【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑥-②

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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅

すみません、梅の収穫がピークに差し掛かり、人手も少ないこともあってなかなかの重労働です。
昨日はさすがに疲れ切ってしまい、早くに寝てしまいました。

気を取り直して昨日の続きを。

内ノ畑王子でのしきたりは、他の王子と違って変わっていますね。

ちなみに、この王子には「ツチ金剛童子」が祀られているそうですが、熊野古道はもともと修験者が開いた道であり、大峯奥駈道のスタイルを踏襲しています。

古道沿いの「王子」も、奥駈道の「靡(なびき)」と同じような役割があります。
奥駈には75ヵ所の靡がありますが、そこでは読経などの習慣を踏襲しているようです。

王子でも、上皇・法皇が読経や里神楽、和歌会、相撲などをして熊野三山を目指しました。

王子の名前の由来ははっきりしていませんが、修験者が祀る神(仏)を「童子」と言い、その「童子」が転訛して「王子」となったとい説があります。

内ノ畑王子への道ですが、これまで進んで来た道から右折をして「なめら橋」を渡り、その先の分岐を左に進みますので迷わないように注意してください。

高家(たいえ)王子

説明板より

天仁ニ年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月十九日に大家(たいえ)王子社に参詣しています。

それからおよそ百年後の、承元四年(1210)、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資の、四月二十六日に高家王子社に参拝しています。

この王子は、江戸時代には若一王子社と称され、萩原村東光寺の地にあったことから、東光寺王子ともいわれています。

境内には「長床」という僧の修行場、ないし宿泊施設が設けられており、法華寺という別当寺があったようですが、東光寺との関係は明らかではありません。

明治時代に王子神社と改称されました。

本殿は、明治二十一年に暴風雨で倒壊したため、二年後に再建されています。

神社名は、大蔵省管財局の指示で、村の名称を使用して、昭和二十八年に内原王子神社となりました。

なお、旧社地は現在の地よりも北にあったと推定されていますが、詳細は不明です。

神社として現存しているため、非常に管理が行き届いていてキレイでした。
また、社殿には祭りの様子の写真(主に巫女さん)が飾られており、地域との深いつながりを感じることができます。

この神社、明治41年に30の周辺の神社を合祀しています。
主祭神の「皇大神」とは、天照大御神のことを指します。
内原王子神社
伊勢の内宮の御正宮は「天照皇大神宮」と呼ばれています。

愛子の渕由緒

説明板より

ここより南五十米に「愛子の渕」がある。

江戸時代、この近くの豪族、秦政助の一子亀千代は生まれつき目が見えず、なげき、円応寺(現在廃寺)の観音様に願掛けしたが、その効もなく、前途を悲しみ渕に身投げした。

政助は悲しみ、村人の慰める言葉もなかった。

ところが、不思議と亀千代の体は温味が戻りやがて口を開き「今、地獄へ落ちるところを観音様のお救いで助かった。」と言った一同はその神秘に呆然とし、喜んだ。

この事があってから、この渕を「愛子の渕」と呼ぶようになったと言う。

初めてこの説明を読んだ時「?」となりました。

ここで登場する「愛子」とは、子どもの名前ではなく「愛弟子」などの「愛」のことをいうのでしょう。
そうしないと、なぜ身投げした「亀千代」が「愛子」になったのかの説明ができません。

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