遣日使

今回は、東北大学名誉教授、日本国史学会代表の田中英道さんの著書
日本の歴史 本当は何がすごいのか
の中でコラムとして取り上げられている遣日使についてのお話です。

奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。
その御物には、大陸から渡ってきた品々が数多く含まれています。
そこから正倉院は「シルクロードの東の終点」と呼ばれたりします。

それは事実なのですが、逆に日本から大陸に渡ったものはないのか、みなさんは考えたことがあるでしょうか?

遣隋使と遣唐使

日本の文化は遅れているから、中国や朝鮮から学び発展したという観念が特に戦後に浸透しました。

その代表例が遣隋使と遣唐使です。

遣隋使の初めは小野妹子の607年、遣唐使は630年です。
遣唐使は16回とか20回という説がありますが、いずれにせよ、それくらいの回数をかけて唐に行ったことは間違いないようです。

それによって、日本は発展したというのが今の論調です。

しかし、遣隋使の時代に裴世清(はいせいせい)をはじめ位の高い役人などが三十数艘の大船団で日本を訪れています。

いわば「遣日使」です。

唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきます。
その人数もすごい。
たとえば669年と671年には2000人余りです。

新羅も日本に高い関心を持っていたようで、三十数回も来ています。

渤海(ぼっかい・満州~朝鮮北部~ロシアの沿海州の国)も33回来ています。

遣隋使・遣唐使のそれよりも遥かに多かったのです。

日本が遅れていた?

では、なぜ彼らがこぞって日本に来たのか?

それは、日本の文化を摂取するためです。

経済的には金、銀、絹など高い需要がありました。
文化的には日本の仏教と聖徳太子の思想を学ぶということもありました。
鑑真が日本への渡航に5回も失敗し、6回目にようやくたどり着いた話は有名です。
鑑真がなぜこれほどまでに日本に固執したのか。
それは、聖徳太子をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたからです。

インド人、ベトナム人、ソグド人(中央アジアのイラン系民族)の僧も日本に仏教を学びに来ています。

この事実からみても、日本は諸外国に比べて決して遅れていた国ではないことがわかります。

人間は文化的に低いところから高いところへと流れる

奈良時代、日本も唐も諸外国も文化的には対等で、相互に学び合い、物を交流させていたのです。
田中先生は「だから、遣隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもと。正確には交流使というべきだと思います」と述べておられますが、まったくその通りだと思います。

663年、白村江の戦いで日本が破れ、百済救済に失敗して百済が滅んだ時には、たくさんの百済人が日本に亡命して来ています。
9世紀初めには、関西圏の人口の3分の1は渡来系だったという説もあります。

日本が満州国を建国した後には多くの人がなだれ込み、一気に人口がが増えたということもあります。

「あの国へ行けばいい暮らしができる」となれば、そこへ移動したくなる心理も分かりますよね。

「人間は文化的に低いところから高いところへと流れる」

これが人口移動の鉄則です。

日本の歴史 本当は何がすごいのか (扶桑社BOOKS)

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