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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤
内ノ畑王子跡
説明板より
建仁元年(1201)十月十日、鹿瀬山を越えた藤原定家たちは、木の枝を伐って槌を造り、榊の枝に付けて「内ノハタノ王子」に持ち寄り、そこに結び付けたのです。
建宝五年(1217)、後鳥羽上皇と修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資たちも、十月五日に、同じように槌を造り、王子前で「徳あり、徳あり」と声高に言い、弱く貧しい人たちにそれを与えています。
祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、現世の利益を願ったのでしょう。
こうした風習から、この王子社は「槌の王子」ともいわれ、応永三十四年(1427)九月二十四日、足利義満の側室、北野殿の先達をつとめた僧実意たちも、風習に従って同様のことを行っています。
江戸時代には、隣接地のこの地に移転して、「槌王子社」として祀られ、明治時代に槌王子神社となりましたが、神社合祀で、新熊野神社に合祀され、その後、内原王子神社に合祀されました。
建宝五年(1217)、後鳥羽上皇と修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資たちも、十月五日に、同じように槌を造り、王子前で「徳あり、徳あり」と声高に言い、弱く貧しい人たちにそれを与えています。
祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、現世の利益を願ったのでしょう。
こうした風習から、この王子社は「槌の王子」ともいわれ、応永三十四年(1427)九月二十四日、足利義満の側室、北野殿の先達をつとめた僧実意たちも、風習に従って同様のことを行っています。
江戸時代には、隣接地のこの地に移転して、「槌王子社」として祀られ、明治時代に槌王子神社となりましたが、神社合祀で、新熊野神社に合祀され、その後、内原王子神社に合祀されました。
・・・すみません、文章を打ちながら眠ってしまっていました。
続きはまた明日に。
