滝尻~高原④

日記と日記の間に置かれているこの壷、これから行く剣ノ山の経塚から出土したものです。
ここで軽くこの壷について説明をしておきます。
これも後からつながってくるため、前置き程度でかまいません。
経塚の説明は剣ノ山で十分できます。

その他出土品と供物

他にも滝尻王子付近から出土した剣や、滝尻王子にい奉納されたものなど、たくさん展示されていますが、逐一説明する必要はありません。
私はだいたいこの辺りのものは流します。
たまに鏡について「これでどうやって自分の姿を見るの?」と聞かれます。
あなたは分かりますよね?

滝尻王子

いよいよ滝尻王子です。
創建は定かではありませんが、奈良時代(約1300年前)だろうとされています。
記録では約900年前に初めて登場します。
五体王子のひとつで、王子社のなかでも格式の高い王子社とされています。
五体王子とは、熊野の御子神五柱がすべて祀られている王子のことを言います。
ここまで覚える必要はありませんが、その神々とは、天照大神、天忍穂耳命(アメノオシホミミのミコト)、瓊々杵命(ニニギノミコト)、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)です。

・・・ここで疑問が生まれます。

あなたは何だか分かりますか?

ヒントは熊野三山の主祭神との対比です。











三山の主祭神は熊野夫須美大神、速玉大神、家津御子大神ですよね。
熊野夫須美大神はイザナミ、速玉はイザナギ(わたしは違うと思っていますが)、家津御子はスサノオとされています。

イザナミとイザナギの御子神といえば天照大神、月読尊、素戔嗚命、あと、ワカヒメ(ヒルコヒメ)、ヒヨルコ(早産で亡くなります)です。
古事記ではイザナギとイザナギがワカヒメやヒヨルコを、天照大神、月読尊、素戔嗚命をイザナギが生みますので話がおかしくなっていますが、ホツマツタヱによればきちんとイザナミとの間にもうけた御子神となっています。

とにかく、この三柱の神(天照大神、月読尊、素戔嗚命)が熊野の御子神とするならば、天照大神がなぜ序列的に素戔嗚命の下とされているのでしょうか?
また、月読尊は大日越にある月見ヶ丘神社の石の祠に祀られているだけで他に祀られているところを私は知りません。

ちなみに、天忍穂耳命(アメノオシホミミのミコト)、瓊々杵命(ニニギノミコト)、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)は天照大神の子孫であり、イザナギ・イザナギの「子」ではないので「御子神」と呼ぶのは違うと思っています。
英語で「children deity」と呼んでいますが、正確には「descendent」です。

さて、話がそれましたが、兎にも角にも滝尻王子は重要な王子とされていたことは確かで、後鳥羽上皇はここで和歌会を開いています。

滝尻王子に参る前には、その前を流れる富田川(石田川)と石船川(いしぶりがわ・「いしぶね」ではありません)で身を清めてから境内に入ったそうです。
石田川(いわたがわ)の名はその昔、たくさんの岩があったことから名付けられました。

また、滝尻は富田川と石船川の合流点であり、轟々と滝壷のような音を立てていたので「滝の尻(壷)=滝尻」と呼ばれるようになりました。

昔はここに船着き場があり、富田川下流域の「宇立(うだつ)」まで船の往来があったそうです。
ちなみに、この「うだつ」という名前は卯(う)の刻、つまり5時~7時の間の日の出の時間に船が出ていたため「卯の刻に発つ」という意味から来ているそうです。

現在の滝尻王子の建物は、1999年の南紀熊野体験博の際に改築されたものです。

現在、建物の老朽化が進んでおり改築をしたいが寄付がなかなか集まらずに苦労していると「あんちゃんの店」のご主人から聞きました。
外国人の旅行者は増えましたが、お賽銭を入れる文化などまずありませんので、そのまま素通りして行く人がほとんどだそうです。
もしあなたがお客様をお連れするときは、お賽銭を入れてこれからの安全を祈願してあげてください。

藤原秀衡がこの地で子を授かったことに感謝をし、七堂伽藍建立し武具を奉納したといわれていますが、それがどこにあったのかは分からないとのことです。

明日は滝尻王子の境内地についてです。

滝尻~高原③

日記

藤原定家 後鳥羽院熊野御幸記

向かって左に展示されているものが、歌人・藤原定家が1201年10月、後鳥羽上皇4回目の熊野詣に随行した際に記された日記です。
「後鳥羽院熊野御幸記」と呼ばれていますが、正確には1180年~1235年に渡る定家の日記「明月記(愚記)」の中の一部です。

定家はこの時、いわゆる斥候として、一行の先回りをして各王子での奉幣の儀などの準備などする役割でした。

滝尻~高原②

出立の儀

京都城南宮を出発する前、約一週間に渡り精進潔斎をします。

肉、魚などの生臭物やニンニク、ニラ、らっきょう、ネギなどの強い匂いを発するものなどを断ちます。

滝尻~高原①

熊野古道館

このコースの始まりは、滝尻王子近くにある古道館です。
ここで熊野の概要をお話することができますが、注意しなければならない点として、あまり長く話しすぎないということです。
だいたいこの日が熊野古道行初日というお客様が大半ですので、歩きたくてウズウズしています。
その出鼻をくじくような長話をするとお客様は退屈してしまい、話を聞いてくれなくなります。
道中でもたくさん話す機会はありますので、道中でできる話は小出しにし、古道館での説明は必要最小限に留めるべきです。

ではいってみましょう。

平安衣装

古道館に入ると、まず目に飛び込んでくるのがこの平安衣装をまとった美男美女?です。
女性の衣装はおそらくよく見かけると思いますが、男性の衣装も含めて、この出で立ちで熊野古道を歩いたわけではありません。
この後ろに写真がありますが、巡礼者たちは白装束を着て歩いていたそうです。
これは、熊野に詣でることはよく聞く「蘇り」とされていて「擬死体験をする」という意味で死装束とされていることが由来だとか。
万一巡礼半ばで亡くなってしまえばそのまま埋葬され、持っていた杖を墓標の代わりに使ったとも聞いたことがあります。

地図と熊野古道

熊野は現在、5つのルートに分類されています。
まずは大阪・窪津王子に端を発し、田辺に至る「紀伊路」、田辺から紀伊半島を横切るようにして本宮を目指し、速玉大社から那智大社、さらに本宮へと結ぶ「中辺路」、田辺から海岸線を通って那智の補陀洛山寺に至る大辺路、高野山から本宮に至る小辺路、伊勢の神宮から海岸線を通って速玉大社・本宮大社に至る伊勢路があります。
昔は「紀伊路」と「中辺路」をあわせて「紀伊路」または「紀路(きじ)」と呼んでいたそうですが、現在は「紀伊路」と「中辺路」とに分けて呼ばれています。

そして、「熊野古道」と呼ぶかどうかは意見の分かれるところですが、同じく熊野と吉野を結ぶ「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」があります。
元来、熊野古道は修験者によって開かれたものであり、それ以前から開かれていたこの大峯奥駈道が、熊野への巡礼道の先駆け的な存在です。
その影響が色濃く残っているのが「王子」と呼ばれるお社ですが、これはまたの機会にお話します。

よって、熊野と他の地域を結ぶ巡礼道は全部で6つあることになります。

ルートの分類(どこからどこまでが「大辺路」なのかなど)については様々な見解があるそうなので、あくまでも一例としてご理解ください。
一説によると、大辺路は新宮までだという説もあります。

展示物

古道館には様々な貴重な展示物があります。
これを全部説明しようとすれば30分くらい必要ですので、必要最小限のものだけにします。

私はいつも日記、壺、3枚の写真、刀の写真(左上)、笠くらいしか話しません。
この中で、壺と刀については案内中に話の続きが登場しますので、ここでそのきっかけを作っておくためです。

では、奥の左上、刀から。

黒塗小太刀

ピンぼけです・・・

奥州・藤原秀衡が熊野に詣でた際、妻(側室らしいですが)が滝尻王子近くで産気づき、乳岩に子供を残して熊野詣を続けます。
跡継ぎが欲しかった秀衡は喜び、この地に七堂伽藍を建立し武具を納めました。
その中のひとつがこの「黒塗小太刀」で、現在は和歌山県立博物館に所蔵されています。
ちなみに、この七堂伽藍、1585年・秀吉の紀州攻めの際に消失しました。
その七堂伽藍がどの現在のどの位置にあったのかは分からないそうです。

熊野懐紙

1201年、後鳥羽上皇参詣の折、道中様々な場所で和歌会(わかえ、いわゆる歌会)が開かれ、その当時の和歌(レプリカですが)が展示されています。

和歌会は住吉、厩戸王子、藤代王子、切目王子、滝尻王子、近露王子、発心門王子の合計7回に渡り開かれ、ここ滝尻王子でも開かれました。

歌会ではまずお題が与えられ、それに基づいて即興で歌を詠みます。

滝尻王子では「河辺落葉 旅宿冬月」のお題が与えられました。
おそらく定家も詠んだはずですが、現存しておらず定かではありませんが、神坂次郎氏の著書「熊野御幸」にはこのような歌が紹介されています。

そめし秋をくれぬとたれかいはた河 またなみこゆる山ひめのそで

たきがはのひびきはいそぐ旅のいほを しづかにすぐる冬の月かげ

この熊野懐紙、当時は非常に高値で取引されていたので、後鳥羽上皇の貴重な収入源となっていたそうです。

熊野懐紙の詳しい情報については、こちらが詳しいのでご参考にされてください。

み熊野ねっと

今日はここまでです。
続きはまた明日です。


滝尻~高原を歩いて来ました

11月の小辺路下見に備えて、滝尻~高原を歩いて来ました。
少し暑かったですが天気も良く、気持ちよく歩くことが出来ました。

今日は写真をメインにアップします。
スポットごとの説明はまた明日にでも。

9:40 滝尻王子
ここからスタートです。
鳥居前で体操をしている語り部さんとそのお客さん。
・・・ベテランの語り部さんでもそんなことをするんだと、ちょっと残念な気分になりました。
そんなグループを尻目にスタート。
今日はお客様をお連れしていないのでハイペースです。

9:55 不寝王子
普通はここまで30分ほどかかりますが、今日は15分です。
スタンプを押す必要もないので先を急ぎます。

10:15 剣ノ山
出発から35分です。
お客様をお連れするなら普段は1時間~1時間半かけて上るところです。

栗がたくさん落ちていました。
シーズンは9月頃なのですでに遅かったです。
写真(下)は、明らかに何者かに食べられています。
栗って、イガがあるので猿が食べるのは無理と思う方もいると思いますが、どうも「食い気」が勝るようです。
木から落ちたショックで3つあるうちのひとつがイガから飛び出ると、あとの2つは取り出せるようです。
また、イガを拾って持ち帰っている猿を目撃した人や、枝を折って栗を落としたりしているところを見たことがある人がいるそうです。


これ、何だと思います?
柿です。
これがいっぱい落ちていました。
かじりはしませんでしたが、多分美味しくないでしょうね。

ママコナ。
熊野古道ではよく見かける植物です。
そういえば、もうすぐアサマリンドウの季節ですよね。
秋の代表的な花としては、あとチャボホトトギスがありますね。

針地蔵を過ぎると、再び急坂です。
さきほどの急坂とは違い、距離は非常に短いです。

高原の集落が見えて来ました。

11:05 高原熊野神社。
出発から約1時間半です。

高原の大楠。
樹齢は1000年とか。
どれくらい大きいかこの写真では分かりにくいので、こちらの画像でご確認を。

https://www.instagram.com/p/B4VxiS-D05e/

高原。
まだ稲刈りが終わっていません。
この19日の講演で高原の写真を入れていますが、冬の写真なのでこれに差し替えたいくらいキレイです。

高原の休憩所の横から栗栖川バス停に歩いて下ります。
所要時間約30分です。

こんな感じの道を30分・・・途中で飽きてきます(笑)

ようやく栗栖川の集落が見えて来ました。
左に見える橋を渡ります。

地元の方はバス停を「駅」と言うようです。
この看板を見て電車に乗るイメージをしていると見事に裏切られます。
多分ですが、昔は伝馬所でもあったのではないでしょうかね。

11:45 栗栖川バス停。
本日はこれで終わりです。
歩くだけなら約2時間で栗栖川まで歩けます。
まあ、結構飛ばしましたけど。
しかし、同じ歩くならガイドがあった方が楽しみも倍増ですよ。

明日はスポット説明です。
多分何回かに分けてお話すると思います。