
国譲り第二弾です。
オホナムチが住む出雲に到着したフツヌシとタケミカツチは、剣を突き立てて
「身誇りて 斯く道を ならさんと 我ら仕ふぞ その心 ままや否やや」
※慢心して臣(トミ・政を行う階級の名)の身分を超え、国家を危うくする道を歩んでいる汝を平定して来いと、天(国政議会)が我らを遣わしたのだ。このまま反抗を続けるのか、それとも服従するのか答えよ。
と迫ります。
オホナムチはまったく身に覚えがなかったので驚きます。
そこで息子のコトシロヌシであるクシヒコ(コトシロヌシとは役職の名で、オオクニヌシの補佐のような役)に相談することにしました。
クシヒコは父の慢心行為を知り、父に諌言していましたが聞き入れられず、美保関で隠遁生活をしていました。
この時の諌言の顔が笑顔だったことから「ヱミス顔」と呼ばれ、後に「恵比寿さん」として信仰されるようになります。
父から遣いが来た時、クシヒコは釣りに興じていました。
そこで、父からの遣いに出雲を出る旨を伝えます。
しかし、そこに「待った」をかけたのが、オホナムチのもうひとりの息子・タケミナカタでした。
そこで、タケミカツチと力比べをしますが、タケミカツチの圧倒的な力に恐れをなし、信濃まで逃げ、諏訪湖のほとりで降参します(どこまで逃げとるんや・笑)
帰ってきた遣いから息子の言葉を聞いたオホナムチは、出雲を出る決意をします。
ようやくクシヒコの諌言が聞き入れられたのです。
出雲を出たオホナムチ一族(国司180人とも、180世帯とも)は、アソベ(津軽)に行き、開拓を任され、アソベの地も大いに発展します。
一方、息子のクシヒコは、七代目タカミムスビ(役職名)から、オオモノヌシの役職に任命され、ヨロギの地と宮(滋賀県高島市安曇川町)を賜りました。
記紀における二人の行方
古事記では、コトシロヌシは「『かしこまりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう』と言って、その船を踏んで傾け、天の逆手という特殊な柏手を打って船を青紫垣(あおふしがき)に変えて、その中に隠れました」と書かれています。
日本書紀では「『今回の天つ神の仰せ言に父上は抵抗されぬほうがよろしいでしょう。私も仰せに逆らうことはいたしません』と言って、波の上に幾重もの青紫垣を作り、船の側板を踏んで海中に退去してしまわれた」と書かれています。
また、父・大己貴神も、同じような台詞を言ったあと「隠れた」としか書かれておらず、その後どうなったかは書かれていません。
しかし、ホツマツタヱでは前述の通り、オホナムチは津軽に行き、出雲と同じように成功を収め「ツカルキミ」という称号を賜っています。
出雲は独立国家だった?
「出雲は独立国家」という考え方が、今は大勢を占めているようですが、ホツマツタヱの中では朝廷の中の一つの地方行政機関として描かれています。
いち地方行政が、まるで一つの国であるかのような振る舞いをしてたので、朝廷がこれを看過することができず平定に動いたというのが、ホツマツタヱで書かれている内容です。
そもそも、追放されたソサノヲが、熊野から琵琶湖経由で出雲に行き、そこで結ばれたイナダヒメとの間に子をもうけ、その子であるオホナムチが、ソサノヲが築いた出雲の発展を引き継いだのですから、ホツマツタヱではきちんと筋が通っています。
