鎖国

1635年、江戸幕府はいわゆる「鎖国」をします。
翌年には長崎の出島が完成し平戸が閉鎖され、オランダとだけの交易をすることに決定をします。
これと同時に日本は武装解除をします。
幕府は日本中の鉄砲をかき集めてお寺に釣り鐘にしてしまいます。
これは、世界の他の地域が平和で安定的になったからではありません。
むしろ反対で、ポルトガル、スペインだけでなくオランダ、イギリスがどんどん世界に出始めてきていた時代です。
戦国時代では、鉄砲の伝来以来、日本はどんどんと自前で鉄砲を量産し、ついには当時の軍事力ではスペインやポルトガルでも敵わないほどにまで成長しました。
「我が国は日本には勝てない」と言わしめるにまで軍事力を高めてしまいます。
それを裏付けるエピソードとして、江戸時代には、フィリピンのマニラ沖を日本の朱印船が通った時、その海域で戦闘をしていた諸外国が一時戦闘を中止するという「事件」が起こります。
このことから推測するに、当時は日本の軍事力が他を圧倒しており、日本には軍事で手出しが出来ないと思われていたからではないでしょうか。
いわゆる「鎖国」と言われた政策も、当時の状況からみて窮地に立たされていたからではなく、むしろ優位の上に、それも相手にする国を選んで交易をするという選択をしたものと思われます。
幕府は、琉球や李氏朝鮮を従え、東アジアにおける外交秩序の確立に腐心しており、オランダとチャイナはそれよりも序列が下に位置づけられていました。
特にチャイナ(清)は幕府からはじき出され、チャイナがなくとも外交的にも経済的にも十分やっていける自信があったとされています。
というか、当時の幕府には「鎖国」という言葉すらなく、渡航禁止や蛮族打ち払い、ポルトガルとの国交断絶の令を出したという事実があるだけです。
これは完全に外交を完全に断絶するという政策ではありません。
現に、「明」から「清」に変わった時などは、明の家臣から明の再興を懇願され、当時の将軍家光は、清に2万の軍隊を送ってどうにかして再興してやろうと本気で考えていたそうです。
ただし、この計画は、当時の状況がとても再興するには無理があると踏んで実現しませんでしたが、幕府は必要とあらば海外に出ていくという考えがあったということを示しています。
「鎖国」という言葉はいつから使われるようになったのか?
では、いわゆる「鎖国」という言葉が当時なかったのであれば、この言葉はいつから使われ始めたのでしょうか?
「鎖国」とい言葉は江戸末期、1801年であり、ケンペルの「日本誌」の中の一節を、当時のオランダ通詞の志筑忠雄(しづきただお)が訳したのが最初だったのです。
ただし、この「鎖国」という言葉は、それが初見であったことは事実ですが、使用されていた形跡はなく、江戸も末期の末期、第14代徳川家茂(いえもち・1858-1866年)の時代になっても登場していません。
したがって、江戸時代においては「鎖国」という考え方はなかった・・・というか鎖国は存在していなかったという解釈のほうが正しいということになります。
江戸幕府は、国力も相当あり、国を平和的に保つには交易する相手を選べたということでしょう。
国と国の話になると分かりにくいのですが、これを人と人に置き換えれば分かりやすくなります。
最近はよく人間関係の本やYou Tubeなどで「嫌な人や苦手な人からは距離をおけ」ということが言われています。
苦手な人や悪口をいう人から距離をおくことは、自身の精神状態などを健全に保つ意味で非常に重要です。
当時の江戸幕府は国単位でそれをやってのけたということなのでしょう。
