
先日の研修での備忘録と追加情報の提供も兼ねて記事をアップします。
研修の直後ということもあり、一定期間パスワード保護とさせていただきます。
阿須賀神社については日を改めてアップします。
高野坂
標高が50mほどの高台の野地を越えるため「高野坂」と呼ばれています。
中世までの熊野参詣は、本宮、速玉と参り、海岸線の高野坂を経て小狗子(こくじ)・大狗子(おおくじ)を通り、那智へと向かい、復路も同じルートをとるのが常でした。
中右記(1109年)には藤原宗忠一行が、速玉・阿須賀神社へと参った後、この付近を通ったことが記されており、宗忠は海岸線の景色の素晴らしさを絶賛しています。
距離は1.5km、普通に歩けば45分で歩き終えますが、原生林、石畳、竹藪など変化に富んでおり、普通の中辺路ルートを歩くよりも趣があります。
地蔵と六字名号碑
六字名号碑が地蔵をはさんで両端にあります。
大きい方が大阪の人、もう一つは近江の商人が建てたとされています。
建立の年代はそれぞれ1685年と1686年。
中央の地蔵は1672年で松坂の人が建立。神倉神社の下馬の標識も同じ年に建てられています。
当時の古道は浜伝いに歩いたため、巡礼者は白い丸い石を浜から拾ってきて願かけをしたそうです。
神社でいう絵馬のような意味合いですね。
那智黒石は、当時きれいな石をお土産として持ち帰られていました。
御手洗
地蔵の下の海岸に、3つのたらい状の窪みがあり、干潮時に見ることができます。
名前の由来ですが、神武天皇がこの浜に到着された際、戦で血に染まった手をそこで洗ったという故事に由来するとか、たらいに似た窪みがあるからとか、当時の旅人は磯伝いに歩いたところから「水伝い」から転訛したからとか言われています。
五輪塔
道中に五輪塔の看板があります。
そこから約15分で五輪塔に行くことができます。
1628年、心鏡房海宝大徳のもので、彼が修行をしていたので、その供養塔ではないかと言われています。
狼煙場跡があります。
孫八地蔵
佐野の庄屋、角家が彼らの子孫の繁栄を願って建立。
江戸初期の建立。
「孫八」とは角家の屋号です。
屋号
昔は名字がなかったため、同じ名前の人物が集落で多くなりました。
そこで、家ごとに名前を付けて呼び合うようにしました。
そうして「〇〇屋の三郎」のように、屋号を合わせて呼んで区別するようになりました。
現在でも、私の出身の湯崎地区などでは地元の住民同士の間では「冨田屋」「桶屋」「千代屋」など、屋号を使って呼んでいます。
金光稲荷神社
きんこういなりじんじゃ。
社伝によると、「1793年、佐野組大庄屋石垣徳兵エ」の創建だそうです。
ここは三輪崎エリアの鬼門(北東)に当たるため、この地に稲荷を勧請したとそうです。
このように「鬼門除け」に稲荷神社が建てられることがあるらしいです。
鳥居前の看板には「ここに神棚を持って来ないように」という注書きがあります。
これは、当時この近くの三輪崎集落は漁業(特に捕鯨)の盛んな地域でした。
昔は、大漁や安全祈願のために各家庭に神棚が祀られていましたが、現在の欧米様式の建築様式が主流になってからというもの、家庭に神棚を祀るスペースがなくなってしまったので、この神社に神棚を置き去る住民が跡を絶たなかったそうです。
その行為を戒めるためのものです。
鯨供養塔
刃指(はざし)が、自分たちが仕留めたクジラを供養するために建てたもの。
三輪崎の鯨方の刃刺が建立したのではないかと言われています。
裏面には鯨の尾びれが海面から突き出ている絵が掘られていると言われていますが、摩耗が激しく確認しづらいです。
刃刺と捕鯨についてはこちらをご参照ください。
聖護院休憩所跡
金光稲荷神社の鳥居前あたりに、石垣跡と休憩所があります(現在使用禁止)
そこに、かつては修験者たちの休憩所があったそうです。
聖護院(しょうごいん)とは、京都左京区に本山を置く修験寺院。
1090年、後白河上皇熊野参詣の折、修験者として名高かった常光院の僧・増誉(ぞうよ)が先達を務め、その功績を認められ聖護院を建立しました。
以後上皇の熊野参詣には聖護院の歴代修験者が先達を務めたそうです。
聖護院の修験者らが奥駈けをする際にここを利用していたとされています。
