
今回は、何回かに渡って捕鯨についてお話をしようと思います。
熊野古道とは関係ないという方がいるかもしれませんが、大雲取越の舟見峠からは太地町が見えますし、高野坂では鯨山見(くじらやまみ)の跡がありますので、決して無関係ではありません。
また、和真山県民として、日本人として、外国人から捕鯨についての意見を聞かれることもあります。
捕鯨の知識を理解しているのとそうでないのとでは、持論が間違った方向に行く可能性もあり、また、外国人からの質問に対して、うまく答えられない可能性もあります。
クジラの種類と捕鯨について
一口に「クジラ」と言っても約80種類あり、大きさも30mを超えることもあるシロナガスクジラから、せいぜい2mまでのスナメリまで、実に多くの種類が生息しています。
ちなみに、イルカもクジラのの仲間です。
この中には、シロナガスクジラのような絶滅危惧種もいれば、クロミンククジラのように50万頭いる種まであり、海外の人たちはこういった事実を知らず「クジラ=1種」という単純な発想から捕鯨反対を叫んでいることがほとんどです。
日本では、こういった絶滅の恐れのない種に限って頭数制限を設けて捕獲しています。
捕鯨の始まり
古式捕鯨は、今から約400年前の1606年、太地の和田忠兵衛頼元、泉州の伊右衛門、尾州師崎(もろざき)の伝次という漁師が捕鯨組織を創始したことに始まります。
当初は、手投げ銛(もり)を打ち込むだけの「突き取り法」でしたが、確実に捕獲することが難しく失敗することが多かったそうです。
そこで開発されたのが「網掛け突き取り法」という方法です。
刃刺
網掛け突き取り法とは、クジラを発見したら勢子船(せこぶね)で追尾し、クジラが網に絡まり動きが鈍ったところで1番船から銛を投げた後、他の勢子船からも一斉に銛を投げます。
この、銛を投げる役割を「刃刺(はざし)」といい、1番から2番、3番と順位が決められていました。
また、刃刺には「豊太夫」「浦太夫」「君太夫」「沢太夫」のように「太夫」という呼称が付けられ、捕鯨組織や一般漁民、地域住民の尊敬の対象となっていました。
位の高い刃刺が乗る船はそれぞれ色彩され、一番船が桐に鳳凰、2番船には割菊、3番船は松竹梅、4番船は菊流し、5番船には蔦模様という絵柄が決められていました。
そして、それ以下の船には割菊と番号が付けられていました。
勢子船は極彩色に塗装されていました。
これは、陣形を取る際に役割が違う船を見分けるために効率が良かったという点がありますが、私がお聞きしたもう一つの理由として、クジラにこの絵を見せることにより、極楽浄土を見せて成仏してもらうという願いがあったのではないか・・・ということです。
捕鯨対象
古式捕鯨時代の捕鯨対象は、主にセミクジラでした。
このクジラは遊泳速度が遅く、海岸近くに回遊する性質を持っており、脂肪層が厚いために死んでも沈まないという特徴がありました。
そのため、当時の道具技術では、このクジラが最も捕獲しやすかったそうです。
また、油がたくさん採れることから、欧米の捕鯨でも数多く捕獲されました。
セミクジラはヒゲクジラの仲間です。
ちなみに、マッコウクジラやイルカなどは歯クジラの仲間です。
セミクジラは餌場から繁殖場を回遊しています。
そのため、時期によって脂肪の厚さが変わります。
餌場から繁殖場に向かう時は良く肥えていて、反対に繁殖場から餌場に向かう時は痩せています。
これは、ヒゲクジラが餌場で1年間のほとんどの餌を食べ、繁殖場では餌を取らない習性からきています。
特に妊娠中のメスの皮脂は非常に厚く、分娩後のものは薄いのが特徴です。
江戸時代に栄えた日本の捕鯨において北から南はと向かう冬期のクジラのの方が、南から北へ向かう春期のクジラよりも一般的に高値だったのは以上の理由からです。
