アマテルカミとトヨケカミ

伊勢の神宮に祀られているアマテルカミ(天照大神)とトヨケカミ(豊受大神)の関係ですが、一般にトヨケカミはアマテルカミの衣食住を司る神とされています。
しかし、ホツマツタヱでは、トヨケカミはアマテルカミの師であり、祖父でもあられた方と記載されています。
そして、アマテルカミの子孫からは天皇が生まれ、トヨケカミの子孫からは、天皇をお守りする人々が輩出されます。
藤原氏、大伴氏、物部氏、ヤタカラス(オオチ)などがその方々です。
トヨケカミの子孫(ひ孫)にはフツヌシ、その弟にタケミカツチがいますが、彼らはアマテルカミの家臣であり、ハタレの乱において、アマテルカミとともにこの乱を鎮圧しています。
この功績が讃えられ、フツヌシはアマテルカミから「カトリ」という名を賜り、それが香取神宮の始まりとなっています。
「タカミムスビ」は役職名
アマテルカミの師、トヨケカミですが、タカミムスビとも言われていました。
古事記では「高御産巣日尊」、日本書紀では「高皇産霊尊」とされている神様です。
しかし、ホツマツタヱでは「タカミムスビ」とは役職名であり、トヨケカミはその5代目にあたると書かれています。
タカミムスビは7代続き、その後は「ヒタカミノカミ」と名前が変わり、14代続きました。
このように、功績のあった人には「讃名(たたえな)」が贈られていましたので、同じ人物でもいくつも呼び名があったわけです。
熊野古道にまつわる有名な話では、野長瀬一族が護良親王をお助けしたことから、「横矢」という名前を賜ったというものがありますので、こういったことはよくあった話だったのでしょう。
神武東征の所以

ホツマツタヱに記載されている神武東征の所以は、記紀と内容が異なります。
そもそも、なぜ、神武天皇は日向から橿原に向かったのでしょうか?
現代語古事記・竹田恒泰 著 には、
「一体どこに住めば、平和に天下を治めることが出来るのでしょうか。東に行ってみませんか?」
と、神武天皇が申し上げたと書かれています。
日本書紀には
「天孫が降臨されてから百七十九万二千四百七十余年となる。しかし、遠いところの国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土の翁に聞くと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業を広め天下を治めるに良いであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降って来た者は饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都を作るに限る」
と神武天皇が言うと、諸皇子たちも
「『そのとおりです。私たちもそう思うところです。速やかに実行しましょう』と申された」
と書かれています。
ホツマツタヱではどうでしょうか?
ニニキネの時代には、国の指導者であるアマカミが二人いました。
ホノアカリとニニキネです。
二人は兄弟でホノアカリが兄でした。
ホノアカリはアスカの宮(奈良県明日香村)に居を構えていました。
ホノアカリは世継ぎとなる子に恵まれなかったため、ニギハヤヒを養子として迎えていました。
このニギハヤヒに仕えていたのが、ナガスネヒコです。
ナガスネヒコは、ホノアカリのこともあったので、ニギハヤヒに世継ぎの子が生まれることを心から願っていました。
しかし、一向に子を授かる様子がないことから、ナガスネヒコは「ヨツギフミ」を移し盗むという事件を起こしてしまいます。
「ヨツギフミ」とアマカミにしか与えられない重要なフミでした。
カンヤマトイハワレヒコは、次のアマカミになることが決まっていたのです。
この事件を知ったカンヤマトイハワレヒコが、ヒフカ(宮崎県日向)から兵を挙げました。
・・・どうでしょうか?
「天下を治める」という目的は同じですが、中身がまったく違います。
どれが説得力があるかはみなさんの判断にお任せしますが、ホツマツタヱには、こうした人間臭い話がたくさん残されています。
このことは、記紀に登場する神様は、ホツマツタヱではすべて実在した人物として描かれているからだと思います。
いや、むしろ反対で、ホツマツタヱでは、実在していた人物が、記紀では神格化されたということでしょう。
ちなみに、現代語古事記は、初めて古事記を読むなら一番分かりやすく書かれているので、まだ読んだことがない方にはお勧めの一冊です。
