
今日は謎が多いとされる補陀落渡海についてです。
世界遺産・補陀落山寺の瀬川さんよりお聞きしたお話の要約をまとめてお伝えします。
さっそく行きましょう。
補陀落山寺と世界遺産登録の理由
建物としての和歌山県熊野地方の世界遺産は5か所で、あとの4か所は熊野三山と青岸渡寺。
この4か所は「全国ブランド」であり、大昔から全国の方々が知っている。
なぜ、補陀落山寺のようなちっぽけな(あくまでも瀬川さんの話ですよ)お寺が世界遺産になったのか・・・・建物自体は平成2年11月と非常に新しいが、開山は4世紀前半で歴史が古く、史実がたくさんあるという点。
本堂には小さい仏像も入れて10体、近くの庫裏にもまだたくさんあり、那智参詣曼荼羅は現在青岸渡寺の宝物殿で保管されている。
境内にも展示されているように、奇抜な宗教儀礼(補陀落渡海)が史実としてあったからだろう。
金光坊事件
補陀落船のような船に乗っていた記録というのは、和歌山県内ではここしかない。
田辺市の跡の浦には、荼毘に付した人を乗せる船があったらしいが、生きた人を乗せた船というのはここしかない。
補陀落渡海の第一回は868年古代・平安、一番最後が1722年。
慣習は新しいが、近世になって61歳を迎えたら補陀落渡海に出なさいというものがあった。
その中の一人に「金光坊」という住職がいた。
ちなみに、「金光坊」は「こんこぶ」と読む。
この金光坊、渡海に行くのが嫌だったが、当時の慣習に従わなければならなかった。
金光坊は、現在「金光坊島」と言われる島で、板を打ち破って渡海船から逃げ出した。
渡海船は、曳航者(寺の関係者が担当)がいないと沖に出られない。
その曳航者が逃げ出した金光坊を見つけ、入水させた。
金光坊事件後の渡海
渡海の歴史850年の中で、この金光坊事件が転機となる。
当時曳航していた者が帰って来た時、金光坊を入水させてしまったことに対して大いに反省をした。
「無理に殺すことはないのではないか」と。
これを機に、渡海の様相が一変する。
今までは、生きていた上人が船に乗り込んでいたが、僧侶が亡くなってから船に乗せて沖へと送り出す「水葬」へと変わっていった。
その「水葬」の渡海が計8回。
その一番最後が1722年の宥照上人(ゆうしょうしょうにん)
渡海の始まりとその理由
第一回の868年(貞観10年)の慶龍上人に関しては、それよりずっと前だったんではなかろうかという先生もおられるが、熊野年代記によれば、これが第一回。
868年が第一回だが、どうしてそれが第一回なのかということを記したた書物がない。
貞観時代に、大きい地震が起きており、どうやらその前(貞観10年の前)に大きな地震が起きているらしい。
地震は貞観年間に一回きりではなく数回起きている。
その数回の中の一回は、マグニチュード9以上だったと言われている。
恐らく、この近隣の人々は渡海上人に「こんな災害はどうか止めてください」とお願いしたんではなかろうかと思っている。「どうかお上人様、観音浄土へ行ってそれを止めてください」と、「もっと平穏な暮らしができるようにお願いします」というふうなことを託したんではなかろうかと。
自身が補陀落山寺に来てから二十数年間その疑問を持っていたが、2011年の東日本大震災があって初めて「貞観時代に大きな地震があった」というのを知った。
個人的には第一回の868年がどうして第一回なのかということに関して、ひょっとしたらそれも関係あるかなと思っている。
何か原因がないことにはこんな「渡海に出る」なんていう発想は出ない。
その「何か」が貞観の大地震だったのではなかろうかと思ってる。
しかしながら、資料がないので先生方でもどうしようもない。
「自殺行為」について
何よりも一番知りたいのは、死ぬ行為、自殺行為。
当時のような船で、「観音の浄土(南方補陀落浄土)に行けるわけがない」ということは、昔の人々も分かっていたはず。
どうして100%死ぬと分かっているのに、渡海に出て行ったのか、そこが一番知りたい。
僕ら(瀬川さん)の年代になってくると、周りの人がどんどん亡くなっていく。
おのずと人間の現世の死を真剣に考える。
「次は僕じゃないかなあ?」と。
結論は、「死にたくない」です。健康で長生きしたい。
色んな意見があるが、その中でも補陀落山寺の背景も関係している。渡海は特に中世に集中している。日本における中世の時代というのは、一歩外へ出たらバサッと斬られるような末法の世の中。
そういった背景も影響したと思うが補陀落山寺の住職は、実は修験者だったらしい。
その修験者が、生死の境をさまようような厳しい修行(千日回峰行など)を経て、人間の現世の死に対する考え方が違って当然ではなかろうかと思う。
われわれは死にたくない。
だから現世の死のハードルというのは、相当高い所に引っ張っている。
しかし彼らはそうではないだろう。
厳しい厳しい行によってその線引きがもっともっと下に出来たんではないだろうか。
いわゆる死を超越できたのではなかろうか?
現世の死なんてものはわれわれ人間にとっては、そんな大きな問題ではないんだと。
もっと上の段階、さらに上の段階が、あるんだというような境地に達したからではなかろうかと。
このように考えると、ここで死の行為が28回も行われたというのは、「そうなのかなあ?」という気はするけれども、残念ながら資料がないので一説に過ぎない。
全国の渡海
兎にも角にも、補陀洛山寺で渡海は今のところ、根井先生の研究では28回。
これだけ28回も数多く行われたのは補陀落山寺だけ。
他には足摺で6回、室戸で2、3回、鹿児島、福岡、大阪の泉南、鳥取県、関東でも2、3回ある。
東端は千葉県那珂湊市で1回。
今のところ全部で56回で、補陀落山寺の28回というのは偶然にもちょうど半分。
だから「補陀洛渡海」イコール「補陀落山寺」
以前の補陀洛山寺
昔は神仏習合。
神仏習合の時代は神社(現・熊野三所大神社)と、庫裏とこの建物(補陀落山寺)の間にもう一つ建物があった。
現在「補陀洛山寺」と呼ばれる建物は、かつては千手観音の「千手堂」と言われ、この四つあわせて「補陀洛山寺」と言った。
千手堂は大昔からここにある。
上人たちは渡海へ出る一週間前、このお堂へ籠って秘密の行を積んでいた。
吾妻鏡に見る補陀洛渡海
補陀落渡海についての資料は乏しく、熊野年代記や熊野巡覧記があるが(金光坊住職のことは熊野巡覧記に記載がある)一番有名な信憑性の高い書物としては、吾妻鏡。
智定房という住職は元々は鎌倉幕府に仕える武士で、当時は下河辺六郎行秀という、なかなかの弓矢の達人だった。
ある時、頼朝のお供で那須へ鹿狩に行った際、頼朝公に「あの鹿を射よ」と言われ射っがその矢が外れて近くにいた同僚に当たってその同僚を死なしてしまうという大失態を演じた。
その後、いわゆる逐電をしてこちらへやってきた。
法名を智定坊、「那智の智と定めるのお坊さん」
その智定房が、30日分の食糧とわずかの灯油だけを積んで出て行ったという資料がある。
時代も全然違うし、背景ももちろん違うし、渡海上人も違うし、考え方も違う。
その時によって違うというのは大切だが、少なくとも智定房は30日分、一か月の食糧と灯油を積んで行ったということは、やっぱり生きて、本当にその観音の浄土があるんだということを信じてそこへ行くんだということを信じて行ったのだと思う。智定房に関しては。
そうでないと、それだけの食糧なんか積まないだろう。
他の渡海上人たちは、どうなのかは分からないが。
石碑の前でのお話
※補陀落山寺には、歴代の渡海上人たちが補陀落渡海を行った年代が記録された石碑がある。
石碑では25回という記録になっているが、3回増えて28回。
根井浄先生。補陀落渡海研究の第一人者の見解。
すべてが補陀落山寺の住職だったのかどうかというのは分からないが、他府県から来た修験者もいたのではないか。
他府県から来た人には上人の称号がない。
一番若い方で18歳。
以上、約1時間に渡るお話をかなり圧縮してお伝えしました。
お話を聞いたのが2015年3月ですので、お話にさらなる進展があるかもしれないですね。
また機会を見てお話を伺いたいと思っています。
お役に立てましたら幸いです。
