【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩

布施屋駅に入り損ねて再び戻り、少し休憩をしました。
以前歩いた時は改装前でしたが、今回は改装が終わっていましたので非常にキレイでした。
ただし、トイレがあったかどうか、記憶が定かではありません。
改装されてなくなったのかもしれませんが、見当たりませんでした。

川端王子

説明板より

後鳥羽上皇や修明門院の 御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、吐前王子に参ったのち、日前宮の奉幣使として御幸の一行と別れ、日前宮に参拝しています。

その後、両人は和佐・平緒王子に参らずに、奈くち(菜口)王子社に参拝するのですが、川端王子は中世の参詣記には登場しません。
したがって、中世には、この王子社はなかったものと考えられます。

しかし、江戸時代初頭の頃には、二社の和佐王子社があったそうです。
一社は坂本(和佐王子)で、他の一社は元は熊野古道沿いの川端にあったのが、現在地に移されたといわれます。
この王子社が、川端王子と呼ばれるようになったようです。

明治時代に高積神社に合祀されて、建物は取り壊されましたが、地元の人たちがこの小祠を建て、今に残されているのです。

和歌山に入ると、定家のように随行していた人は、一旦「離団」し、日前宮に立ち寄り奉幣をするのがしきたりだったようです。
この時、定家は馬二頭と御幣を奉納しています。

そこで定家は日前宮の宮司の身なりを「浄衣、折烏帽子は甚だ凡なり」と、その粗末さに腹を立てています。

挙句の果てに「遥拝は、御幣をとりて拝舞」しなければならないと言われ、御幣を持って舞を踊らされています。

その御幣を受け取った社司は、黄色い衣冠をつけた神官を中門の中に入れて長い祝詞をあげ始めました。

それが終わると、今度は還祝(かえり)をあげ始めます。

そして、またもや御幣を両手に持たされ、踊らされました。

やっとの思いで日前宮を後にした定家でしたが、今度は路上で待ち受けていた満願寺の僧たちから「日前宮への御幣使は必ずこの寺に立ち寄り、御踊経(ごようきょう)の供物を上げていく」と言われ、寺に連れ込まれてしまいます。

仕方なく定家がお布施を包んで差し出すと、「これでは少ない」と言われる始末。

この僧たちの態度を見た定家は「すこぶる比興(ひきょう)なり」と怒りを顕にしています。
そして、僧たちがご祈祷にかかるのを尻目に、定家は癇癪を起こして寺を飛び出しています。

こういった定家の話、人間臭くて面白くないですか?

今回のお話は、こちらを参考にさせていただきました。

藤原定家の熊野御幸

 

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫に続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨

土手の道へ上がり、しばらくは土手を歩きますが、地図ではそこから一旦降りて川辺橋を渡るようになっています。
渡る前にはお地蔵さんが並んでいると書かれています。

確かにお地蔵さんはありましたが、この道も分かりにくかったです。

何とか川辺橋に着き、橋を渡りましたが、この橋が長かったです。

橋を渡れば「布施屋の渡し説明板」と地図には書かれていましたが、発見することができず。

そういえば、以前語り部さんに案内してもらった時に、渡しのことについて聞いたことがありました。

どんな話かは忘れましたが(笑)

吐前(はんざき)王子跡

ここも社殿や石碑などもなく、ただ説明看板があるだけなので写真はありません。

説明看板より

この王子社名は、藤原定家や藤原頼資の日記に見られます。

頼資の承元四年(1210年)の御幸随行の日記は、「修明門院熊野御幸記」と呼ばれます。
それによると、承元四年四月二十四日、修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄・水引で飾った船で渡り、「在崎」の行宮に着きます。
この在崎は、吐崎(吐前)の書き間違いと思われます。

吐前では、紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝するのが通例でした。

江戸時代には、この王子社は王子権現と呼ばれ、付近は森に覆われていたようです。

この案内板の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が祀られていましたが、現在は削平されています。
地元の人は、この土地を「オコードー」と呼んでいます。御幸道、あるいは御幸堂のことかと思われます

普通の説明板では、事実のみを書いたつまらないものが多いですが、この説明板は地元の方々がここをどのように呼んでいたかということまで書かれてあり、珍しく面白いです。

高欄とは、渡り廊下などの両側に設けられた、いわゆる柵のことです。

吐前王子跡からは道標に従って布施屋駅を目指しますが、布施屋駅に入る道が分かりにくかったです。

ここでも、入るべき道を通り過ぎ、そのまま先に川端王子まで来てしまいました。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪に続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧

中村王子跡

ここは「王子があったであろう」という場所に看板が立っているだけで、それらしきものは全くなく、現在は畑(田んぼ)になっています。
畑の写真を撮っても仕方ないので写真はなしです。

説明看板より

川辺から神波、楠本にかけて平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。

この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遥拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。

楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。

川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣の道すじが時代によって多少変わったためと考えられる。

中村王子社の次の王子社は、紀の川を渡って吐前王子社となる。

熊野古道のルートは、時代の変遷とともに微妙に変わっているということは聞いたことがあります。
那智にもそういったルートがあり、今私たちが歩いているルートは、時代が比較的新しいものだと聞きました。
また、この地域も紀の川の氾濫により、ルートが変更されたのではという考証もあるようです。
また、山中のルートではおそらく土砂災害などもあり、変更を余儀なくされたところもあったと思います。
現に、現在通行できない岩神峠なども、現代版「ルート変更」だと思います。

力侍神社

中村王子跡からしばらく歩くと、力侍神社が見えてきます。
いや、お社は道からは見えていないです。
長ーい参道があるからです。

説明看板より

川辺王子跡

熊野参詣道(熊野古道)は、和泉山脈の雄ノ山峠を越えて南下し、紀ノ川に至ります。


今日、平野部の参詣道の道筋は、雄ノ山峠から直線的に当地に至るルート、市内山口から西へ向かい上野に所在する別の川辺王子社跡推定地や楠本の中村王子社跡を経て当地に至るルートなどが伝えられています。

古代以降、紀ノ川は何度も氾濫したため、熊野参詣道のルートも変遷したと考えられています。

ここ力侍神社は、川辺王子跡推定地の一つとして和歌山県指定文化財(史跡)に指定されています。

・・・王子の説明になっていない(笑)

力侍神社本殿・摂社八王子社本殿(和歌山県指定文化財・建造物)

力侍神社は、もとは神波(こうなみ)村(現和歌山市神波)にあったものが、上野村(現和歌山市上野)八王子社境内に移されました。


その後、寛永年間に両社とも当地移されたといわれます。

両社殿は、細やかな彫刻や鮮やかな彩色など桃山期(16世紀後半)の建築様式を備えた、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、近世初期(17世紀前半頃)の建立当初の姿をよく伝えており、和歌山県県下における貴重な神社建築として、和歌山県指定文化財(建造物)に指定されています。

和歌山県神社庁には、八王子社が川辺王子だと記されています。
力侍神社

ここにトイレとベンチがあります。
ベンチですが、中央が割れていてちょっと座りにくかったです(笑)

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩に続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧

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【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
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【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦

山口神社からは粉河加太線に出て、しばらくは車がバンバン通る道を歩きます。
それから道標に従って細い道に入りますが、これが迷路のようで分かりにくかった・・・。

川辺(かわなべ)王子

説明看板より

藤原定家の日記、建仁元年(1201年)十月八日条に「川辺王子」、藤原頼資の日記、承元四年(1210年)四月二十四日条に「四橋」の王子が見られます。

四橋王子という名は、和泉国と紀伊国の境にあった堺橋から数えて、四番目の橋付近にあったことから、名付けられたのでしょう。

山口王子が三橋王子といわれたのも、このためだと思われます。

この王子は、「紀伊続風土記」によると、いつのころからか、八王子社と呼ばれるようになり、江戸時代には川辺村(和歌山市川辺)の力侍神社境内に遷座したとあります。

当地に残った旧八王子社を川辺王子跡と考証したのは、「和歌山県聖蹟」ですが、参詣道が不自然に迂回するため、川辺王子社は川辺村薬師堂付近にあったとする説もあります。

説明板にもあるように、参詣道が不自然に迂回しています。
ただ、説明板にある薬師堂がどこにあるのかはわかりませんが。

ここから中村王子社跡までの道で、ガッツリ迷いました。

分岐には基本的に導き石が埋めているのですが、中にはそれがないところもあり、そのまま真っすぐ進んでは間違っていることに気づいて戻るというのを繰り返しながら歩きました。
また、道路に埋めているので見落としがちです。
ずっと下を見て歩いているわけではありませんので。

地図には書いていませんが、シュロの木を植えている民家へは、一旦大きな道を横切らないといけません。
とにかく迷いに迷いました。

そんなこんなで、ようやく中村王子跡にたどり着きました。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥

中山王子からは再び踏切を渡って車道を歩きます。
しばらく歩くと何やら案内看板のようなものが見えてきました。
「お、これは分かりやすいな」と思ったのもつかの間・・・

こんな看板、警察以外必要か?(笑)
熊野古道の看板を立てておけよ(笑)

峠の不動明王

しばらくは阪和自動車道に沿ってダラダラと上りがありますが、その頂上付近に峠の不動明王があります。
道中安全のお地蔵さんは多いですが、不動明王って、ちょっと変わってますね。

山口王子

すみません、ここでは地元の小学生の遠足があったようでワチャワチャになっていたので写真を撮ることができませんでした(笑)
また行く機会があれば確認してアップします。
山口王子へは、車道から道標に沿って細い道を左に入ります。
何も考えずに歩くと見落とす可能性がありますのでご注意を。

山口神社

1つ目の「山口神社近道」と書かれた看板をやり過ごすと、2つ目の看板が現れます。
この看板に従って右に入ります。

その看板の後ろ、墓地の中に道標があります。

道標には

右 加太淡島神社道 
左 和歌山及紀三井寺?(草が邪魔でで読めない)

と書かれているようです。

しばらく道なりに歩くと右手に鳥居が現れます。
長い参道を歩いて境内に到着。
素晴らしいお社でした。

創建は定かではありませんが、おそらく平安初期には建てられたものだろうとされています。
秀吉の紀州攻めに遭い、宝物や書物のほとんどが焼けてしまったようです。

主祭神は伊久津比売命(いくつひめのみとこ)
すみません、結構神様の名前は知っているつもりでしたが、この神様がどのような神様なのかはわかりません。

山口神社については、こちらをご参照ください。
山口神社 和歌山県神社庁

山口神社を出ようと参道を歩いていると、先ほどの子どもたちと再び会いました。
ちゃんと挨拶をしてくれて可愛かったです。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧へ続く


【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤

中山王子

しばらく道なりに進み、踏切を渡ったところに中山王子跡があります。

説明看板より

かつて、京都から熊野三山までの熊野参詣道に、八十余ヶ所の王子社が祀られていました。

王子社というのは、俗に「熊野九十九王子」といわれる熊野権現の御子神を祀る社のことです。

中山王子は紀伊国に入って最初の王子社で、藤原定家の日記、建仁元年(1201年)十月八日条に、その名が見られます。

また、この付近は「雄の山中」といわれたところから、藤原頼資(よりすけ)の日記では「山中王子」と書かれ、承元4年(1210年)四月二十四日条に、修明門院が山中王子に参詣し、峠で雄山の人たちや無縁者等に、帷(かたびら)五、六十両ほどを、ふるまったと記されています。

江戸時代には、道沿いに、周囲三十六間の境内があり、王子権現社が祀られていたようですが、明治時代に春日神社に合祀され、旧跡も鉄道の敷設によって無くなりました。

また、「葛城第四番・入江之宿滝畑行処」という看板もあります。

1.葛木第四番経塚
   境谷村入口の桜地蔵経塚
   山中渓関所跡の経塚
2.中山権現
   滝畑村入口の中山王子(跡)
3.音無しの滝(不動の滝)
   滝崖面に不動丸カンマン字有り
   滝崖右上に八大龍王石祠有り
4.春日神社
   右 丹生明神
   主 春日大神
   左 熊野権現
5.金剛童子(南谷池)

葛木修験第四の宿「入江の宿」は、紀泉の国境で、祓い橋で身を清めて入峰の規則
葛木修験では極めて重要な位置です。
ありがたや菩提の入江にたどりきて
来しかた思いて心あらたに

宝照院鉄山 記

とあります。

カンマンとは、不動明王など各尊を一字で表した梵字のことをいうそうです。

入江宿滝畑の金剛童子についての説明もあります。

日本遺産葛木修験行所 葛木之峯西北位結界 

入江宿滝畑の金剛童子 

昔、役行者は葛木二十八宿の霊場を不動堅固に保つために葛木の八方位に各金剛童子を配し結界しました。

役行者が大峰山上ヶ岳で三世救済の金剛蔵王権現をご感得になられた際にその湧出岩から続いて十五体の金剛童子が出現になりました。

行者は葛木大峰の全霊域の清浄を保ち乱れぬように両峰にこの金剛童子を配置し両峰に結界を張られたのです。

大峰に八大金剛童子を、葛木には七大金剛童子を配して結界しました。

更には両峰の護法善神として大峰に八大龍王、葛木には七大竜王を勧請しました。

この葛木第三入江宿の滝畑には宿着童子が配祀され西北位に入り江を結界しています。
この故にこの峯域を入江の宿と称します。

さて、この金剛童子(宿着童子)は村置くのこの南谷池に鎮座します。
悠久の激動苦難の時代を超えてこの葛木一円を村落を諸悪鬼から堅固に守護しています。

宝照院鉄山 記

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦へ続く

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④

今回は地図上でこのあたりのお話です。

日本最後の仇討ち場

関所跡からほどなくして、和歌山と大阪の県境に入ります。
この県境に「境橋」という橋がありますが、そこが「最後の仇討ちの場所」とされているところです。

阪南ライオンズクラブの石碑より

安政4年(1857年)土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた。

大六の一子岩之助は、当時江戸に申し出て、いわゆる「あだうち免許状」を与えられた。

(安政5年)岩之助は、加太にひそんでいた三郎を発見し、紀州藩へ改めて、あだうちを申し出たところ、紀州藩としては「三郎を国払いとし境橋より追放するので、あだうちをしたければ境橋付近、和泉側にて、すべし・・・」と伝えられた。

文久3年(1863年)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ち受け、みごとにあだうちを果たしたとされる。

これは、日本で許された最後のあだうちであると伝えられる。

・・・紀州藩って、結構和泉にいろんな人を追放してますね(笑)

ところで、敵討ち(仇討ち)の制度って、ご存知でしたか?
敵討ち

江戸にはきちんと制度化されて法的にも許されていたんですよね。
しかし、1873年(明治時代)に禁止されました。
中には女敵討ち(めがたきうち)もあり、婚外の性交渉をした妻とその相手に対して行うことができたのだとか。
不倫が横行している今の世であればどうなっているでしょうね(笑)

葛城修験行場

説明看板があるのですが、残念ながら字がかすれて読めないところがありますので、読めるところを抜粋して要約します。

この場所は葛木修験の行者をはじめ、旅人もみなこの境川で身を清めてからお国入りをした、大事な行場の一つです。
ここには桜の大木があり、地蔵尊が祀られていました。現在は境谷村の入口に移されて祭祀されています。

これくらいしか判読できませんが、葛城修験の行場であることは間違いないようです。

平成30年に行者さんが訪れているようです。

葛城修験についてはこちらをご参照ください。
日本遺産 葛城修験

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥へ続く

【紀伊路】湯浅~紀伊内原

お天気にも恵まれたので、今日は湯浅~紀伊内原まで歩きました。
紀伊路最大の難所・鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)がありますが、峠までの上り道はすべて舗装されているため、意外と楽です。

前回は雨に祟られて「修行」の様相でしたが、今回は空気も乾燥していたので非常に気持ちよく歩くことができました。
前回の記事はこちら
【紀伊路】紀伊宮原駅~紀伊内原駅

今回は道中の花や王子跡などの説明看板を読みながら、ゆっくりとこの区間の16.9kmを歩きました。

一人で歩く時はどうしてもガンガン歩いてしまいますが、こうやってゆっくりと道中の景色は物語を読みながら歩くこともいいものです。

この季節はミカンやジャスミンの花の香りが古道を漂っていました。
また、イバラの花も一度匂いを嗅いでみてください。
本当にバラの香りがしますよ。

紀伊内原に到着後、近くのカフェ・コンペイトウでお茶をしてから帰りました。
ランチのオムライスも美味しいですが、バタートーストは当たりでした。
正方形のトーストに厚切りバターが乗っていて、お好みでメープルシロップをかけて食べます。
一度お試しを。

帰りに少し寄り道をし、煙樹ヶ浜でしばしまったりしました。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③

地図では赤丸の場所にあたります。

旧庄屋跡

説明看板より

この古い屋敷は、江戸時代中期の建物(築後約270年。一部補強改修)で、当時の庄屋の屋敷である。

広い土間、数多くの部屋、太い梁の木組、土蔵、煉瓦づくりのアーチ型の裏門、広い庭園など泉州屈指の屋敷である。

庄屋は村の統率者で、組頭、百姓代と共に村方(むらかた)の三役で、その最上位である。

郡代、代官の命を受けて村の統治にあたり、村の雑事から年貢の割当てなど責任のある仕事にあたった。一般に関西では庄屋といい、関東では名主と呼ばれていた。

築270年とは驚きです。
昔の日本建築の技術の高さをうかがい知ることができます。

ほこらさん

説明看板より

古老の話では、昔このあたりに尼寺がありここの墓の三基は尼僧の墓である。
他の一基はこの辺一帯は湿地で蛇が多く住んでいたので蛇塚であるといわれている。

新道ができるまでは、土壁の西に南向きに建てられていたもので、土壁の南の小道は八王子神社(下之宮)への参道であった。

村の人たちは親しみをこめて「ほこらさん」とよんでいる。
古くからお参りすると、健康で頭が良くなると言われていて、いまでも花や線香が立てられ、お参りが絶えない。

おそらく、立派なもの三基が尼僧のものでしょうね。
お参りするのを忘れました(笑)

ここから再び山中渓駅に戻ってきました。
先に進みます。

山中関所跡

説明看板より

この地は、熊野街道(熊野古道)の山中関所跡地で東西から山がせまり、間に川が流れ、関所としては最も良い場所である。

南北朝時代に岸の和田氏の一族、橋本正高氏がここに関所を設けて関銭を課した。

応永2年(1395年)長慶天皇が河内の観心寺に法華堂の造営のために、この山中に関所を料所とされたとの記述がある。

この関所で課せられた関銭を前記の法華堂の造営のためにつかったものとおもわれる。

村の人は、ここを「ほけんとう」と今でも呼んでいるが「ほっけどう」が「ほけんとう」にかわったものであろうと云われている。

なお、この関所は、江戸時代に入って廃止された。

写真の石碑には

奉納大来妙典 永禄十二年 六十六部 浄泉 供養所 九月吉日 敬白

と刻まれています。
関所跡と関係があるのかどうかはわかりません。

六十六部とは、今で言うところの都道府県のことで、その霊場に法華経の写経を納めて回る行脚僧がいました。
66ヶ国すべてを回った記念に「六十六部廻国塔」を建てることがあります。
大辺路富田坂に入る手前の富田集落にも廻国塔があります。
この碑が廻国塔かどうかはわかりませんが。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤へ続く

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②

地図では赤丸の場所にあたります。

山中神社(馬目王子)

承歴3年1079年8月8日、澤四郎善眞が紀州の岡崎より信仰する八王子神(あまのほひの命)をもって当山中に移り住みこの地におまつりした。

後日、神のお告げにより当地の西北にある高山の頂上に社(八王子神社上之宮で現在は跡地)を建てておまつりした。

この山中神社には、上之宮より移記した八王子神(本地十一面観音)をおまつりする社と、馬目王子(熊野古道九十九王子の一社)の社とがある。

元和3年(1613年)ごろ、この観音は盗難にあったが、いつのまにか元の社に返されていたと言われている。

山中神社 由来記

八王子社 祭神(天忍穂耳尊)
馬目王子社 祭神(後白河上皇、磐長姫命)

◯八王子社(本地十一面観音像)

承歴3年(1079年)8月8日
澤四郎善眞 紀州岡崎より八王子神(天忍穂耳尊)の神像袖内に蔵し山中に来たりて祭   祀す

承歴4年(1080年)11月18日
北西高山の頂に八王子上の宮建立

永長元年(1096年)11月8日
八王子神分霊を麓に下の宮創建
山中神社の起源で善眞の子孫が永代神主となる

◯馬目王子社(熊野古道九十九王子)

大阪最南端の王子社で山中部落入り口王子原に祀られていた。
足神さんとも名高く大きな草鞋が奉納され付近から清水が滴り
法皇上皇はじめ熊野参詣者の遥拝所兼休憩所であった。
明治42年(1909年)神社合弁合祀の際社家三澤家が
当神域に遷しいしの禿蔵に祀る。王子原の跡地は
昭和5年(1930年)阪和線開通時に平地化した。

◯八王子社観音堂(奥の院)

応徳元年(1084年)2月18日
澤四郎善眞岡崎観音寺(十一面観音像)勧請
奥の院建立神宮寺形式で八王子神祀る

元和3年(1617年)
観音像盗難-老僧にて返される

明治5年(1872年)
檀那寺に勧請す

明治32年(1899年)正月
観音堂債権さる

昭和46年(1971年)2月
現観音堂三澤家邸内善眞碑傍に建立

八王子神とは
天照大神(三女神)
素戔嗚尊(五男神)
八皇子の代表神天忍穂耳尊を祭神とす

歴史のあるお社ですね。
ここでの「八王子」は天照大神と素戔嗚尊の御子神のことを指していますが、ホツマツタヱではこの国をお造りになった国常立尊の8人の子、ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの8人を指します。
現在の地名である「八王子」も、ここから来たという説もあります。

ホツマツタヱに登場する8人についてはこちらをご参照ください。
【お勧め書籍】古代史ホツマツタヱの旅① クニトコタチ

いときょうさんの著書・古代史ホツマツタヱの旅もお勧めです。