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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
徳本上人名号碑(道標)

河瀬橋(ごのせばし)を渡ると、徳本上人名号碑が建っています。

説明看板より
道標を兼ねた供養塔
この供養塔は天保八年(1837年、大塩平八郎の乱のあった年)の飢饉による多数の飢餓者の七回忌供養のため、天保十四年(1843年)にふじたき(藤滝)念仏堂の発願により建てられ、以来明治の頃まで板橋(流れ橋)の渡りづめにあった。
明治に入って木造の永久橋が今の位置に出来てここに移転したが、後に近くの地蔵寺の門前に安置した。
それから百有余年を過ぎた平成十四年(2002年)再び元の位置に戻してお祀りすることにした。
正面のお名号は徳本上人の字体による。又、台石には世話人の名前もある。
明治に入って木造の永久橋が今の位置に出来てここに移転したが、後に近くの地蔵寺の門前に安置した。
それから百有余年を過ぎた平成十四年(2002年)再び元の位置に戻してお祀りすることにした。
正面のお名号は徳本上人の字体による。又、台石には世話人の名前もある。
石柱及び台石には次のように書かれている。
| 右面 | 是ヨリ 左リ紀三井寺道 六里八丁 |
上津木 中村 ふじたき 念仏堂 建之 |
| 正面 | 右く満み道 南無阿弥陀佛 左むろご道 |
酉年以来餓死亡霊 七回忌 為 菩提 徳本 花押 三界萬霊有無両縁 乃至法界平等利益 某 敬白 |
| 左面 | いせ 右 みち かうや |
年来之志願 建立 十万以信施 霊應 維時天保十四卯晩秋 |
台石には世話人の名前とその地域が列挙されていますが、省略(笑)
徳本上人名号碑と道標の組み合わせは珍しいのではないでしょうか?
河瀬王子跡
説明板のあるように、昔社殿があったであろう石垣が残っています。

説明板より
藤原定家は「明月記」によると、建仁元年(1201)十月十日、井関王子についで「ツノセ王子」に参拝しています。
また、藤原頼資の日記では、承元四年(1210)四月二十六日、白原王子についで「角瀬川」王子に参拝しています。
江戸時代の「熊野道中記」などでも、「津の瀬王子」と書いています。
このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられます。
「紀伊続風土記」では、「川瀬王子社」とし、明治時代には川瀬王子神社となりましたが、明治四十一年に津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなりました。しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の固態を伝えているように思われます。
また、この王子社がら鹿ヶ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。
また、藤原頼資の日記では、承元四年(1210)四月二十六日、白原王子についで「角瀬川」王子に参拝しています。
江戸時代の「熊野道中記」などでも、「津の瀬王子」と書いています。
このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられます。
「紀伊続風土記」では、「川瀬王子社」とし、明治時代には川瀬王子神社となりましたが、明治四十一年に津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなりました。しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の固態を伝えているように思われます。
また、この王子社がら鹿ヶ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。
もうひとつ、案内板があります。
此の所において雨漸くやむ。
夜また明く。次にツノセ王子に参り、次にまた シシノセの山をよぢ昇る。崔嵬の嶮岨。
巌石は昨日に異ならず、此山を越えて 沓カケ王子に参り、シシノセ椎原を過ぎて
樹陰滋り、路甚だ狭し云々
「熊野御幸記」
(広川町誌より)
夜また明く。次にツノセ王子に参り、次にまた シシノセの山をよぢ昇る。崔嵬の嶮岨。
巌石は昨日に異ならず、此山を越えて 沓カケ王子に参り、シシノセ椎原を過ぎて
樹陰滋り、路甚だ狭し云々
「熊野御幸記」
(広川町誌より)
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③に続きます。
