
今日も小名木善行さんのお話のまとめです。
人口激減
14世紀(1348年頃)、当時のチャイナ・元ではペストが大流行し、人口1億2千万人いた人口が2500万人にまで減少するという事態が起こりました。
ペストはユーラシア大陸やヨーロッパでも大流行。
人口の約6割が亡くなったそうです。
元でこれほどまでに人口が減少した原因は2つあります。
一つはペスト。もう一つは飛蝗(ひこう)、いわゆるバッタの大群が作物を食い荒らす災害です。
ペストは気温の高い南部、飛蝗は北部で起こりました。
元が滅んで次に明が興ると、またもや同じ理由で9500万人いた人口が2500万人にまで減少します。
明のみならず、ヨーロッパでも同じことが起こってしまいました。
しかし、日本ではこの時期に大した影響はありませんでした。
その理由が、古事記・日本書紀(以下「記紀」)に書かれています。
崇神天皇の功績
時は2500年前、第10代・崇神天皇の時代。
日本では疫病が大流行し、古事記では「人口の大部分が失われた」と書かれ、日本書紀では「人口の半数以上が失われた」と書かれていています。
日本でも、諸外国と同じように、はるか昔に疫病が流行していたのです。
東大のDNA研究チームの研究で、約2500年前に当時の人口26万人が8万人にまで減少したという事実を突き止めました。
この事実は、記紀の時代とぴったり合います。
東大の研究チームは、「自然災害によるものだろう」という曖昧な見解しか示していませんが、ちゃんと記紀には疫病が流行したと書かれています。
当時はもちろん、ウイルスの存在など分かりませんので、崇神天皇は「神々の怒りに違いない」と思い、各神社に神々のお伺いを立てるよう命じます。
各神社からは「◯◯の神様を◯◯に移しなさい」という「神託」が上がってきました。
しかし、当時も神社はたくさんあったことから収拾がつかなくなります。
そこで、各神社からの話をまとめて上げてくるように、天津社(今で言う官幣大社)・国津社(各都道府県の代表の社)・市町村の代表の社・氏神の社と、神社を4階層に分けました。
それと同時に、手水舎の設置を義務付け、手と口をすすぐようにしました。
当時、人々が何かあるときに集まって話し合うところは神社でした。
今は公民館がありますが、あれは戦後GHQによってもたらされたものです。
GHQは、とにかく神・天皇と民衆を切り離したかったのでしょう。
このことがきっかけとなり、8万人にまで減少していた人口が、一気に67万人にまで増えました。
手水舎での「禊」の結果、疫病がなくなったのです。
以来、崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれるようになりました。
「都」の意味
神武天皇は、始めて奈良の橿原に都を置きました。
今から約2680年前です。
当時、ある地方で飢饉が起こり、米が取れなくなった場合、余裕のある地方から米を供給できる仕組みを作る必要があるとお考えになりました。
そのためには、公正な米の融通を確保するための機関が必要だったのです。
これが都の始まりです。
「都」とは「宮の子」という意味があるそうです。
こうして、自然災害が起こった場合は都のおかげで飢饉が起こっても耐え凌げるようになりましたが、疫病に関してはいくらお米があっても人々は死んでしまいます。
これを我が国では、第10代・崇神天皇が見事に克服したのです。
今でも残る「疫病対策」の習慣
日本は高温多湿な気候環境であるため、疫病対策が生活習慣にも溶け込んでいます。
挨拶にしても、西洋にあるハグや握手という習慣もなく、日本では畳一畳分(約1.8m)空けてお辞儀をするだけです。
1.8m離れれば、お互いの唾液が飛ぶこともありません。
さらに、禊、お風呂の習慣を持ち、拭き掃除を励行します。
歴史に学ぶことの重要性
同じように疫病が大流行した西洋でも、同じように疫病対策の習慣があってもいいようなものですが、残念ながらありません。
それは、王朝が代わり、歴史が途絶えているからだと、小名木さんは言います。
これに対し、日本では過去の歴史を学んだことを全部活かしながら、現代まで一貫してつないでいます。
疫病対策一点においても、他国と大きな違いとなって表れています。
歴史を学ぶこと、そして、一国であり続けることの重要性を改めて学ぶことができました。
一国であり続けてこられたのは、我が国には天皇がいらっしゃったからだということは揺るぎない事実なのではないでしょうか。
・・・今、神社では「手水の停止」を掲げているところがありますが、むしろ逆効果ではないの?と思うのは私だけでしょうか?
