
今回は、ダイレクト出版から発売されている、「日本再興戦略」ー新しい日本を再定義するー 現代日本論「日本通史」編」より、個人的に興味深かったものを取り上げ、先生の著書「決定版 国民の歴史 上 (文春文庫)」と併用し、さらに、いときょう氏の「古代史ホツマツタヱの旅 第1巻」や、わたしの意見などを交えてお話をしようと思います。
今回お話をいただく方は、西尾幹二先生です。
西尾先生は1935年、東京に生まれ東京大学文学部、同大学院修士課程を修了された方で、1979年に「初期のニーチェ」で東京大学より文学博士を授与され、2015年には瑞宝中綬章を受勲されています。
「国民の歴史」は、現在中古でしか出回っていないようですが、是非手に取って読んでいただけたらと思います。
外の概念
日本人は日本の外に概念を持つことができないそうです。
どういうことかというと、ドイツ人、フランス人、イタリア人は「ヨーロッパ」という概念を持っています。
あるいは「キリスト教文明圏」という概念を持っています。
日本人には、その「外をなす共同体」という概念がないのです。
一方、中華は「中華しかない」という考えで、「我が国こそが世界の中心だ」という考え方です。
この思想が、チベットやウイグル、南モンゴルの弾圧や南シナ海の領土問題の火種になっているわけです。
またいずれチャイナは「日本もうちの一部にしてやろう」という考えを持っています。
日本人の来歴
一般に人類の起源について聞く時、「アフリカ起源説」が有力とされています。
つまり、アフリカから原人が現れ、2つのルートを通って分布された。
一つは陸路を通って日本・シベリアを横に見て、ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に入り、南アメリカまで行った。
これがインディアンとインディオの祖先。
もう一つは海路を通ってニューギニア、オーストラリアを経て南アメリカ大陸に到達した・・・という説です。
しかし、これはあくまで「説」であり、はっきりしたことはいまだに分かっていません。
西尾氏は、その分派の一つが入って来たのだろうと述べています。
ただ、日本という国は、民族文化が深く一つであるにもかかわらず、人種が多様であることに注目をされています。
血液検査で分かったことは、ストランド(インドネシア方面)、江南(チャイナ)、シベリアから来ているということです。
もちろん、一番近い位置関係にある朝鮮からも入って来ています。
そして、朝鮮人の方がむしろ純血度が高く、朝鮮半島よりも多様な人種がこの日本列島に住んでいたそうです。
近寄りがたい環境
当時、太平洋、特にその北側は広すぎてヨーロッパの船でさえも日本には近寄れなかったそうです。
1766年、イギリスのクック船長が第一回目の探検まで待ちます。
それまでは、ヨーロッパを出た船というのは、南アメリカを回り、南太平洋の島々を渡りながらフィリピンまでたどり着き、北上して日本に立ち寄ることなくそのまま西に進路を取ったり、来た道を引き返すというルートを取っていたそうです。
その中で(1000年、2000年という長いスパンの中に)漂流してたどり着いた外国人たちがいたらしいのです。
しかし、彼らは日本から出ていくということはしませんでした。
太平洋が大きすぎたからです。
これが他の国々と違うところなのだそうです。
他の国々、例えば日本の西に目をやるとユーアラシア大陸があります。
大陸では常に民族同士が争い、覇権抗争が絶え間なく繰り広げられてきました。
その中には滅んだ民族があったり、興隆する民族があったりしました。
また、この争いの結果、「自分たちの民族を守らなければならない」という考えが起き、結果的に純血度が高くなったそうです。
なので、朝鮮半島の方が純血度が高いという結果にりました。
一方、日本ではどうだったか?
縄文時代の終わり頃までは、戦争はありませんでした。
その時代の遺骨に、そういった跡が見当たらないのだそうです。
日本は地形的な背景もあり、一旦入ってきた民族は出ていかなかった。
争いもほとんどなかったので、その地勢風土ににを任せて暮らす方が幸せだという考えが日本にはあったのではないか、と西尾先生はおっしゃっています。
これが他の地域との大きな違いとなったのです。
縄文文化
このように、日本は古来より、地政学的に守られていました。
では、このような環境下で文化があったのかどうかというところが気になります。
結論から言って、もちろんありました。
例を挙げていきましょう。
縄文尺
35センチを「一尺」と定めていました。
例えば、東日本を中心に発掘された住居跡の柱と柱の間の間隔や、二つの抜き穴の間隔や、地表から床板までの高さなどが、ことごとく35センチの倍数で成り立っているそうです。
稲作文化と栽培
私たちが習った歴史の教科書には、稲作は弥生時代に中国から伝来したということが書かれていて、それが「通説」のようになっていますが、実は縄文時代からすでに稲作があったことが学会での定説になっています。
この頃の稲作というのは天水田(てんすいでん)といって、用水路を使わず雨水を利用したものだったそうです。
ホツマツタヱの研究をされている、いときょう氏は、縄文には陸稲(おかぼ)といって畑で栽培する方法が取られていたそうです。
陸稲についてはこちらをご参照ください。
もちろん、「稲作文化」と呼べるようになるには弥生時代まで待たなければなりませんが、それまでは必要とされていなかったわけで、この事をもって「縄文=原始社会」ということにはなりません。
日本で「農業」というと稲作が普通ですが、西洋をはじめとした世界各国では「放牧」と「牧畜」です。
たしかに、私がスペインのカミノを歩いた時も、沿道のいたるところで牛を飼っており、農作物を作っているところというのはあまり見かけませんでした。

東日本にはブナの森が広がり、他にはナラ、クリ、クルミなどの落葉広葉樹林に覆われていました。
一方西日本にはスギ、カシ、シイ、クスノキなのどの常緑広葉樹林に覆われていました。
これが、縄文後期にはスギが東日本にも広がり、ブナ、ナラなどが退きました。
クリは野生のクリの実とは遺伝子配列が違っているところから、栽培が縄文時代から行われていたのは間違いないという推論がなされています。
そして縄文後期には、クリの自然分布を離れた北海道の石狩低地にまで広がっています。
他にはエゴマ、豆、ソバ、アサ、ホオズキなどが栽培されていました。
ホツマツタヱでも、クリの木の栽培について触れられており、この点では氏の見解と一致しています。
米が主食になる前、縄文人たちの主食がクリであり、大規模な栽培が行われていたことが記されています。
そういえば、昔の発心門地区の住民の方々の主食はイチイガシのどんぐりであったと聞いたことがあります。
これは、この地が地形的に山がちで灌漑用水を引くことが難しかったため、稲作に適していなかったことが要因です。
その後、当時の新宮藩士の河野氏によって開墾され、稲作が可能になりました。
牡蠣の養殖
東京都北区中里貝塚では、マガキとハマグリの干し貝作り跡(!)が発見されています。
それに続いて、牡蠣の養殖場跡も見つかりました。
魚の保存文化
秋田県池内遺跡は、海から50km離れたところにありながら、ブリ、ヒラメ、サバ、ホシザメ、エイ、ニシン、イワシなど11種の海の魚の骨が見つかっています。
しかしこれらの頭の骨が発見されていないことから、海岸部で頭や内蔵を取り出し、天日干しや塩漬けにして運ばれたもので、海の人と山野の人が物々交換をしたり、市が立ったりする流通組織があったのではないかと関係者の間で話題になっているそうです。
酒
また、同じ遺跡から酒をつくるために搾ったヤマブドウ、キイチゴ、ニワトコの種が約30万粒も見つかりました。
このことから、当時から一度に大量の酒がつくられたのではないかと語る専門家もいます。
土器
縄文文化の中で、なんと言っても注目すべきところは土器の古さと多様さだと、西尾先生はおっしゃっています。
日本以外の地で、世界で一番古い土器は、西アジアの8000年前。
かたや日本のそれは16500年前でぶっちぎりの古さです。
それもただ単に古いというだけではなく、質量ともに抜群なのだそうです。
西アジアの土器はすべて食べ物を貯蔵する用途に用いられていたのに対し、日本列島の土器は早くから煮炊き用に使われていたそうです。
なので、加熱の跡を残しています。
大切なのは「無変動文化」ということで、これはエジプトの文明などと同じものです。
その最たるものが土器文明です。
その他
その他縄文文明には神殿、天文学、外洋航海術、家畜の飼育なども行われていました。
特に神殿建築においては、まれに見る高度な建築技術が駆使され、この工法は、奈良時代以降の社寺建築に一般的に用いられていたものと全く同じなのだそうです。
4500年前の建築様式に、そんな高度な技術が使われていたとは、驚きです。
このような建築技術がありながら、文字がないということは考えられません。
なので私は、漢字伝来以前から日本には文字が存在していたと考えています。
