口述試験

3月24日(日)高野・熊野地域通訳案内士の口述試験が実施されます。

みなさん、準備は万端ですか?

今日は、試験の内容をお伝えすることはもちろんできませんが、「ここは注意いたほうがいいよ」とか「こういうテクニックもあるよ」といった内容をお話しようと思います。

ヤマを張らない

「これは出るだろう」と予想することは禁物です。

外れたら身も蓋もありません。

なにを隠そう、私はこれで失敗しました(笑)

ヤマを張ったものがひとつも出なかったからです。

あたふたしながら何とかしゃべることはできましたが、もう生きた心地がしなかったですね。

できる限り穴をなくす

ということは、「ヤマを張らない」=「できる限り穴をなくす」ということになります。

結局、「可能な限り準備を整える」ということになりますが、それ以上でもそれ以下でもありません。

できる限り「ベタなところ」はおさえておく必要があります。

スポットでいうと、あれとあれとあれとか、これとこれとこれですよね。

何のこっちゃ。

ということは、マイナーなところを勉強してもほぼ意味がないということになります。

沈黙は最大の敵

これはもう最悪です。

ガイドとしてもアウトですよね。

「答えられないことだったら仕方ないじゃないか」という方には、「とりあえず何でもいいからしゃべってください」とお伝えします。

でも、それが「I don’t know.」だけでは沈黙と同じです。

もし、あなたが持っている話で得意なトピックがあり、聞かれた内容となんとかつなぐことができればその話題に持っていくことができます。

たとえば、「壇上伽藍について話してください」と聞かれ、そのことをまったく知らないとします。

「壇上伽藍についてお話する前に、藤原秀衡が建立した滝尻王子の七堂伽藍についてお話をします」

とするわけです。

かなりの力技ですが、まったく答えないよりは断然マシです。

とにかく黙ってしまわないように心がけましょう。

ただし、まったく脈絡のない話をつなぐことはできませんので、ご注意を。

状況は自分で作ってしまえ

「答えられなかった」「沈黙してしまった」という受験者で多いのが、「いろいろ考えすぎてしまうこと」です。

「この状況はどういうことなんだろう?お客様は何人で、どこの国で、体力はどんな感じで、ええっと、ええっと・・・」となるようです。

なので、もしそういった指定がなければ自分で勝手に想定してしまいます。

「お客様はオーストラリアの4人組で、体力にあまり自信がなくて、旅行会社経由の申し込みで」といった具合です。

「これは試験だ」と割り切って「実際のガイドではどうこう」という考えは一切捨ててしまいましょう。

だって、経験のない方にそれがわかるわけがありませんから。

試験官も、それを求めてはいないはずです。

肝心なのは「質問に対してどのように対処するか」です。

あなたの考えを率直に伝えましょう。

それが間違っている、いないというところは、ガイドになってから学べばいいことです。

構成を考える

たとえば、スポット説明ではあらかじめ話す内容の構成を考えます。

そして、そこに説明文をあてはめていきます。

これをどのスポットにも当てはめてパターン化すれば、暗記も簡単になる上に、万一記憶が飛んでも、次の構成部分から話すことができます。

あまりここでそのコツを言ってしまうと、現在受講している方に申し訳ないので詳しくはお伝えはできませんが、口述試験対策講座ではそういったことを詳しくお伝えしています。

とにかく、自分がガイドだったらどうするか?という視点で考える

肝心なことは、とにかく自分がガイドだった場合にどう考えるか?です。
質問の内容はもちろん言えませんが、ガイド中のあらゆる場面を想定してその対策を言えるようになっておけばいいと思います。

他に何かお伝えするべきことがあれば、またアップしますね。

では、頑張ってください。

新しい電子書籍を出版しました

久しぶりの更新です。

この時期はガイドも閑散期に当たるので、ガイドとしての出動はあまりありません。

だからといって何もしていなかったわけではなく、総会の資料作りやイベントの段取り、確定申告の書類作成、年末調整など、事務の仕事でなかなかこちらに手が回りませんでした。

なにせ、今年初めてすることが多く、分からないことだらけだったので余計に時間がかかりました。

来年はもっと簡単にできると思います。

さて、そんな中、隙間時間を見つけて新しい電子書籍の出版に向けて準備をしていましたが、ようやく完成しました。

「ガイド報告書回顧録2015年版」です。

Mi-Kumanoでは、ガイド業務終了後に「ガイド報告書」を提出しなければなりません。

ガイド報告書についてはこちらをご参考にされてください。

ただ、提出用のガイド報告書は、おおまかな報告なのであまり細かいところまでたくさん書く必要はありません。

そこで、ガイド報告書に書き切れなかった細かいところや、ガイドをするにあたっての注意点、小話などを盛り込み、より広く、深く掘り下げた内容を加えました。

これからガイドを目指そうとしている方や、すでにガイドとして活躍されている方から旅行会社様まで参考になる内容になっていると思います。

ぜひ、ご一読を。

電子書籍を改訂しました

「熊野古道英語ガイドが行く」の「総集編」「準備編」「体験談編」に若干の変更・加筆をし改訂しました。

興味のある方はぜひ、右の書籍をクリックしてご購入ください。

今後、定期的に、気づき・訂正・加筆などをし、随時改訂していきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

ガイド体験談(救急隊編)

シンガポールからお越しのお客様で、滝尻~高原をご案内していた時のこと。

田辺駅でミートをし、車中は楽しくお話をしながら滝尻に到着。古道館で熊野古道について説明をしたあと、いざ出発。

いつものように最初の急坂を説明がてら休憩を入れながらご案内していました。

不寝王子(ねずおうじ)を過ぎ、道標1番を過ぎたあたりから、ご主人のペースが急に落ち始めました。

本人は「大丈夫」とおっしゃっていましたが、さらに歩くペースは落ち、しまいには木につかまりながらよちよち歩くようになったので、歩くのを止めさせました。

冷や汗とともに、胸が締め付けられるような感じがするとおっしゃってました。さらにはご主人が喘息持ちだと分かり、症状から心筋梗塞の疑いもあるのでこれ以上歩かせるのは不可能と判断。

救急隊を呼ぶことにしました。

以前の研修で、田辺市消防本部でどのような対応をしているのかを見ることができていたので、慌てずに落ち着いて呼ぶことができました。

電話では、どのあたりにいるのか、古道から外れたところにいないか、傷病者の症状、何か薬は処方したか、通報者(わたし)の名前と携帯の充電はまだ十分にあるかなどを聞かれました。

電話で話をしている間に、すでに近くの消防から出動したらしく、サイレンの音が聞こえてきました。

消防との通話が終わってから間もなく、救急隊の方から電話が入り、さらに傷病者の状態(意識に有無など)を聞かれました。

それから待つこと30分。ついに救急隊の方々が到着。6人~7人はいたでしょうか。それからいよいよ下山開始。

しかし、ここは急坂の続く古道上でも1、2を争う難所。ボートのような形をした特殊な担架にお客様を乗せ、担架の上部と木をロープでつなぎ、地面を滑らせながら下りて行きます。慎重を要する救出のため、かなりの時間を要しました。

今度は奥様の方が、このままでは古道で日暮れを迎えてしまうかもしれないと心配されていたので、そのことを救急隊の方に告げ、わたしたちだけ先に下山させていただくことにしました。

ふもとのあんちゃんの店で待っていると間もなく、ご主人が無事に下山。

症状はすでに落ち着いていましたが、念のため病院に搬送してもらうことに。

病院での通訳をお願いされましたが、あいにくわたしの車は高原に置いています。そこで、消防の車に乗せてもらって車を高原まで取りにいき、そのまま病院に直行しました。

幸い、深刻な症状もなく、ゆっくり休んでもらえば翌日からは大丈夫という診察結果だったので安心しました。

そのあとはタクシーを呼んで当日宿泊予定の宿まで送ってもらうようにお願いしました。

宿に着いた頃を見計らってもう一度大丈夫か電話をし、少し本人さんとお話をして、長い一日が終わりました。

お客様には大変な一日で気の毒でしたが、わたし自身も大変貴重な体験をさせていただきました。

お世話になった救急隊の方々、この場を借りてお礼申し上げます。

本当に助かりました。

クルーズ船、新宮に寄港

先日9月28日、クルーズ船「スターレジェンド」乗船のお客様のオプショナルバスツアーをご案内させていただきました。
このクルーズ船は最大でも200人程度の収容人数ですので規模としては中型あるいは小型に分類されるのかもしれません。
当団体からは岸壁対応、駅前案内ブースを含め、総勢10人態勢で臨みました。
今回わたしのお客様は16名、欧米豪からのお客様でした。
バスツアーにしてはこじんまりとした雰囲気だったので非常にやりやすく、会話形式でお客様をご案内することができました。
船によっては1000人規模、35名のバスツアーをご案内することもありますが、やはりそうなると会話形式ということが難しくなり一方的なガイドになるので、こちらとしても打っても響かないということが起こってしまいがちになりますが、今回はそんなこともなく和やかな雰囲気でご案内することができました。
基本的には熊野古道をお客を案内するお客様とやり方は同じですが、大自然の中を歩くということをことがないので、そういった意味でバスの車中でいかに1日お客さんを飽きさせずに楽しませるかというところにツアーの成否がかかってくると思います。
また、古道歩きのお客様と比べて足腰が弱い方が多く、少しの階段でも神経を使わなければいけません。
古道歩きのツアーと大きく違うところはバスへの再集合時間と場所をはっきりと降りる前にお伝えしなければならないところです。
これを逃してしまうと、お客様を取り残してしまったり迷子になったりという事件が発生し大変なことになってしまいます。
今回は本宮大社そして那智大社、那智の滝とご案内させていただきました。
合計で7時間半の長丁場でしたが、一人も迷う迷う人なく無事に事故もなく怪我する人もなく終えることができました。
台風接近中にもかかわらずこの日は終日快晴に恵まれ、お客様もご満足されたようでした。
来月もう1回同じ船が来ますが、私は次回ご案内できないのが残念です。
しかし、うちのメンバーがしっかりとやってくれるということを期待しております。

ヤマビル???

先日の話です。

お客様と7時過ぎに継桜王子を出発し、伏拝王子で足首に違和感があることに気づきました。

そこでズボンの裾をめくってみるとズボンが血まみれになっていてびっくりしました。傷口を見ると、どうやらまだ出血をしているらしく、傷口から血が流れ出ている状態でした。

ただ、ズボンはすでに血が固まっておりカピカピの状態になっていたので、出血が始まってから相当時間が経っていたようです。

最初は何が起こったのかわかりませんでしたが、後で調べてみるとどうやらヤマビルの仕業だったようです。

彼らは傷口の神経を麻痺させる唾液のようなものを入れながら吸血をするらしく、また血を凝固させない物質も一緒に注入するため、噛まれている間はそのことに気づかないようです。

奴らは血をいっぱい吸った後自然に落ちるそうなので、私が気づいた時にはすでに血を吸って落ちた後だったんでしょうね。

吸血を開始して吸い終わるまで約1時間。どうやら草鞋峠~三越峠の間で噛まれたようです。

ちなみに、草鞋峠は別名ヒル降り峠と言われており、藤原定家の日記にもヤマビルの群れに襲われたと書いています。

今まで何十回とそのコースは歩いていますが、今回のようなことが起こったのは今回が初めてです。

ヤマビルはもはやいないと思っていましたが、このコースを歩く際は皆さん気をつけてください。

はちなみに足首までのトレッキングブーツ、そしてトレッキングパンツをその上から被せて歩いていましたが、それでもその間から侵入して噛まれたようです。

その侵入を防ぐためには靴下を塩漬けしたものを履くとか、塩漬けにしたハンカチを足首に巻くとか、首筋に巻くという方法があるらしいですが、なかなかそれをするのは大変ですよね。

むしろ塩分で痒くなりそうです。

あと、塩分濃度20%の塩水をトレッキングシューズにかけるという方法もあるそうですが、その方法だとトレッキングシューズの金具が錆びる恐れがあるので、ウォーキング終了後すぐに洗わないと金具が錆びてしまうそうです。

ですのでこれといった対処法はないですが どうしてもヤマビルを避けたいと言うのであればその方法もおすすめかもしれません。

ただ、他の吸血昆虫などに比べて伝染病とか寄生虫の報告はないそうなので、別に噛まれてもそんなに深刻に落ち込むと言うか心配する必要はないように思います。

ちなみに私の傷口は今、結構な痒みに襲われております。

※2022年追記
昨年2021年の現場研修中は、ヤマビルがいっぱい現れてパニックになる人もいました。
コースは小広峠~発心門王子の間です。
どうやら、ヤマビルの「餌」となるシカやイノシシの数が増え、それに伴ってヤマビルが増えたというのが理由のようです。
小広峠~発心門王子の他、小雲取越でも確認しています。
熊野古道を歩く時は十分気をつけてください。特に止まって休憩している時ですね。

※2024年追記
ヤマビルの目撃・被害エリアが拡大しつつあり、最近では野中エリアにも注意喚起のサインを見かけるようになりました。

小辺路②大股~三浦口

翌日はホテルのせ川さんに、大股バス停まで送ってもいただきウォーキングをスタートしました。

いきなりの急坂が延々と続き、かなり堪えましたが、この日は天気も良く、伯母子峠からの眺望は格別でしばし疲れが吹き飛ぶほどの絶景を堪能しました。

そこでのお弁当はまた格別でした。

伯母子峠から急峻な下り坂をしばらく下ったところに山小屋がありましたが、扉が開かなかったので中に入ることはできませんでした。

また、そこにはトイレが2つもありましたが、片方はやあはり扉が開かず入ることができませんでした。トイレも荒れていて用を足すのもすこしためらうほどでした。

山小屋を過ぎてからはしばらく気持ちよい尾根道が続きましたが、ブナやミズナラの原生林が残っていて本当に気持ち良かったです。

最後の長い下り坂までは・・・

約8キロ下り伯母子峠登山口に着きましたが、すでにその途中から足がガクガクで大変でした。

伯母子峠周辺は標高が1000 m 以上ですので気温も随分と低く、気持ちよく歩くことができましたが、標高がだんだん下がるにつれ気温も上がり暑くなり湿気も手伝って登山口に到着した頃にはすでに汗だくになっていました。

登山口に到着してから少し休憩をした後、三浦口バス停まで歩き、そこで宿泊予定の農家民宿山本さんのご主人に宿まで乗せていただきました。

その日はもう一組あったそうですが、台風が近づいてきているということでキャンセルされたそうです。

農家民宿山本さんは最大10人泊まることができるそうですが、今回は離れに泊まらせていただきました。

料理は地元の山菜や農園でとれた野菜を中心に、アマゴや鹿肉の天ぷらなど山の幸がふんだんに使われており、非常においしかったです。

翌日の天気予報を見たところ、午後3時に台風が最接近するということだったので翌日の行程をあきらめることにしました。

ご主人と話し合った結果、十津川温泉までご主人さんが送っていただけるということだったので、今回はお言葉に甘えることにしました。

十津川温泉に着くまで45分・・・

本当に申し訳なかったです。

ご主人さんは村会議員だそうで防災対策の会議に役場まで出られる予定だったらしのですが、役場から十津川温泉まで相当距離があったので恐縮しました。

道中、十津川のお話や7年前の災害のお話など貴重なお話をしてくださり、こちらとしてはあっという間の45分でしたが、ご主人からしたらいい迷惑ですよね。

しかし、おかげさまで本宮に戻ることができ、その日は無事に台風が来る前に海白浜まで帰ってくることができました。

三浦峠に登ることができず非常に残念でしたが、また今度リベンジをしたいと思っております。

小辺路①(高野山~大股)

先日、2日に渡り、高野山~大股、大股~三浦口までを歩いて来ました。

台風が接近するという予報が見事に(?)当たり、当初予定していた三浦峠~柳本橋までのコースは断念しなくてはなりませんでしたが、3年前に計画していた時は予定の一週間前に靭帯を傷めてしまい計画が流れてしまったこともあり、また、特に2日目は天気にも恵まれ、念願のトレッキングは満足のいくものとなりました。

初日は、高野山行きの聖地巡礼バスに乗り高野山に向かいましたが、乗車時間が長く結構疲れました・・・到着後、奥の院をお参りして金剛三昧院に宿泊し、翌朝のお勤めに参加し、8:30にスタートしました。

この日は時折雨が降るあいにくの天気でしたが、全般的に標高が高い分気温も低く、風も強めに吹いていましたので暑さは大丈夫でしたが、薄峠(すすきとうげ)からの下りと、大滝集落までの上りがきつかった・・・とくにあの上り坂の角度は厳つかった・・・この上りではさすがに大汗をかきました。

大滝集落でトイレ休憩をしていると、地元の方々が「おつかれさま」とか「ようお参り」と声をかけてくれ、地元の方々の温かさを感じました。夏水仙がきれいに咲いていました。

龍神スカイライン合流付近から再び雨が降り始め、雨の中車に気を付けながら歩きましたが、対向車が結構怖かったです。

水ヶ峰分岐を過ぎたところで雨が止み、林道沿いで景色が一気に開けるところがあり、しばし堪能。また、このコースの特徴として、松が多かったことが印象的でした。

東屋で昼食を取ったあと、大股へ下りる頃には雨は本降りになっていました。大股への下りはこれまた急で、しかもバス停へ下りる直前の道が草に覆われていて「コースを間違えたのか?」と錯覚を起こすほど荒れており、しばらく地図とにらめっこをしていました。

大股バス停では雨脚がさらに強くなり大雨。バス停には雨をしのぐところがトイレの中しかなく、「臭いを取るか雨を取るか?」の究極の選択をしなければならず、この日宿泊予定のホテルのせ川さんに迎えに来てくれるまでの10分ほどの時間が非常に長く感じました。

ホテルのせ川さんはスタッフの方も愛想がよく、料理もおいしかったです。トレッキング後に近くの川で遊ぶ計画を立てていましたが、あいにくの天気の中、川に入る度胸もなく、川の冷たい水よりもむしろ温かい温泉に心を惹かれ、部屋に着くなり温泉に直行したことはいうまでもありません。

次回は大股~三浦口です。

語り継ぐ記憶より~Handing down memories of The Second World War~

8月15日、終戦記念日がとっくに過ぎてしまいましたが、高校野球ファンのわたしには、甲子園で全員が起立をして黙とうを奉げている姿が今も目に焼き付いています。

アメリカからのお客様で、「なぜ、日本人は穏やかな性格なのに、先の大戦ではアグレッシブになったのか」という質問を受けたことがあります。

はじめは、この問題に触れたくなかったので遠まわしに答えていましたが、なかなか納得をしてもらえず質問責めに遭い「そこまで聞くなら」と、とうとう本当のことを言ってしまいました。

本人は、日本に来て日本人の優しさを知り、単純に不思議に思ったのでしょう。

同じ歴史でも、国によってその伝え方はまったく違ったものになってしまいます。特に戦勝国は自国を正当化するために「正義の制裁を加えた」とのごとく、自国民に対してそのような教育を行います。

なので、まったく予想もしなかったことをわたしから聞いた彼はショックを受けた様子で「携帯を貸してくれ」と息子さんに頼み、静かに検索を始めました。

おそらく、英語版で探してもどこにも載っていないでしょうけど・・・

さて、今回は地元紙「紀伊民報」に連載されていた第二次世界大戦の経験者談「語り継ぐ歴史」を偉そうに英訳してみようと思います。

わたしの英語力なので、はたしてきちんとお伝えできるか分かりませんが、先の大戦がいか悲惨だったのかを、日本のみならず世界に発信できればと考えたからです。

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It was May 25th, 1944, he landed Mindanao Island, southern region of Philippine. Since then, he saw many war buddies die until the war defeat. Battles, hunger and disease. It was literally hellish days being close to death.

December 1942, Joined the military as a second rank officer and received lessons of equestrians skill. After that, he engaged in tasks of conveying equipment of observing opponents’ movements in Pyongyang in North Korea and Nanchang in China.

February 1944, Although he arrived at Manila to obtain horses, he could not get expected ones, so moved from Manila to Surigao which was located on the northeast part of Mindanao Island. He got air-raid there and many of the soldiers with him were killed who stripped to the waist. Survived soldiers were force to move to the east cost of Saranggani without information where they were going to.

They stole foods from indigenous inhabitants and caught chickens and wild pigs to survive after running out of foods.

One day, he saw a soldier native to Shingu city biting a rotten bone of a cattle.

He punched the soldier to stop eating it saying ‘You must not eat such a thing.’

He reminds that ‘I had been punched countless times but it was the first time to punch someone. It was really sad.’

The soldier died of colitis after that.

His party roved a jungle to avoid air-raid. They ate everything, snakes and rats due to little food, fighting against guerrillas having knives. The soldiers’ fatigue was serious.

Malaria and dengue became epidemic and he was affected by Malaria. All of them had to take care of themselves in a cabin in the jungle. Some of them died day to day. There were lots of dead bodies of Japanese soldiers here and there and they were left out in the open. There were only 4 to 5 patients of the 30 when the war was over.

A scout plane of the U.S. scattered the leaflets saying ‘ Japan’s soldiers, you want to see your parents, wife and children, don’t you think?  Come out showing the white flag as soon as possible.’ But no one did.

After that, Marines let us know about Japan’s surrender over the wireless and gathered to the designated place by the U.S. military after disarming. It was the moment of setting free.

December 1945, four months after the end of the war, he was demobilized and sent home. He was nothing but skin and bone then.

He reminds that ‘It was so pleasant to take a bath for the first time in one and a half or two years.’

He hopes ‘A peaceful world without war lasts forever.’

高野・熊野特区通訳案内士研修受講者募集

本日、8月1日より、平成30年度高野・熊野特区通訳案内士受講者の募集が始まりました。

詳しくはこちらをご覧ください。

https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/062500/chiikiguide.html

当団体としては、スペイン語ガイドの需要が増加傾向にあります。

県内でスペイン語ガイドが少ないのでチャンスですよ。

ちなみにわたしは・・・今年、また受けようかな・・・なんて考えております。

冗談です。

受けようかどうか迷ったら、とりあえず応募用紙をダウンロードして必要事項を書いて和歌山県に送っておきましょう。

人数限定ですのでお早めに。