形から入ることの大切さ

私は毎朝することを決めています。

朝は4時か5時に起床、シャワーを浴びて神棚と仏様にお供えをし、祈りを捧げ、生け花の水を換え、洗濯、地元の神社にお参り、筋トレ、瞑想、読書、音楽を聴く・・・

これでだいたい1時間半から2時間くらいかかります。

これを私は「成功の儀式」と呼んでいます。

特に、神棚への祈りは、父が亡くなってからかれこれ25年ほど、毎日やっています。
旅先では朝晩に、その近くの神社に向かって祈っています。
徒歩圏内であれば直接参拝をします。

父は奈良県十津川村の出身です。
十津川村は「神道一色の村」と言っても過言ではなく、村内にはお寺がかつて一軒もありませんでした(というか、廃仏毀釈の影響でお寺がことごとくなくなったというのが本当の理由らしいですが。現在は一軒あるようです)

そんな「ゴリゴリ神道」の父が、毎晩神棚に向かって拝んでいる姿を子供の時から見ていましたので、その影響もあったのだと思います。
しかし、子供心に「神様なんているわけないのに、拝んでどうするんや」と思っていたことを思い出します。

私は父が亡くなるまで、神棚はおろか、神社に進んでお参りするような人間ではありませんでした。

それよりも「神社は気持ち悪いところ」とか「何か祟られそう」とか思って避けていたくらいです。

湯崎地区の山神社(さんじんじゃ)の祭りで獅子舞をするようになりましたが、その時もご祭神の名前はおろか、手を合わせるようなことも一切なく、最初の頃はただただ「祭りはバカ騒ぎが出来て楽しいところ」くらいにしか思っていませんでした。

伊勢の神宮に「観光で」訪れた時には「この世に神がいるなら、わい(俺)の願を叶えてみろ」と祈った?暴言を吐いた?こともありました。

その私が、あることをきっかけに少し神様に対する見方が変わる出来事がありました。

湯崎の祭りで知り合った子と結婚をし(これも今思えば神様のご利益かもしれませんね)、踏切のすぐ近くの新居に移ったのですが、2回流産してしまいました。

妻(といっても今は前妻ですが)から「和歌山市加太の淡嶋神社がいいらしい」と聞いたので、ご祈祷をしてもらいに行きました。

神主さんに願い事を伝え、人型の紙に願い事か名前か住所か何か書いたのを覚えています。
ご祈祷は一組ずつするのではなく、いくつかのグループをまとめてするというスタイルで、それぞれのグループが神主さんに願い事を口頭で伝えるというスタイルでした。
もう30年ほど前になりますので、今はどうなっているのかはわかりません。
そこに来ていた人はみんなものすごいものを抱えて来ていて、私たちの願い事がすごくちっぽけに感じるほどのものばかりでした。

この後、すぐに妻が妊娠、無事に長男が生まれました。

これが、私が神様っているのかな?と思うようになった最初のきっかけでした。

その後もしばらく子供ができず、長男が2階の階段から頭から落ちたり、窓を閉める時に指を挟んで大けがをしたりということが絶えませんでした。

流産したことも含め、それを聞いた親戚が、いわゆる「あちらの世界」が見える人がいて私も幾度となく助けてもらった。一回見てもらったら?と言われ、その方を紹介してもらいました。

その方は不動明王を「神さん」と呼んでいるようでした。

その方の話によると、まだディーゼル車が走っていた時代に、ここ(踏切)で2人ほど亡くなっている。その人がそうさせている。この住宅地の一画の人も同じような悩みを抱えている。というような内容でした。
そこに引っ越しをして来た時に、踏切にお茶碗や湯飲みが供えられていて不思議には思っていましたが・・・

そして、その方が指定するお供え物を用意し、祈ってもらいました。

「これで変なことも起こらんし、次も絶対に生まれる」

そう言ってその場は終わりました。

その後、すぐに次男が生まれました。

こういったことがあり、次第に神様というものを信じるようになっていきました。

そんな中、次男が2歳の時に父が肺がんで他界。

遺品の整理をしている時に、食器棚の上にある神棚を発見。

神様を信じるようにはなっていたものの、まだ神棚に手を合わせたり、神社にお参りするという習慣はまったくなく、ずっとほったらかしでした。

・・・。これ、どうしよう?捨ててしまうか。

と母と相談したことを覚えています。

恐る恐る神棚を開けてみると、古いお札とともにゴキブリの糞が散乱していました。

捨てよう。

一旦はそう決めたものの、何か引っかかるものがあり、また、父が生前大切にしていたものということもあり、結局お札を新しいものに変えて、ちゃんと掃除をしてお供えしようということになりました。

榊もプラスチック製のものだったので、きちんとしたものを買って、ネットでお供え物を調べてお供えを始めました。

祈り方も、二礼二拍手一礼くらいは知っていましたが、何を祈るのかも知りませんでした。

とりあえずは形だけでもと思い、始めました。

不思議なことに、形だけでもやっていると、次第に「何かに守られている」という感覚が芽生えるようになってきました。
そしてその思いがどんどん強くなっていくのがわかりました。

最初は形から入ったにもかかわらず、後から「守られている」という感覚が出てくるのが不思議でした。

まずは形からでもいいということを、その時に学ばせていただきました。

学ぶ=真似ぶ

さて、本題です(笑)

昨年から今年にかけて、私はガイドに出る代わりに研修の講師をしています。
「現役」から「ガイド育成」の方にシフトしました。

研修では、外部講師にお願いする場合もありますが、今年度は特に組織の中ですることが多いです。

その中で、新人研修には特に重きを置いてやっています。

新人研修についてはこちら。
ガイド育成のこだわりとガイド料

特に認定研修では、私も結構力を入れて事細かく説明しているせいか、研修を受けた新人の中には「そこまでしなくてはいけないのか」というプレッシャーから自信を失い、試験を受けたがらない人もいるようです。

気合を入れ過ぎたと反省をしています。

なので最近は「いきなりこのレベルをやってくださいということではありませんよ」と前置きをしてから研修をするようにしています。

「こんな感じでいけるんや」と、自信を持ってもらうことも必要かなと最近は思っています。

研修やトレイニーを通して、講師やガイドのいい所を自分に取り入れて、今後も自分のガイドスタイルを確立していってほしいと思います。

「学ぶ」という語源は「真似ぶ」と言われています。

ぜひ、先輩のガイドを見て、形からでもいいので真似ることから始めてみてください。

そのうちに中身が伴ってくると思います。

形から入ることも大切だと、私は思っています。

ちなみに、淡嶋神社には今も毎年お参りに行っています。
加太淡嶋神社

神棚の設置方法はこちら
正しい神棚設置のススメ①

神社参拝の作法はこちらをご参照ください。
参拝方法

こちらも非常に勉強になりますよ。
木花咲耶姫様の神示

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