
民族大移動と無文字社会
この中で西尾先生は、「たしかにシナ人が先に文字を作った。しかし、全ての人間の感情を表現するには足りない。しかし、高度な感情表現をなす言語生活を送っていたに違いない。無文字社会が豊かで深い思想を別の形で表現していた、ということを考える必要がある」と述べています。
ちなみに、「シナ」という呼称は何も侮蔑的な言葉ではありません。
英語では「チャイナ」、フランス語では「シノワ」、スペイン語では「チーノ」、ドイツ語では「ヒーナ」と呼んでいるにも関わらず、日本が「シナ」というと噛み付いてくるのはおかしいですよね。
今でも「小日本」などと呼んでいる国に、そんなことを言われる筋合いはありません。
「中国」という呼称は「中華人民共和国」とか「中華民国」の略称ならかまいませんが、この地域は王朝が頻繁に入れ替わっているため、地域や歴史的な関わりを指す用語は「シナ」が適当なのです。
日本は建国以来ずっと一つの国ですのでどこを切り取っても「日本」ですが、唐や隋や秦のことを「中国」というのは、違います。
縄文人と弥生人
「縄文人」「弥生人」と聞くと、あたかも違う人種や民族というイメージを持ちますが、この呼称は考古学での呼び方であって、人種や民族という括りではないということを先に知っておかなければなりません。
民族大移動
なぜ、こんなイメージが出来上がってしまったのか?
それは、紀元前300年頃に、おびただしい数の渡来人が上陸し、次々と生活圏を広げる「民族大移動」があった、という漠然とした思い込みが、一部の研究者の意識を縛っているからです。
通説では、朝鮮から民族の大移動があり、弥生時代に稲作が普及したというふうに考えらてれいますが、西尾先生はこれを否定しています。
結論から言って、これは、人間が移動したのではなく、情報が移動したということです。
通説であれば、弥生時代に急速に稲作が始まったような印象がありますが、実際には情報の伝播とともに、何世代にも渡ってゆっくり浸透していったのではないか、ということです。
これを先生は日本人の明治の服装の変遷を例に挙げています。
先生のお母さんは、明治の終わり頃の方で、その頃の服装は着物でした。
これが、先生の兄弟くらいの世代になると、着物と洋服が半々くらいになり、今では洋服が主流になっています。
稲作は縄文時代からすでに始まっていましたが、徐々に弥生式、いわゆる水田耕作が浸透していった、ということです。
そして、最も注意すべき点は、弥生文化を担った主体はどこまでも縄文人であったということです。
稲作文化を持ってきた外国人が大挙して押し寄せてきて、縄文人を駆逐したのではないということです。
東北地方でも弥生時代の水田跡が見つかっています。
しかし、土器は縄文の形態をそのまま受け継いでおり、西日本のように一変していない点が興味深いです。
また、銅鐸や鳥形木製品なでの、弥生時代を象徴するような祭礼用の道具も発見されていないことから、東北では水田稲作にあえて頼る必要がなかったということを物語っているそうです。
農業というのは、病気対策や雑草刈り収穫までに実に多くの作業が必要になります。
わざわざそんなことをしなくても、この頃は海に行けば魚が取れ、山に行けば山菜や動物が取れるというように、食料が豊かだったので、あえてそんなしんどいことをしなくても生活が出来ていたと考えられます。
いときょうさんがおっしゃるに、当時の東北は現在の西日本のような温帯の中にあり、逆に西日本は熱帯に近い気候であったらしいのです。
そう考えると、現在では冬にとてつもなく寒くなるような東北において、高度な文明が発達したこともうなずけます。
弥生人が縄文人を駆逐した?
もうひとり、日本の歴史に明るい小名木善行さんのお話によると、このような内容です。
私はこれを支持します。
よく聞く説として、「多くの渡来人がやってきて、平和に暮らしていた縄文人を駆逐し、新しい文化を日本にもたらした」というようなことを言う人がいます。
日本の文化を奪ってやりたいなどと思っている人たち、あるいは、外国の文化が優れているという先入観のある人などは、この説を支持するでしょうが、そういった証拠はどこにもありません。
そういったことを支持する人などが書いた本などには、縄文人の人骨は平べったくて弥生人のそれは面長である、などと書かれています。
しかし、面長の顔の縄文人も多数発見されており、決して縄文人=平べったい顔ではないということです。
こういった断片的なデータだけをつなぎ合わせて結論付けているにすぎません。
「縄文人」「弥生人」の違いというのは、言い換えれば「大正人」と「明治人」と言っているようなもので、そもそも同じ日本人です。
ただ、何らかの事情があって、生活様式が大きく変わってきた、ということに過ぎないということが、最近の研究の主流になりつつあり、この説を覆せるほどの証拠はないそうです。
縄文から弥生へ
今から約3000年前に、縄文から弥生に移り変わり、弥生式土器や埴輪が生まれました。
縄文時代の土偶には武器を持ったものが見つかっていませんが、弥生時代の埴輪には武器を持っているものがあります。
このことから、弥生時代には武器を持つ文化が入ってきたことは明らかです。
ではなぜ、そのような文化が入ってきたか?
その頃の倭人(この表現はあまり好きではありませんが)たちは半島に進出していたそうです。
半島のその向こうは大陸の国があり、そこは戦国時代であり、大変な殺し合いが行われていました。
そこで負けた人たちが流れて倭人たちの村を襲撃するといったことが頻繁に行われていたのではないか。
そこで倭人たちは武装せざるをえなくなったのではないか、と言われています。
また、縄文式土器のような精巧な土器を手間ひまかけて作ったとしてもすぐに割られてしまう。
そうなれば、簡単なものでいいという考えから、簡素な弥生式土器に変わっていったのではないか、とおっしゃっています。
こう考えれば、なぜ複雑で精巧な縄文式土器から弥生式土器に移っていったのか、納得がいきます。
また、「縄文時代は狩猟採取で、弥生時代に稲作文化が始まった」とされる説はもう、ほぼ否定されています。
