【熊野古道紀伊路】紀伊内原駅~西御坊駅⑦

【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①
【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②
【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅③
熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅④
【熊野古道紀伊路】紀伊内原駅~西御坊駅⑤
【熊野古道紀伊路】紀伊内原駅~西御坊駅⑥

一応おにぎりは持っていましたが、可能であればせっかく街の中を歩いているのでどこかで美味しいものがあれば食べようとレストランを探しながら歩いていました。

野口新橋を渡ったところにイタリアンのレストランがあったので行ってみると満席。
この日は5月5日だったので仕方ないですね。
この時すでに13:30。レストランの営業は14:00ラストオーダー。
しかし、すでに橋の向こうから歩いている時にすでに「パスタの口」になっていたので諦めきれません。
店員さんに「あと何分くらいで空きますか?」と聞いたところ「さぁ・・・わかりません」と言われました。
もう食べ終わっているグループが見えたから聞いたのですが。
「少し待たせてもらってもいいですか?」と食い下がりましたが「すみません、もう終わりなので」と言われあえなく撃沈。

ラストオーダーまで時間あるやろ。ヤル気あんのか?

まぁ、小麦を食べなくて結果的には良かったかも。

気を取り直してトボトボ歩き始めました。

熊野古道から少しコースアウトしますが、岩内1号古墳があります。
ここで遅めのお昼。

岩内1号古墳は、横穴式石室を持ち、墳丘に沿って北・東・西の三辺に周溝をめぐらした一辺の最長が19.3mの方墳で、7世紀中頃以降に造営された県内での数少ない終末期古墳の一つです。

昭和24(1949)年の発掘調査で、漆塗木棺(うるしぬりもっかん)、銀線蛭巻太刀(ぎんせんひるまきのたち)一振、六花型の鉄製棺飾金具(かんかざりかなぐ)などが石室内で発見され、昭和54(1979)年度の調査では、版築(粘土を突き固める)という技法で墳丘の盛り土が造営されていることや、被葬者を安置した床面が7世紀後半に作り直されていることなどがわかりました。

昭和57(1982)年度に、石室・墳丘を現状のように復元し、史跡としての環境整備を行いました。

被葬者は、木棺に棺飾金具や全国的にも少ない漆塗りの装飾がされていること、副葬品(銀線蛭巻太刀)・造営の技法(版築)などから、大変位の高い人物であったと考えられています。

その候補の一人として、658年蘇我赤兄(そがのあかえ)の謀略あるいは中大兄皇子(のちの天智天皇)の謀略によって、紀伊牟婁の湯(今の白浜温泉)滞在中の中大兄皇子のもとに謀反の罪で連行され、処刑された悲劇の皇子「有間皇子」(640~658年)があげられています。

「そうではないか?」と思うことについてはノーコメントです(笑)

何かしらこの地方で有力だった方のものなのでしょうね。

有間皇子の墓は藤白坂にもあります。

終末期古墳とは、古墳時代から飛鳥時代にかけての7世紀古墳のことを言います。
有名なところでは奈良県明日香村のキトラ古墳や高松塚古墳などがあります。

この古墳は「方墳」すなわち四角ということです。
よく私達が耳にする「前方後円墳」は仁徳天皇陵古墳がありますが、あれって、どう見ても「前円後方墳」ですよね。
丸い方が前(というか、上)に見た方が自然ですよね。

学者さんの感性の鋭さ?には驚かされます。

この前方後円墳の意味について東北大学名誉教授の田中英道先生はこのようにおっしゃっています。

前方後円墳の円は「天」、方は「大地・土」を表します。

(中略)

前方後円墳は円の部分がまるで山のように盛り上がり、方形(四角)の部分はそこに至る里のようにつくられています。

高く盛り上がり天に向かっている山のような円の部分は、「高天原」を思わせます。
方形の部分は大地を表し、「葦原の中国(なかつくに)」と呼ばれているこの世を思わせます。

棺があるのは円の部分ですから、本来は前円後方墳と呼ぶべきでしょう。

田中英道先生の著書はこちら
日本国史(上)

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