
強権の始まり
秦の始皇帝と言えば、強権を振るって圧政を行ったというイメージがありますが、これは「戦国七雄」の時代から受け継いだものです。
秦という国の特徴として、実力がある者であればたとえそれが外国人であろうと積極的に採用したとい点が挙げられます。
これは、秦は牧畜や狩猟の民族であったことから、政治を執り行う人材が少なかったことによるものだと考えられています。
牧畜といえば、チンギス・ハンが率いたモンゴル帝国が真っ先に浮かびますが、これもやはり同じような理由で、外国人であろうと積極的に採用をし、勢力を伸ばしていったそうです。
「あそこに行けば生活も安泰だし、褒美ももらえる」という噂が広がり、爆発的に人が増えました。
秦はこうして国力をつけていきます。
鄭国渠
国力増強にもう一つ、大きな「事件」がありました。
それが鄭国渠(ていこくきょ)の建設です。
戦国七雄のひとつ、「韓」の鄭国という人が秦に灌漑工事をしたいと申し出ます。
これには韓の意図があり、この事業でたくさんのお金を使わせて国力を落とそうと考えていたのです。
しかしこれが結局裏目に出ます。
農作物がたくさん取れるようになり、逆に国力が上がってしまったのです。
この工事中、鄭国が韓のスパイであることがバレてしまいすが、この灌漑工事は秦にとってたいへんいいことだと説得し、引き続き工事を続ける許可をもらったといいます。
始皇帝(この時はまだ「始皇帝」ではなく「政」という名でしたが)は、こういったところは現実的というか、寛大というか、何か、信長公と似ているようなところがあると思うのは私だけでしょうか。
商鞅
秦の強権政治は、公孫鞅(こうそんおう)という人物が始めました。
公孫鞅は、商から領土をもらい、そこに封じられたので「商鞅(しょうおう)」と言います。
この商鞅も外国「衛」の人です。
商鞅は住民を5つに区切り、それを「一保」とし、それが10集まれば「隣保(りんぼ)」としました。
つまり1隣保で50戸です。
商鞅はこの50戸に、連帯責任を追わせる仕組みを作りました。
隣保の中で悪事を働いた人がいれば、それが50戸の責任になるというのです。
また、それだけではなく、「仲間」の悪事を伏せていると、その伏せていた人も罪に問われます。
いわゆる「密告制度」が奨励されたわけです。
さらに階級制度を設けました。
この階級制度が・・・
戦の功績を、獲った首の数で定めたのです。
首を3つ獲った者は3階級上がる、という具合に。
この等級を表す「級」という字は、もともとは首級の級、すなわち首の数を数える字でもあったそうです。
こうして商鞅が厳罰主義を敷いたことにより、民は段々と背けなくなり、内政は整備され、開墾が急速に進み、産業が振興しました。
この結果、軍隊が強くなっていきました。
こうして見ると、秦の始皇帝というのは突如として現れたのではなく、現れるべくして現れた英雄とも言えると思います。
秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く③に続きます。
