いよいよ出発です。
今回は地図の赤丸の中のお話です。
おそらく、よほどのことがない限りこのコースは歩かないだろうと思いますので、備忘録も兼ねて詳しく数回に分けて記事にしようと思います。

自宅を出発して、田辺辺りで地図を忘れたことに気づき、逆戻り(笑)
紀伊路に限らずどこでもそうですが、初めて歩くところは絶対に地図が必要です。
ましてや入り組んだ街の中を歩くような今回については、殊更必要です。
・・・地図を持っていっても迷いましたから(笑)
山中渓の駅に到着しましたが、地図では一旦逆方向に歩き、紀州街道をぐるっと一周回ってもう一度山中渓駅に戻り、そこからスタートという形で示していましたので、正直にその通りに歩いてみました。

さすがは往時に宿場町として栄えただけのことはあり、旅籠跡などの説明看板が充実していて、これを全部読みながら歩くとかなりの時間を消費していまいますので、写真だけ撮って後から確認することにしました。
山中渓の駅を出て左に出て、本来ならば桜並木の方から歩くかと思いますが、「紀州街道」という道標が目に入ったおかげて、それに吸い込まれるように入り「逆走」しました。

道祖神(賽之神)

説明板より。
山中の南の入口に鎮座され、南からの邪神、疫病の入りくるのをさえぎり、また「蟻の熊野詣の時代から数多くの旅人の道中の安全を守ってこられた。
江戸時代紀州藩では、毎年十二月二十日に犯罪者や病人を、境橋(当地区の南、和歌山県との県境)より和泉の国に追放した。
当地では、「はての二十日のろばらい」といって戸を締め切り悪疫の退散を願った。
当時山中では被害が少なかったのは、賽の神のおかげであったといわれている。
そういえば、和歌山県と奈良県の県境にある果無山脈(はてなしさんみゃく)の「果無」の由来も、はての日(12月20日)に「ひとつだたら」という妖怪が出るので、「はての日にはひとつだたらを避けるために、人がいなくなる」から来たというものがあります。
昔、「はての日」とは特別な意味合いがあったのかもしれません。
山中宿本陣跡
写真はありませんが、この一角に本陣跡があります。
1619年、紀州藩主・徳川頼宣公が紀州藩主となり、参勤交代の折に休憩や昼食に利用されたそうです。
頼宣公が来られるような時は、3000人が炊飯、補給、清掃等の仕事にあたったそうです。
旅籠「とうふや」跡
案内板より
座敷は上中下の三段になり明り取りの天窓、内庭の七つの「へっつい」(かまど)、六枚に仕切られた腰高障子、また旅に必要な牛馬舎などは裏庭に残されていた。
この歴史の古い建物がなくなったのはいかにも残念である。
「とうふや」というのは豆腐とは関係なく旅籠の屋号である。











