましたから、それらを携えて日本に来たのでしょう。
また、秦が技術的に進んでいたのかどうかはさておき、たくさんの技術者を連れて来たことからしても、土地の人からすれば「異文化接触」であったに違いなく、「すごい人たちが異国から来た」という話はまたたく間に広がったに違いありません。
なので、その土地に異国の大船団がやってきて、そこに住み着いたということは事実だと思います。

「私が徐福だ!」???

その方士たちが日本各地にたどり着き「私がかの徐福だ」と方士が言ったことをその土地の人が鵜呑みにしてしまったのか、あるいは、当時は言葉もまともに通じなかったでしょうから、その土地の人が「あれはまさに徐福さんに違いない」と言ったのかどうかは分かりませんが、おそらくそういったことが日本各地で起こったことが想像できます。

あるいは、徐福がどこか特定の地に上陸したあと、その分派の人間が「私が徐福だ」と言って各地を回ったか、あるいは徐福自身が日本各地を回ったとも考えられます。

また、秦から大船団を組んで出港したので、それぞれの船がバラバラに別れてしまい日本各地にたどり着いたとも考えられます。
その各地で「私たちは徐福の一団だ」と言ったのかもしれません。

日本各地に徐福伝説があるのは、このためではないかと思います。

今挙げたことをまとめると

■秦の圧政から逃れて日本に住み着くために来た秦の国民が、徐福だけではなく、当時たくさん日本に渡って来た

■徐福自身やその分派が日本各地を回った

■バラバラになった船団が日本各地にたどり着いた

となります。

「秦の硬貨や食器が出土した」とか「お墓がある」からといって、それが徐福が来たという裏付けにするにはあまりにも稚拙です。
2000年後に、ある場所から1セントコインが見つかったからといって「これはトランプが来たに違いない」とはならないでしょう(笑)
お墓なんて後で作ろうと思えばいくらでも作れます。

「徐福英雄伝説」+「徐福上陸の地」を謳っている所を敵に回すような言い方ですが、これまでの検証から見ると、徐福は人を騙してやって来た単なる亡命者ということになります。

注意すべきところは司馬遷

ただし、ここでも注意をしなければならない点があります。
この「史記」を書いた司馬遷は漢の人間であり、秦の始皇帝のことを実際より悪く書いているという点は、以前の記事で述べました。

徐福も斉の人間であることから、司馬遷によって実際より悪く語られている可能性も無きにしもあらずという点です。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑨へ続きます。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く⑨


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