日本の歴史 「日本列島通史」より ~受け入れた物、受け入れなかったもの~

時代は一気に7世紀辺りのお話になります。

許容と拒絶

当時の日本は、チャイナからの影響を多く受けます。

仏教、漢字、儒教、律令、科挙宦官纏足、族外婚などです。

この中で、仏教、漢字、儒教、律令は日本に取り入れられ、科挙、宦官、纏足、族外婚は取り入れられませんでした。
当時の日本に考え方や習慣に合わなかったからです。

中でも宦官、纏足はそもそも日本人にはとうてい受け入れられない物ですよね。

日本に取り入れられたものの中で、律令もやがて廃止になります。
律令の「律」は「刑法」、「令」は「行政法」です。
律令制度は、飛鳥時代の7世紀後期から10世紀に渡り実施されました。
当時日本に伝わった「唐律」にある犯罪の規模や性格が、日本の社会では理解できないようなもの多数存在していたため、そのまま取り入れるこができなかったそうです。
平安時代においても、日本には約300年間死刑がなかったことなどもその要因の一つであったようです。
この「律」に関しては改変してもうまくいかず、結局持て余すことになったようです。

現在、「ティール組織」や「ホラクシー組織」が最近もてはやされていて、「これこそが理想の組織だ」と言わんばかりの風潮があります。

しかし、現在の大多数の組織はピラミッド型で、役職の所在や責任などもはっきりとしています。
この制度にティール組織やホラクシー組織を当てはめようとしても、無理が生じることは明らかです。
それるするなら、一から組織を立ち上げてやるしかないでしょう。
それでもうまくはいかないと思います。

話がそれましたが、日本には古くから日本なりのやり方があったわけで、それに全く新しい概念のものを持ってきて当てはめようとしてもうまくいくはずがありません。

律令も、一旦は受け入れられましたが、日本の元来の制度には合わなかったため、廃止になったわけです。

郡県制と封建制

官吏(かんり)というものがあります。
官吏の「官」は「高級官僚」、「吏」は「地方官僚」です。
この「官」は科挙によって採用されていました。
身分などを問わず試験によって採用されるという制度が科挙なわけですが、この制度が郡県制を支えていました。

官はいわゆる帽子のようなものであり、実際に地方の業務を行うのは「吏」でした。

これは、皇帝が国を支配するのに必要であったからです。
「官」は科挙によって採用され、3年に一回「異動」があります。
3年に1回の異動の理由は、その土地の人情に溺れないようにするためだそうです。
こう見ると、今の日本の社会は郡県制で、公務員は試験によってされていて5年くらいで人事異動がありますので、昔のチャイナのやり方そのものといえますね。
この制度が適用されたのは明治時代です。
近代化とうまく噛み合ったのでしょう。

一方、封建制度は、将軍などの有力な者がその土地を借りて(預かって)民衆に対して政治を行うものです。
封建制度では主に世襲制です。

この封建制度と郡県制は相反するものなので、当時の日本では受け入れられませんでした。

一方、朝鮮ではチャイナの言う通りに受け入れ「小中華」となりました。
おそらくこれは、大陸に位置する関係上、自分たちが生き残るためと、前述のように、犯罪の規模や性格が似ていたから適用できたからなのかもしれません。
要は、大陸文化の影響をまともに受けていたからでしょう。

日本にあって、チャイナにはないもの

日本にあってチャイナにはないものとして、仮名、武士、幕府、紋章などがあります。

建物で見る日本とチャイナの相違点

西尾先生は、「国民の歴史」のなかで興味深い点について指摘をされています。
まずは日本とチャイナにおける、建物の違いについてです。
寝殿造は唐の宮殿を祖にしますが、それが取り入れられた頃から、著しい相違を見せます。

日本とチャイナの建築様式の相違点について、次のように挙げています。

1.土間式に対し、日本では高床式

2.寺院を除いて瓦葺ではなく檜皮葺

3.柱は丹土塗りではなく日本人好みの簡素な白木造り

4.土足で建物に入るのではなく、履物を脱いで上がる

5.ベッドではなく、畳の上に寝る

6.椅子には座らず畳の上に座る

7.チャイナは密閉式なのに対し日本は全面開放式

8.個室に対して、家全体が融通無碍(ゆうずうむげ)に大部屋式に開放的になる形式

日中の住宅関係を調べた寝殿造の研究家によれば、旧ソ連、オリエント、中央アジアなどのユーラシア大陸全土がほぼ同じ形式で、日本だけが例外なのだそうです。

次に建物と庭と外郭の関係の違いについても説明がなされています。
チャイナの宮殿と、日本の古来の邸宅についてです。
まずはチャイナから。

1.南北門を開いて東西門を閉ざす

2.左右対称形

3.中庭を持つ狭い空間を特徴とし、自然を排除

4.部屋が密閉式で各個室が仕切られている

5.窓が小さく家が防衛的であるだけでなく、都市そのものが閉鎖的で城壁に囲まれている

これは、朝鮮半島においても同様です。

続いて日本です。
例に挙げているのは宇多天皇、朱雀院推定復元図です。

1.東西南北の全門を開いている

2.建物は敷地内に自由に置かれ、左右対称ではない

3.築山があり、庭があり、池があり、自然を導入している

4.部屋が開放的で、個室に仕切られていない

5.戸口が大きく開放形式であり、また、奈良にも平安にもそもそも城壁はない

東洋 vs 西洋ではなく、日本 vs 大陸

こうして比較すると、日本とチャイナの間でも大きな違いがあることに気付かされます。
チャイナの様式は、ヨーロッパのそれと類似していることから、俗に言われる「東洋と西洋」という括りではなく「日本と大陸」と括る方が自然なのです。

そのことについて、西尾先生は以下のように述べています。

日本は東洋の一角にあるために、長いあいだ日本の文化は東洋の文化の一種だと思われてきた。

儒教文化圏、漢字文化圏、稲作文化圏といった言葉が、日本文化が東洋の大陸文化のなかの一変種であることを、さながら自明の前提であるかのように思わせてきた。

しかし、日本の文化の歴史を探求し、そのあり方を考えていくと、大陸文化の影響は表面的であって、むしろ治乱興亡めまぐるしい大陸とは大いに異なる側面を持っていることに、いやでも気づくことが多いのである。

(中略)

東洋と西洋とは対立するように考えられてきたが、どちらもが地続きの一つの大陸である。

(中略)

大陸では独立した民族の生活文化は簡単には成り立たなかった。
様々な民族が征服したりされたりしながら入り乱れて、怒涛のように動いてきた歴史が存在し、人の命がいかに粗末に扱われてきたかは驚くばかりである。

先生のおっしゃる通り、大陸では違う民族が支配をしたりされたりしながら目まぐるしく入れ替わっています。
「唐律」が日本に合わなかったという点においても、そのことが伺い知れると思います。
いまでは「東洋と西洋」という考えが一般的でしたが、こう考えると「日本と大陸」と考える方が自然だと言えます。

そして、その決定的な要因は言語であると述べています。
日本語はユーラシア大陸のどの言語にも属さないことが明らかになったそうです。

しかしながら、チャイナから影響があったことは確かです。
では、なぜそうなったのでしょうか?

その理由は、地理的な関係にあります。
日本の東には大きな太平洋があり、背中には大陸を背負っています。
したがって、世界の情報のすべては、当時は大陸からしか伝わって来なかったのです。

これを完全に拒否することは不可能です。

模倣して受け入れるか、さもなければせいぜい距離をとって遠ざかろうとするしかありません。

そうして取り入れるところは取り入れ、自分たちに合わないところは拒否をして、うまく距離を取る必要があったのでしょう。
この精神が、日本を長い間に渡って存続し続けていられた要因の一つではないでしょうか。

そしてその精神は、現在でも引き継がれています。

日本人は海外の文化を取り入れ、自国用にアレンジし、そして発展させることが得意ですよね。
そして、いつしかオリジナルを越えるレベルにまで昇華させてしまいます。

日本人が世界から尊敬される一つの要因だと思います。




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