【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅③

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【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①
【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②

吉田八幡神社

ご祭神は八幡大神、神功皇后、高良神(こうらかみ)

八幡大神はまたの名を「誉田別命(ほんだわけのみこと)」といい、後の「応神天皇」を指します。
神功皇后は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」であり、誉田別命のお母さんです。
この神功皇后が三韓征伐をしますが、この時すでに神功皇后は誉田別命を身ごもっており、出産を遅らせるために腹にさらしを巻いて三韓征伐に向かったという、とても強いお方です。

・・・今であれば「女性に何てことをさせるのだ!」と、フェミニストが怒って来そうですが(笑)

高良神とは「武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)」であり、景行天皇から仁徳天皇までの4代に渡り仕えた臣下です。
神功皇后ともゆかりの深いお方で、和歌山生まれです。
よく和歌山県内の神社を参拝すると、武内宿禰さんをお祀りしている神社が多いことに気づくと思います。

ちなみに、「宿禰」とは称名(たたえな)です。

説明板より

鎮座地は昔より「やはた山」と呼ばれ、八幡大神とは特に縁が深く、その周辺に「九海士(くあま)の里、九艘谷(くそうだに)」と言う地名が残っており、「九艘谷」は入江となっていたと言われ、神功皇后が三韓征伐の帰途の折、この地に行宮所を設け、しばし、この地に留まられた。
この地を出立するに当り、9人の供の者に船1艘ずつ与えて帰宮された。
留まった9人の供の者は、その舟で漁業に努め、農耕に精出し、行宮の聖地に八幡大神をお祀りしたと伝えられています。

天智天皇の時代(670年頃)、九海士の里のむら長「早鷹」という者が、子供が無いのを憂い、八幡大神に祈願の末、「宮子姫(髪長姫とも呼ぶ)」を授かり、姫は文武天皇の御側としてお仕えしたと伝えられています。

当神社の向かいに文武天皇の勅願寺である「道成寺」が建立(701年)されて栄えたが、神社は荒廃しました。

その後、改めて石清水八幡宮より勧請し、東吉田政所某なる住宅の西に一時奉斎、(現在の藤田小学校西約200m付近)、後に八幡山の現在地に遷したと言われています。

境内地に神宮寺の真言宗浄国寺が建立されたが延宝3年(1675年)に道成寺の末寺となり、龍宮山雲性寺に改称しましたが、明治3年頃焼失しました。

八幡山北麓に上阿田木神社より勧請された「愛徳山王子社」も鎮座していましたが、その後荒廃し、現在はその跡を留めていません。

明治6年村社となり、明治41年に氏子地域内の小社が合祀されました。

秋の例大祭は、「やはたの朝馬」の行事が催されて賑わったが、昭和初頭より馬が少なくなり、馬駈けは途絶えた。
その後、平成12年に氏子総意に依り、例祭日の神賑(かみにぎわい)行事は形を変えて復活しました。

なお、琴平神社の例祭3月10日に執り行われ、氏子、崇敬者より餅米の奉納があり、「1畳に延ばした厄除餅の餅撒行事」も行われています。

「行宮」とは、「あんぐう」または「かりみや」とも呼ばれ、一時的に建設された施設のことをいいます。

「勅願寺(ちょくがんじ)」とは、時の天皇が国家鎮護や皇室の繁栄を祈願して建立または指定したお寺のことです。
和歌山県には、道成寺の他に青岸渡寺や長保寺(ちょうほうじ)があります。

「神宮寺」とは、神仏習合の思想の元に建てられた神社に付属するお寺のことで、僧が仏式で神社の祭祀をするための施設といえばいいのでしょうか。
「神仏習合」というと、平安時代のイメージがありますが、神宮寺の建立が始まったのは奈良時代、つまり仏教公伝からのようです。

ちなみに、昔は「仏教伝来」と呼ばれていましたが、今は538年(または552年)に百済から公式に伝えられた年を「仏教公伝」と読んで区別しています。
日本は海洋国家であり、海洋民族でもありました。
人々は優れた航海技術をもって、様々な国と交易をしていました。
その中で、「公伝」以前に私的に仏教が入っていたので、それと区別をしています。
那智でも、インドの裸形上人が那智の浜に漂着したとされているのは317年です。
「公伝」よりもずっと昔のことです。

仏教公伝の真相については、こちらをご参照ください。
日本文化はChinaやKoreaからの渡来ではない

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅④へ続きます。

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