野長瀬一族の墓

野長瀬一族は13世紀の初頭に、十津川~近露の官僚として勢力を伸ばしていった豪族。
その頃、南朝と北朝に別れてしまいます。
しばらくは南朝と北朝交代で政権を担っていたそうですが、次第に北朝に力が強くなり、南朝は奈良県吉野に拠点を構えます。
南朝の後醍醐天皇が鎌倉幕府を討伐して復権を図りますが失敗に終わってしまいます。
皇太子である護良親王が戦線に加わりましたが負けて玉置一族に追われていたところを野長瀬一族が峡谷の横から矢を放って助けました。
この功績から「横矢」の名を賜り、それが今日この地域の横矢姓の起源であると言われています。
また、この地域の「中村」姓も横矢一族から派生したという看板が墓地に立てられています。
さて、時代はさらに下り、豊臣秀吉が天下を治めんと各地を征伐し始めます。
和歌山も根来、雑賀衆などを制圧し、その勢力が南下を始めます。
とうとう紀南にもその勢力が到達し、上富田の山本氏や野長瀬一族などが抵抗を見せますが山本氏は最後の当主・康忠が、秀吉からの和睦の申し入れに応じ、ともに戦った湯川直春と大和郡山城を訪れますが、謀略にかかり藤堂高虎に殺害されてその歴史を閉じます。
また、湯川直春は城内で毒殺されています。
こうして山本氏も滅び、紀州征伐の紀南への延伸により、近露の野長瀬一族にも被害が出ました。
野長瀬の墓石は山中などあちらこちらに散らばっていたそうですが、戦後(第二次大戦)に畑を開墾する際に五輪塔や宝篋印塔がゴロゴロ出てきたので、現在の場所に一箇所に集められました。
五輪塔は54基、宝篋印塔は6基あります。
今日はここまでです。
