高原~近露王子⑥

悪四郎伝説

詳しくは説明板をどうぞ⇩

・・・冗談です。
説明板の通りこの「悪」は「強い」という意味でだそうです。

木(松と聞きました)の枝を曲げてそこに座り、休憩を装っている悪四郎を見た旅人は、隣に座ります。
悪四郎が「今から立つけど大丈夫か?」と聞きますが、旅人は大丈夫だと答えます。
そこで悪四郎が立つと、弾かれた枝が旅人を飛ばしてしまいました。

こういった悪四郎の怪力伝説が残されています。

また、当時は京都・大阪⇔伊勢のメインルートであったため、多くの巡礼者や旅人などが行き交っていました。
それを狙って盗賊も現れます。
中辺路には盗賊に襲われて命を落とした女性の話も残されていますが、悪四郎はその盗賊も懲らしめたという話を聞いたことがあります。

そういうこともあってか、地元の人々にも愛されていたのでしょう。
昔は悪四郎を祀る神社もあったそうです。

説明板には「頓智にたけていた」と書かれていますが、それに関するお話はこちらを⇩
紀州民話の旅 怪力悪四郎~中辺路町大内川~

こうした「怪力男」の話は日本中に残されています。

井川の怪力男・てしゃまんく
横手五郎(熊本)

中には怪力の持ち主が女性だったという話も残されています。
怪力女中(能登の民話伝説)

「怪力」といえば弁慶のその中の一人ですよね。
田辺にはもう一つ、「怪力 獺田(おそだ)」という話も残されているようです。
闘鶏神社にもまつわる話です。

今日はここまでです。


高原~近露王子⑤

小判地蔵

1854年、大分(豊後)の巡礼者が、ここで小判をくわえて亡くなっていたそうです。
私が習った範囲では、その小判を使って地元の方が供養してここに地蔵を建てたと聞いています。
当時の巡礼者は、いかに空腹であっても最後の小判はこういった時のために取っておくのが習わしだったそうです。

よく見ると、口に舌のようなものが出ているのがかすかにわかります。
これがどうも小判のようです。
ただ、近年は風化が激しく、ちょっと確認しづらくなっています。

お地蔵さんには「道休禅定門(どうきゅうぜんじょうもん)」と彫られています。
いわゆる戒名であり、「道休」は「行き倒れ」、「禅定門」は「在家のまま仏門に入り、剃髪した男子」という意味だそうです。
ちなみに、女性の場合は「禅尼(ぜんに))」または「禅定尼」と呼びます。
戒名は厳密に言うと「院号」「道号」「位号」の総称で、これらは故人の生前の信仰の深さ、地域やお寺への貢献度などで決めるものだそうです。
その中の「位号」の中に「禅定門」「禅定尼」があります。
位号では他に「信士」「信女」「大禅定門」「大禅定尼」「居士」「大姉」などがあります。

同じようなお地蔵さんは、発心門王子~本宮大社の間にもあります。
ちなみに、そのお地蔵さんには「道休禅門」と彫られています。

ちなみに、ここは古道が狭くなっていて反対側が急斜面になっていますので、説明は手前の少し広い場所で行い、小判地蔵の前ではくわえている小判の確認など最小限にとどめておきましょう。

すみません、業務多忙につき、今日はここまでです。

高原~近露王子④

版築

熊野古道には版築(段築)と呼ばれる道があります。
路面が凸凹になっているところを、楽に通行できるように施した道であり、古来の日本では建築用の壁などにも使われていた工法で、何段にも土を突き固めて盛り上げていきます。

時には強度を増すために小石や藁、粘土なども交ぜたといいます。

版築の工法は、まず低め(10cmくらい)の板を両側に設置し、そこに土を入れて突き固めます。

高原~近露王子③

高原池

約300年前に作られた人工池。
灌漑用水として利用されていたようです。

「ダム」の堰

粘土質の堰だそうで、かなり強そうです。
山から小さな流れがいくつかあるらしく、この池に集められているそうです。
その証拠?に川魚であるカワムツが泳いでいるのを見ることができます。

当時は桟橋のような木製の水門があったらしく、それで水量を調整していたそうです。

たまにどこかのツアーリーダーさんから聞く「この堰が空洞になっていて、その中に水量を調整する装置があった」ということはありません。

高原~近露王子②

炭焼き窯跡

最近は草に覆われて見にくくなっていますが、この建物の横をよく見ると炭焼窯の跡があります。
この小屋はおそらく炭焼きの作業の際に使われていたものでしょう。

高原~近露王子①

滝尻~高原が一通り終わりましたので、今回からは高原~近露王子について数回に分けてお話をします。

庚申さん

滝尻~高原の間にも庚申さんがありましたが、こちらでご説明を。

向かって左が庚申さん。右は大日如来像

庚申さんとは、平たく言えば村の守り神です。
疫病や災いを村に入れないようにするため、だいたいは集落や村の出入り口にあたる場所に安置されています。

「庚申」とは「かのえさる」であり、十干と十二支の組み合わせによるものです。

十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸で、読み方は「こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き」です。

さて、ここから話がややこしくなってきます。

この十干に、「陰陽五行」の五行「木火土金水」をあてはめ、「甲・乙=木」「丙・丁=火」「戊・己=土」「庚・辛=金」「壬・癸=水」とします。

ここからさらに、五行を兄(え)と弟(と)に分け、木=木の兄(きのえ)・木の弟(きのと)、火=火の兄(ひのえ)・火の弟(ひのと)、土=土の兄(つちのえ)・土の弟(つちのと)、金=金の兄(かのえ)・金の弟(かのと)、水=水の兄(みずのえ)・水の弟(みずのと)に分けます。
これで10通りです。

ひとまず十干は置いておきます。

次に十二支です。

これはみなさんご存知の通り、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支です。

さきほどの十干の10と、この十二支の12を順番に組み合わせていくと、「金の兄(かのえ)」と「申(さる)」が合わさるタイミングがあります。
このタイミングを「かのえさる」と言います。

「金の兄」は十干でいうところの「庚」にあたるので、「庚」と「申」の組み合わせをもって「庚申(こうしん)」といいます。

10と12の組み合わせの最小公倍数は60です。
つまり、60回に一度「庚」と「申」の組み合わせが起こることになります。

この60日に一度来る日を「庚申の日」とし、この日は人々の体の中にある「三尸(さんし)の虫」が、人が寝静まったころに這い出て、その60日の間で、その人が働いた悪事を天帝に告げ口されると信じられていました。
天帝にひと度告げ口をされると、その人の寿命が縮んでしまうと信じられていたので、この日は、当時の人々は眠らずに一ヶ所に集まり食事をしたり酒を飲んだりして夜明けまで過ごしたそうです。

この集まりは、当時の貴重な情報交流の場であったようです。

三猿

庚申さんの像の下部には、だいたい三匹の猿が彫られています。
この三匹の猿は「見ざる・言わざる・聞かざる」を表していて、それぞれの猿が目と口と耳を押さえているのを見ることができます。

この由来については諸説あるようですが、私が聞いた話では「三尸の虫が這い出ないように穴を塞いでいる」というものがあります。
しかし、これでは鼻を押さえていなければ穴を塞いだことにはなっていないので、この説は違うのではないかと思っています。

私は、三尸の虫によって(悪事を)見られない・(天帝に)告げ口されない・(悪いことを)聞かれないようにするという意味ではないかと思っています。
あるいは、人々への戒めとして、(悪いものを)見ない・(悪口を)言わない・(悪いことや他人の悪口を)聞かないようにするためではないかとも思っています。
中国やタイなどでは四匹目の猿もいて、股間を押さえている「せざる」もあることから、やはり戒めとして三猿が彫られているのだと思います。

ちなみに、ここの庚申さんの説明板では「この庚申さんから夜間時々光が出ている」そうで、那須亀太郎さんが18歳の時にここを通りかかった時、ダイヤのような光を頂き、元気に過ごさせてもらっているそうです。

陰陽五行は日本由来?

さて、話は少しそれますが、陰陽五行は元来縄文時代の日本からその考えが始まり、それが中国に伝わり日本に「逆輸入」されたという見解もあります。

「陰陽」は「ヲ」と「メ」、五行は「うつほ(空)」「かせ(風)」「ほ(火)」「みつ(水)」「はに(土)」であり、これが日本語の母音のそれぞれ「あ」「い」「う」「え」「お」に当てはまります。

現在、ひらがなは表音文字として認識されていますが、古代の五十音にあたる文字にはそれぞれに意味があったそうです。

その代表例が「あいうえお」です。
すべての音がこの5つの母音・あいうえおに集約されることから、宇宙の根幹をなす5元素としてみなされていたそうです。

ヲシテのあいうえおと空風火水地」もご参照いただければと思います。

今日はここまでです。

滝尻~高原⑧

滝尻~高原の最終回です。

夫婦地蔵

元々、この場所にはなく、山の中にあったそうですが、山の持ち主さんがもっと多くの人にお参りしてもらいたいとこの場所に「遷座」したそうです。

高原熊野神社

創建は古く、1403年に本宮大社から勧請されました。
現在の社殿は1544年建立と棟札に書かれているそうですが、私は築600年ほどと習いました。
しかしこれは、勧請された年のことでしょうね。

御神体は懸仏(かけぼとけ)で、熊野の信仰である神仏習合を色濃く残しています。
懸仏とは、円形の銅板などに仏様の像を表したもので、社殿に懸けられていたことから名付けられました。
神仏分離令から廃仏毀釈の動きが起こった時、熊野の多くのお社は合祀されてしまいましたが、この高原熊野神社においては守られました。

社殿は檜皮葺(ひわだぶき)で、1998年までは30年に一度、屋根の葺き替え(と塗り直し)が行われていました。
その費用も目を見張る金額で、
1938年には30万円、1968年は200万円、1998年は2000万円、そして2016年には1400万円かかっています。

クスノキ

境内には樹齢1000年と言われるクスノキがあり、見る者を圧倒します。

このはるか下を流れる石船川(いしぶりがわ)支流の護岸工事をしている時に、クスノキの根が出てきたそうです。
ここから下の川まではクスノキが生えていないので、この木の根だと言われています。

木彫りの龍

また、社務所の横には木彫りの龍が安置されています。
この龍、2018年9月の台風21号で倒れてしまった樹齢約250年の御神木のひとつのタブノキから、チェーンソーで彫られたものです。
手掛けたのは、龍神村在住のチェーンソーアーティスト・城所ケイジさん。

死んでしまったものが再びこうして蘇る・・・まさに熊野を象徴していると思います。

棚田

熊野は自然と歴史が織りなす複合遺産として世界遺産に登録されています。
この棚田も、景観保護のために有志で管理しているそうです。
写真でも少し見えますが、収穫した稲を乾燥させるのに、昔ながらの方法が使われています。
田起こしの時季になると、上空をトンビが飛び回り、出てきたカエルを捉えようと狙っている姿に遭遇します。

写真の水車は2~3年前に「改築」されましたが、その費用に100万円ほどかかったそうで、地元の方々の寄付などで賄ったそうです。

ネットを見ると、よく「果無山脈が一望できる」と書いていたり、ガイドでもそう言って説明している人がいるようですが、正面に見えている山並みは果無山脈ではありません。
果無山脈も見えてはいますが、それはずっと右の端っこの方です。

以上で滝尻~高原は終わりです。
細かいスポットなどには触れてはいませんが、機会があればガイドと歩いた時に聞いてみてください。

滝尻~高原⑦

針地蔵

その名の通り、針に由来があります。
当時の高原集落では、歯医者などもちろんありませんでした。
地元の人が虫歯になった時、ここにお参りに来ると治るという言い伝えがあり、その痛みが治ったお礼としてブリキ(あるいは鉄)で出来た鳥居を納めるという風習がありました。
しかし、そういった素材で鳥居を作ることが難しいので、二本の針を鳥居の柱に見立て、その先端に糸を通すことで鳥居の代わりとして納めるようになりました。
そこから「針地蔵」と呼ばれるようになったとのことです。

先輩ガイドから聞いた話では、滝尻からの急坂に加えて、ここからの坂道で歩くことを諦め、この針地蔵をお参りすることで熊野に参ったことにして帰った人もいたと聞いたことがあります。

「熊野に参ったことにした」といえば、闘鶏神社でも同じような話を聞いたことがあります。
かつての巡礼者たちは身体の問題を抱えている人も少なくなく、とてもではないが本宮にお参りすることができないので、闘鶏神社をお参りすることで熊野にお参りしたことにした人々が多くいたそうです。
闘鶏神社は本宮から勧請されていますので、確かに熊野の神様にお参りしたことには間違いありませんよね。

ちなみに、闘鶏神社の社殿の配置は、当時の本宮大社の並びなのだそうです。
主祭神はイザナミ様、配祭神は速玉男神、事解男命、イザナギ様、天照大神、宇迦之御魂命・・・です。
面白いのは、速玉=イザナギではなく、別々に祀られているということです。
このことについては以前の記事「速玉大神について考える」をご参照ください。

今日はここまでです。
続きはまた明日です。

滝尻~高原⑥

剣ノ山

詳しくは説明板を読んでください。

・・・冗談です。

滝尻から、お客様をお連れすればだいたい1時間ほどで到着します。
かつてはここに経塚がありました。
標高はこの日の最高点、371mです。

経塚跡

経塚とは平安時代に生まれた末法思想によるもので、釈迦の教えが行き渡っていて、人々も悟りを開くことができる世を「正法」、信仰が外見だけ残り悟る者がいなくなることを「像法」、やがて真の仏法が衰えて世の中が混乱する世を「末法」といい、末法の世の子孫のためにお釈迦様の教えを残しておこうという先人たちが、お経を埋納したことに始まります。

ちなみに、「正法」は釈迦の入滅後500年、「像法」は1000年、「末法」は1万年を指します。

お経は「経筒」と呼ばれる青銅製の筒などに入れられ、鏡、合子(ごうす)、剣など様々なものと一緒に埋納されました。
経塚はここだけではなく、熊野にかなり多くあり、大規模なところでは大斎原の向かいにある備崎では約600巻の経筒が見つかっていますし、那智大社の別宮・飛瀧神社の入り口付近にも大規模な経塚が発見されていますが、現在は駐車場になっていますので、発掘が完全に出来ていないとのことです。

残念ながら、ここにあった経塚は約100年前に盗掘に遭い、滝尻の熊野古道館に展示されている常滑製の壷のみが発見されました。
それを聞いた当時の巡査が、ここにあった笠塔婆を持って滝尻王子まで降ろしたそうです。
なかなかの怪力の持ち主ですよね。

九品(くほん)の門

また、かつてはここに九品の門の一番目の鳥居があったそうで、本宮大社にいたるまでの道中に合計9つの鳥居があったそうですが、現存するものはありません。
唯一、大門王子にある礎石が残っている程度で、あとの門がどこにあったのかはわかりません。

9つの門はそれぞれ、

下品下生(げほんげしょう)、下品中生、下品上生

中品下生、中品中生(ちゅうぼんちゅうじょう)、中品上生

上品下生、上品中生、上品上生(じょうぼんじょうしょう)

を表しています。

生前の行いによって極楽浄土へ生まれ変わる時、あの世からのお迎えに差があると考えられており、下品から上品にいくほどお迎えのスタイルが「ゴージャス」になります。

たとえば 、上品上生では、僧がお経を読んでいる時に仏、菩薩、飛天など、大勢の仏様が迎えに来るのに対し、下品下生では誰も迎えに来てくれません。

当時の巡礼者は、この九品の門をくぐることにより滅罪されると考えていたのでしょう。
なので、無事に熊野にお参りを果たして里に帰った巡礼者は「上品の人(じょうぼんのひと)」と呼ばれ、崇められたそうです。

ちなみに、この九品の考えから「上品(じょうひん)」「下品」という言葉が生まれました。

今日はここまでです。
続きはまた明日に。

滝尻~高原⑥

テーダマツ

写真右側がテーダマツです。
原産はアメリカ南部。
以前語り部さんからお聞きした時の樹齢が約50年だったので、今は約55年でしょうか(笑)