阿須賀神社

創建は皇紀238年とされています。
皇紀238年というと、今から約2400年前ということになりますので、創建は熊野三山よりも古いということになります。

主祭神は事解男命(ことさかおのみこと)であり、古事記・日本書紀ではイザナギ・イザナミが仲違いの誓約(うけい)をした際に現れた神です。
ホツマツタヱでは二人の仲人をされた神様です。

仲違いと仲人・・・役割が全く違いますね。

弥生時代の土器が境内以外からも出土したことから、そのころから大きな集落があり、建物はなかったにしろ、この場所に宗教的な祭祀場所があったと考えられています。

境内からは10基の竪穴式住居跡が発見され、そのレプリカがありましたが、2014年、老朽化が原因で撤去されました。

古来は白木で、朱塗りになったのは1952年(昭和27年)、米軍の空襲により焼失して以後。

中右記(1109年)には「参阿須賀王子奉幣」との記述があり、九十九王子の一つとしての扱いを受けていました。

神倉に降り立った熊野の三神は、その後阿須賀の森へと移り、熊野川向かいの貴祢谷(きねがたに)に移り、やがて家津御子は本宮へ、速玉と夫須美は新宮へ鎮座したと伝わります。
まあ、この熊野権現遷座の話は、「熊野権現垂迹縁起」によるものなので、真相のほどは定かではありませんが。

いずれにせよ、歴史が相当古いお社であることは間違いないようです。

新宮へ遷座の際、鵜殿の住民が諸手船(もろたぶね)で先導したといい、それに因んで速玉大社に伝わる御船祭が執り行われ、現在においても鵜殿の氏子が先導を務めています。

懸仏(かけぼとけ)

現在でいう絵馬のようなもので、願いを込めて神社に奉納していました。

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で境内の大木が倒木した際、その地下から懸仏200体以上が良好な保存状態で発掘されます。

その半数が本地仏の大威徳明王(だいいとくみょうおう・勝利の仏)ですが、そのほとんどが元寇の時に作られたものとされ、戦勝祈願で納められたものではないかと言われています。
ちなみに、上皇・法皇として最後に熊野にいらした亀山上皇は、国難である元寇の年(弘安の役・1281年)に、伊勢の神宮にお参りされています。
奇しくも、この年というのは亀山上皇が熊野詣をされた年ですので、伊勢と熊野両方に戦勝祈願にいらしたのでしょうね。

阿須賀神社が火事で焼失した際に、傷んでしまった懸仏を埋納したのではないかと言われています。

このような数・保存状態で発掘された例は日本に3例しかないそうです。

大威徳明王

熊野の神々は神仏習合であることから、神様の名前と仏様に名前をお持ちです。
神様の名前が「事解男命」ならば、仏様の名前は「大威徳明王」です。
この「大威徳明王」という仏様はどのような役割をされているのでしょうか?

西宮司の見解として

◯戦いに強い神とされる

◯西の如来を守護する役割

西の如来とは本宮の阿弥陀如来。

本宮との関係性があるのかどうかは不明ですが、阿須賀神社の本地仏はそういった意味で祀られたのではないか?ということです。

大威徳明王の姿は、水牛に乗り、6つの顔、手6本、足6本の恐ろしい形相をしています。

水牛に乗っているということに意味があり、陸はこの世、水の中はあの世を表すそうです。

つまり、あの世とこの世行き来する特殊な力を備えているということになります。

蓬莱山

阿須賀神社の御神体で市の天然記念物。

神仙思想に説かれる三神山の一つで不老長寿の仙人が住むとされる山。

三神山とは、中国の古伝説で、東方絶海の中にあって仙人が住むという蓬莱 (ほうらい) 方丈瀛州 (えいしゅう) の三つの山。
神仙思想についてはこちらを参照してください。
神仙思想

なぜ、この地なのか?

この場所は古来水葬をしていた場所であり、遺体を熊野川の河口から遺体を海に流す「水葬」の場所だったそうです。

阿須賀神社から約100m下流に位置する宮井戸遺跡は、古来地元の人々から「あの世の入り口」とされていました。

これは、陰陽思想による陰と陽(生と死)であり、水にも陰と陽があり、川の水は飲用可能な水で陰に当たり、禊をする飲用不可な海水は陽とされる。
この場所は、真水と海水が入り交じる場所、すなわち陰と陽が合わさる「中庸」を示す場所でもあり、また、そこに蓬莱山という「神奈備(かんなび)」があります。

阿須賀神社はそのいずれの条件も満たす場所であったため、この地に建立されたのではないか?と言われています。

神奈備の定義

さて、神奈備にも定義があるそうで、

◯そんなに高い山ではなく、ちょうどお椀を伏せたような形をしたもので、神の降りる小山

◯山深いところにあるものではなく、人里に近いところ、または人里の中にあるところ

だそうです。
陰と陽が交わる場所に神奈備があるという条件が揃っているところは、日本でもあまり例がないのではないか?という学者の説があります。

本宮(もとみや)

子安の宮の隣、階段が5段の上に石碑があります。

その場所が阿須賀神社の本宮とされ「カミオンベ(上御備)」といいます。

上オンベに対し、鬼門に当たる場所に下オンべがあります。

禁足地であった蓬莱山に毎回お供え物をするのに入るわけにはいかないので、オンベにお供え物をし、祭事を行っていたそうです。

天台烏薬

境内には天台烏薬の木があり、これも市の天然記念物に指定されています。

天台烏薬とは、秦の徐福が不老不死の霊薬を求めてこの木を探しに来たという「建前」があります。

ただし、天台烏薬は江戸時代に中国から渡ってきたものです。

阿須賀稲荷神社

江戸時代の地図では「三光神(さんこうしん)」と記されています。

玉置神社の書物の中に、玉置神社境内の三柱神社は阿須賀稲荷神社の御霊を神迎えしたと記されています。

日本の稲荷神社の総本社・京都の伏見稲荷も、元は三柱神社から御霊受けしたという説もあります。

子安の宮

安産を願う産育信仰のお社です。

徐福の宮

徐福を祀っています。
徐福伝説についてはこちらを参照ください。

秦の始皇帝と徐福、その時代背景を読み解く

神武天皇の聖蹟(せいせき)

皇紀2600年を記念して昭和15年に建立された碑です。
全国各地でこの碑の建立について名乗りを挙げましたが、新宮は神武東征の伝説が残っている場所だということで晴れてこの碑が建てられたのだとか。

この場所が神武軍の駐屯本部になっていたそうです。

祖元禅師(仏光国師)

鎌倉時代に渡来し、建長寺の住持となり、円覚寺を建立した僧。
彼が残した詩には

「徐福先生は薬を採りに行かれて未だ帰らず、その後、故国の山河は幾度か戦火に汚された。今日は一香を遠くからですが献ずることにします。老僧もあなたと同じように秦を避けてやってきました」

と書かれています。

境内の説明看板にも対訳が書かれていますが、結構盛って訳されていますので、こちらの訳の方がしっくりきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA