アイデアを絞り出す効果的な方法

ようやく、この19日に開催される講座のPPTがほぼ完成しました。
日本語指導講座、緊急のガイド手配、イベントの段取り、下見や研修の日程調整と、最近多忙を極めていて、なかなか取り組めませんでした。

今回PPTを作成するにあたって非常に参考になったのが樺沢紫苑さんの著書「アウトプット大全」でした。

樺沢さんは90分の講演をする場合、「1枚1分」で90枚のスライドを作るそうですが、これを実に2日でやってしまいます。

わたしが今回参考にさせていただいた方法が「インデックスカードに100個、思いつくままにアイデアを絞り出す」というものです。

インデックスカードとは百均で売られている無地の単語カードのようなもので、だいたい100枚単位で売られています。

それに思いつくままに書きなぐっていき、最終的に100個のアイデアを出すというものです。

話だけを聞くと難しそうですが、案外芋づる式に出てくるものです。

今度はそれをカテゴリー別に分類します。

これであっという間に2時間分のネタができてしまいました。

もし、あなたが本を書くとか、講演をするとかいう場合には絶対にオススメする方法です。

ここまで出来て、初めてパワーポイントを開きます。
今回はたくさんの調べ物や取らなければならない写真などがあったので2日とはいきませんでしたが、パワーポイントを開く段階ですでにほぼ完成していますので、あとは微調整をすれば終了です。

とにかくまずは書くことです。

頭の中でひしめいている考えが一気に片付きますので、ぜひオススメします。

今日ご紹介した書籍「アウトプット大全 」もオススメです。

興味のある方はこちらからどうぞ(画像クリックでAmazonに飛びます)

神社での参拝方法を分解する ~柏手編~

今日は、神社での参拝方法を分解する・柏手編です。

柏手(かしわで)の語源は定かではありませんが、拍手(はくしゅ)の誤写であるとか、手を合わせた形が柏の葉に似ているからとか、昔は柏の葉に食事を盛り、感謝の意味を込めて手を打っていたことに由来するという説があります。

まあ、とにかく手を打つことです。

今日はその柏手の作法について、一般に「作法」とされている打ち方と、小笠原流での打ち方を照らし合わせてお話をします。

神社本庁と小笠原流の違い

神社本庁では

「胸の前で両手を合わせ、右手を少しずらします」

としています。
これは神社本庁だけではなく、この作法が一般的とされています。

一方、小笠原流では右手をずらすことはせず、揃えたまま打ちます。

右手をずらす意味、ずらさない意味

では、右手をずらす意味とは何でしょうか?
所作にはおおかた、そうなった理由があるはずです。

一つは、神への敬意を表すためであるとされています。
陰陽の考えに基づくものだと思いますが、左が陽で神、右が陰で人を表すことから、右を少し下げるのだという考え方です。

もう一つは、柏手を2回打ったあとでずらした右手を揃えますが、これは右手がずれている時点ではまだ神と一体になっておらず、その後に指を揃えることで初めて神と一体となり、その力を得ることを表すのだとか。

また、手をずらすことにより、よりはっきりと音が鳴るからとも言われています。
はっきりとした音は神様にも伝わりやすいのでは?と言われているとか。

では、小笠原流はなぜそういった考え方がないのでしょうか?

理由は単純明快です。

「手をずらして打つのは人を呼ぶ時」

本来、手をずらして打つ動作は「ご飯が出来たよ~」など、人を呼ぶ時にしか打たないそうです。
なので、小笠原流では「神様用」と「人間用」で、打ち方を区別しているんですね。

また、手をずらして打つことではっきりとした音が鳴るといいますが、練習すれば揃えた状態でもはっきりときれいな音が出せます。

「二礼二拍手一礼」が「作法」となったのは、戦後とか明治時代とか言われていますので、長い長い神道の歴史から見てつい最近のことです。
それまではその土地や社によって、あるいは人それぞれの参拝方法があったものだと思います。

柏手の「右手をずらす」という作法も、戦後の後付けかもしれませんね。
なんでわざわざ「神様とまだ一体でない」という状態を作り出す必要があるのか、その意味がわかりません。
ならば最初から「神様と一体でありますように」という願いを込めて揃えて打つ方が理に適っていると思いますがね。

どちらをお客様にお伝えするか(あるいは両方をお伝えするか)はおまかせしますが、「常識」とされていることが、実はその理由がそんなに説得力がなかったなんてこともあります。
この柏手の例も私はそう思います。
常識を疑ってみるとか、その理由を探ることも大切なのかもしれませんね。

手を開くのは肩幅まで

ガイドの中には「さてみなさん、お手を拝借ぅ~!」と言わんばかりに両手をいっぱいに開いて柏手を打つ人がいます。

入門 小笠原流礼法によると、武家社会では直垂(ひたたれ)のように袖の大きな装束を着用した場合は手をいっぱいに開いて打っていたそうですが、現在のような洋服や着物では、そのような所作は不自然です。

小笠原流でも、神社本庁でも、手を開く幅は肩幅までとされています。

直垂については、装束の種類(直垂)をご参照ください。

今日ご紹介した柏手を始め、姿勢、室内出入りの作法、物の持ち方・受け渡し、訪問・来客の作法、和服の扱い、暮らしの心得、食事の心得など、小笠原流礼法の初歩を網羅しています。
本書に書かれている作法は本当に無駄がなく、体の構造に沿った非常に美しい所作です。
勉強して損はないと思います。

恥ずかしくない作法で正しく人と接していきたいものですね。

様々な作法が網羅された「入門 小笠原流礼法」はこちら↓

神社での参拝作法を分解する ~拝礼編~

今回は、神社での参拝作法を分解すると題してお話をします。
神社での参拝は、一般に「二礼二拍手一礼」とされていますが、ただ単にすればいいというわけではありません。

ガイドでさえも、残念な参拝作法をよく見かけます。

日本の民間外交官である通訳案内士が、所作の崩れた参拝作法を教えることは避けたいものです。

やはり所作の美しさがなければ、相手(神様)にも誠実さが伝わらないでしょうし、内面の心の在り方が所作にも現れるのではないでしょうか。

また、普段から美しい所作を心がけることは、日常生活においても相手への敬意をきちんと表すことにもつながってきますので、ないがしろにしないように心がけたいものです。

そこで、「二礼二拍手一礼」の中から、今日は礼だけを取り出し、神社本庁などで紹介されている作法と、小笠原流礼法講座で習ったことを照らし合わせてお話しようと思います。

小笠原流とは?

小笠原流とは、礼法・弓術・弓馬術の伝統のすべてを意味するもので、約800年の歴史があります。
礼法はその一部ですが、鎌倉時代から江戸時代の武士の礼法で、弓術と弓馬術が結びついたものです。

「流鏑馬」と聞けばピンとくる方が多いのではないでしょうか。

現在は、小笠原清忠氏が三十一世(!)宗家となっています。

最敬礼とは

さて、本題です。

社本庁では、90度に体を曲げて礼をすることが正しい作法とされています。
よって、体を90度に曲げることが、最敬礼と言ってもいいでしょう。
神社本庁/参拝方法

伊勢の神宮では、動画では特に角度については言及していませんが、HPには「90度に腰を曲げ」と書かれています。

小笠原流礼法での礼の定義では、体の角度ではなく、手の置き位置によって決まります。

体は「主」であり、手は「従」、つまり、手は体の影であり、手は体と一体で動くものです。
なので、体型や腕の長さによって、その人にとって一番深い礼が決まるものであって、角度ではありません。

小笠原流礼法での一番深い礼とは、現在では指先が自分の膝頭より少し上と、私は習いました。
江戸までは膝頭の下に指先が来ることが一番深い礼とされていたそうですが、体勢維持の観点からも不自然であることから、現在は膝頭の上になったと聞いた記憶があります(違っていたらすみません)

指先は膝頭の少し上

また、参拝作法から外れますが、現在は手をおへその辺りに組んで礼をする人(そのように指導している職場)や、バランスを取るためにお尻に手を当てて礼をする人がいますが、これは不自然な礼です。

特に、腕を前に組んでの礼には強い違和感を覚えます。
いつからあんな礼になったのでしょうね。

また、個人的な考えでは、体を90度に曲げる礼も、不自然な礼に映ります。
90度に体を曲げること自体知らない人もいるでしょう。
また、仮に知っていても「周囲の目があるから恥ずかしい」と思っている人もいるかもしれません。
そのような理由からか、体を90度に曲げて参拝している人をほとんど見かけたことがありません。

礼の姿勢

礼の姿勢も重要です。
手に意識が行くあまり、体が曲がっていては美しい礼ではありません。
体を丸めた礼にならないようにないようにするためには、襟がすかないように意識をすると体が真っ直ぐになります。

よく接客マニュアルなんかで「何度に体を・・・」と言っていますが、あれはあくまでも目安であって、重要なのは手の位置だということです。

礼はあくまでも手の位置によって深さが決まるものであり、体の角度ではないというお話でした。

今日ご紹介した礼を始め、姿勢、室内出入りの作法、物の持ち方・受け渡し、訪問・来客の作法、和服の扱い、暮らしの心得、食事の心得など、小笠原流礼法の初歩を網羅しています。
本書に書かれている作法は本当に無駄がなく、体の構造に沿った非常に美しい所作です。
勉強して損はないと思います。

恥ずかしくない作法で正しく人を接していきたいものですね。

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イサナギ・イサナミの子

ワカヒメの誕生

ワカヒメは、イサナギ・イサナミの長女として、筑波山でお生まれになります。
生まれた時の名は「ヒルコヒメ」といい、太陽が一番高い時に生まれたことから名付けられました。

しかし、ヒルコヒメは、両親が「アメノフシ(天の節)」という、当時の厄年の時に生まれた子だったので、捨て子にされてしまいます(この時代から厄年があったことは驚きですが)
この時代、厄年に生まれた子は、他人の手で育ててもらう風習があったそうです。

また、アメノフシに生まれた子は、父の体の病と、母の心の病を受け継ぎやすいと考えられていました。

その育ての親が、イサナギ・イサナミの重臣であるカナサキでした。

カナサキは、彼女を育てるため、兵庫県西宮にある廣田神社と西宮神社辺りの地を用意しました。
ちなみに、廣田神社の「廣田」の語源は「拾った」、すなわち、捨てられたヒルコヒメを拾ったというところから付けられているとか。

儀式

ヒルコヒメが1歳の時には、食べ始めの儀式、3歳からは、元旦に初日の出を拝み、3月3日にはひな祭りを行い、5月5日にはあやめとちまきで乗馬のお祭りをし、7月7日には星祭り、9月9日には菊の花と栗で天地に感謝する歌を詠んだそうです。

五節句は中国が起源で、仏教の伝来とともに日本に入って来たとされていますが、それよりずっと以前から日本で行われていたことを、ホツマツタヱには記載されています。

イナゴ退治

やがてヒルコヒメは成人し、アマテルカミが築いた伊雑宮(三重県志摩市)にお住まいになります。

しかし、キシヰ(和歌山)から、稲がイナゴの被害で全滅しそうだという知らせを受けます。
そこで、ホノコ(セオリツヒメ・アマテルカミのお后)とお供30人と共に和歌山に赴き、全員で虫よけの歌を西に向かって360回繰り返しながら大きな声で歌うと、イナゴは西に向かって飛び始め、そのすべてが海中に沈んだそうです。

日前宮と國懸神宮、玉津島神社

玉津島神社

稲の全滅を防いでくれたお礼として、人々はホノコに宮を献上することにしました。
その名をアヒノマエミヤをいい、現在の日前宮だそうです。
それ以前にあった宮は、アヒノミヤといい、後にクニカケミヤと改名し、現在の國懸神宮となりました。

また、人々はワカヒメにもタマツミヤという宮を献上しました。
これが現在の玉津島神社です。

ワカヒメの本領発揮?

ワカヒメは、育ての親であるカナサキが歌に秀でていたことから、和歌が大変得意でした。
ワカヒメがタマツミヤに滞在している時、伊雑宮から使い・アチヒコ(オモイカネ)が来ました。
ワカヒメは、アチヒコに一目惚れをして歌を贈ります。

キシヰコゾ ツマオミキワニ コトノネノ
トコニワキミオ マツゾコヰシキ

これは「マワリ歌」といって、上から読んでも下から読んでも同じ文字の並びになっています。
これを受け取ったアチヒコはカナサキに相談します。
すると、カナサキから「マワリ歌はアメツチ(天地)にもその効力が及ぶ。私が見る限り、娘(ワカヒメ)の歌は完全無欠に見える。とてもこの歌には断りの思いを返すことはできない」と言われます。

こうしてアチヒコとワカヒメは結ばれることとなりました。

だれか意中の人がいれば、マワリ歌を作って贈ってみてはどうでしょうか?(笑)

アマテルカミの誕生

五十鈴川

記紀では、天照大神は、黄泉の国から帰ってきたイザナギの左目を洗って出来たとされています。
しかし、ホツマツタヱによれば、イサナミは亡くなっておらず、イサナギとともに第三子をもうける儀式をした末にお生まれになっています。

その儀式とは、お二人とも富士山の山麓の池で、イサナギは左目を洗い太陽に祈り、イサナミは右目を洗い月に祈るというものだったそうです。
この儀式を1000日間、毎日欠かさず繰り返した末に、イサナミはアマテルカミを身ごもります。

さらに、東北では、トヨケカミが世継ぎの社を建てて、二人の子の誕生を、8000回も祈りました。

その甲斐あって、めでたくアマテルカミがお生まれになります。

あくまでも、古事記は神話であり、もちろんすべてが事実だとは思っていませんが、天照大神が生まれた経緯には大きな疑問がありました。
しかし、ホツマツタヱでは、この疑問がスッキリします。
天照大神は、こうした儀式を通した祈りによって生まれたのです。

アマカミと熊野の御祭神

ここまでのお話で、アマカミについてまとめておきたいと思います。

アマカミ

「アマカミ」とは、国の指導者であり、今の天皇にあたる方々です。
後に「スヘラギ」という呼び名に変わります。

「アマカミ」と呼ばれていた時代を「カミヨ」と言い、「スヘラギ」と呼ばれていた時代を「ヒトヨ」と言います。

初代アマカミは、クニトコタチ、七代目にイサナギ・イサナミ、八代目にアマテルがいらっしゃいます。

ちなみに、歴代アマカミは

初代 クニトコタチ
二代 クニサツチ
三代 トヨクンヌ
四代 ウビチニ・スビチニ
五代 オオトノチ・オオトマヘ
六代 オモタル・カシコネ
七代 イサナギ・イサナミ
八代 アマテル
九代 オシホミミ
十代 ホノアカリ(兄)・ニニキネ(弟)
十一代 ホホテミ
十二代 ウガヤフキアハワセズ

となります。

熊野三山の御祭神

大斎原

これを見た時に、二代クニサツチ、三代トヨクンヌ、四代ウビチニ、五代オオトノジ、六代オモタルは、速玉大社、那智大社の下四社に祀られている御祭神と同じだということに気づきました。
速玉大社・那智大社には、初代から十二代までの歴代天皇(アマカミ)が祀られていることになります。

「ん?クニトコタチは?」という声が聞こえてきそうですが、証誠殿に家津御子神とともに祀られています。
ちなみに、九代から十二代までは中四社に祀られています。

一方本宮は?というと、中四社までの御祭神は他の二社と同じです。
しかし、下四社の御祭神は

カグツチノミコト(火の神様)
ハニヤマヒメノミコト(土の神様)
ミヅハメノミコト(水の神様)
ワクムスビノミコト(農耕の神様)

の四柱です。

よく、「熊野三山は、十二柱同じ神様が祀られています」という説明を聞きますが、本宮だけは明らかに違います。
これがなぜなのかは、わたしも分かりません。
いずれ宮司さんに聞いてみようかと思っています。

スヘラギ

初代アマカミから数えて十三代目からは呼び名が変わり、「スヘラギ」となります。

初代 タケヒト 神武
二代 カヌカワミミ 綏靖
三代 タマテミ 安寧
四代 スキトモ 懿徳
五代 カエシネ 孝昭

と続き、やはりヲシロワケ(景行天皇)まで十二代続きます。

古代史ホツマツタヱの旅⑤ 神武東征とヤタガラス

神武東征②

橿原神宮

ヒフカ(日向)を発ったカンヤマトイハワレヒコ一行は、大分の宇佐を通り、吉備の国で3年間、戦の準備をします。
その後、再び船団を組んで難波にやってきました。
難波に上陸してから生駒山を越え、ナガスネヒコのいるアスカの宮に向かう予定でした。

しかし、ナガスネヒコの軍は強く、その戦で兄のイツセミコは重傷を負ってしまい、カンヤマトイハワレヒコの軍勢は紀伊水道を南下し、熊野からアスカに向かうことになりました。

途中、大阪のチヌというところで、イツセミコは亡くなります。
また、悪天候の海路の中、実の兄イナヰ、義兄のミケイリを失いますが、ようやく熊野に上陸することができました。
しかし、熊野の山は険しく、一行は道に迷ってしまいます。
そこに現れたのがヤタカラスでした。
その案内のおかげで、宇陀に着きました。

結局、ナガスネヒコは、君主のニギハヤヒに討たれることになります。

八咫烏の話

八咫烏(ヤタガラス・ホツマツタヱでは「ヤタカラス」)の由来について、先輩からは、「咫(あた)」は昔の長さの単位の一つであり、「1咫」が自分の手のひらの中指から親指までの長さ(約20cm)で、羽を広げた大きさが8咫(やあた・約160cm)あるカラスであったと聞きました。

この地方のカラスは、ハシブトガラス、ハシボソガラス、せいぜいミヤマガラスですので、その羽を広げた大きさは約100cmです。

古代史ホツマツタヱの旅 第1巻」では、八咫の鏡の大きさが240cmと書かれているので、1咫あたり10cmの誤差があります。

いずれにしても、現実的にそんな大きな、それも3本足のカラスが実在するわけがありません。

神武天皇の実在性については「ある」とか「ない」という議論が展開されていますが(ナンセンスな話ですが)、八咫烏の実在性については議論されたという話を聞いたことがありません。
天皇とは違ってカラスの話なので、別にいたとかいなかったとかいう議論をすること自体がバカバカしいという感じなのでしょうか。
あるいは、「神話だから」で片付けて終わりなのでしょうか。

八咫烏は実在の人物?

一般に「八咫烏」と呼ばれていますが、建角身命(タケツヌミノミコト)という、れっきとしたお名前があります。
また、速玉大社と那智大社には、建角身命を祀ったお社があります(本宮大社にも1889年の洪水以前はあったようです)

那智の扇祭り(火祭り)で12本の大松明を持つことが出来るのは、八咫烏の子孫である市野々地区の住民とされていました(現在は地区の人口減少で、その担い手が不足してきたため、市野々地区を含む那智勝浦町全体で担っています)

・・・「八咫烏の子孫」です。
カラスが人間の子を産むわけがありません。

玉置神社の駐車場で、うどん屋を経営している十津川村生まれ、十津川村育ちのおじいさんから聞いた話では、おじいさんが小学生の頃、学校で「うち(十津川村)の住民が神武天皇を案内したと習った」という話を聞きました。

その住民とは猟師のことであり、猟師は杖を常に持っていたそうです。
また、毛皮をまとっていました。

「カラス」となった理由については、毛皮をまとい、隊の先頭を飛ぶように速く、険しい山を案内しているその後姿を見た時に、あたかも三本足(両足+杖)のカラスのように見えたからではないか?
という話も聞きました。

「こんな山の中、土地勘のない人間が行けるわけがない」ともおっしゃっていました。
しかし、山のことを熟知している猟師であれば、この問題は氷解します。

つまるところ、多少の脚色があったにせよ、地元の住民が案内したということになります。

今は流石に小学校でそんなことを教えていないでしょうが、おじいさんの世代の十津川村の住民は、それを代々学校で習っていたようです。

十津川村の玉置神社に、八咫烏の話が伝わっているようなので、一度お話を聞きに行こうかと思っています。

あなたは、160cm~240cmの三本足の巨大なカラスが人間の道案内をしたという話と、地元住民が道案内をしたという話、どちらが説得力があると思いますか?

橿原遷都

「カンヤマトイハワレヒコは、ナガスネヒコの乱を無事おさめ、アマノタネコ(アマノコヤネの子孫)と、オオモノヌシ・クシミカタマに、都を遷すので候補地を探すようお命じになりました。橿原がいいとのことです。イハワレヒコも同じ思いであったので、アメトミに宮を作らせました」と、ホツマツタヱには書かれているそうです。

オオモノヌシも役職名

ここで登場する「オオモノヌシ」は、前の記事で記述した「タカミムスビ」と同じく、役職の名前だそうです。
大神神社の御祭神は、「大物主命(おおものぬしのみこと)」とされていますが、本当は「クシヒコ」が正しいそうです。
他にも、祭神としてよく聞く「コトシロヌシ」も役職名です。

ですので、会社でいうところの「部長」とか「課長」にあたるわけであり、「弊社の部長は和田です」という代わりに、「弊社の部長は部長です」といっているようなものですよね。

古代史ホツマツタヱの旅④ 神武東征の所以 

アマテルカミとトヨケカミ

伊勢の神宮に祀られているアマテルカミ(天照大神)とトヨケカミ(豊受大神)の関係ですが、一般にトヨケカミはアマテルカミの衣食住を司る神とされています。
しかし、ホツマツタヱでは、トヨケカミはアマテルカミの師であり、祖父でもあられた方と記載されています。

そして、アマテルカミの子孫からは天皇が生まれ、トヨケカミの子孫からは、天皇をお守りする人々が輩出されます。

藤原氏、大伴氏、物部氏、ヤタカラス(オオチ)などがその方々です。

トヨケカミの子孫(ひ孫)にはフツヌシ、その弟にタケミカツチがいますが、彼らはアマテルカミの家臣であり、ハタレの乱において、アマテルカミとともにこの乱を鎮圧しています。
この功績が讃えられ、フツヌシはアマテルカミから「カトリ」という名を賜り、それが香取神宮の始まりとなっています。

「タカミムスビ」は役職名

アマテルカミの師、トヨケカミですが、タカミムスビとも言われていました。
古事記では「高御産巣日尊」、日本書紀では「高皇産霊尊」とされている神様です。
しかし、ホツマツタヱでは「タカミムスビ」とは役職名であり、トヨケカミはその5代目にあたると書かれています。

タカミムスビは7代続き、その後は「ヒタカミノカミ」と名前が変わり、14代続きました。

このように、功績のあった人には「讃名(たたえな)」が贈られていましたので、同じ人物でもいくつも呼び名があったわけです。

熊野古道にまつわる有名な話では、野長瀬一族が護良親王をお助けしたことから、「横矢」という名前を賜ったというものがありますので、こういったことはよくあった話だったのでしょう。

神武東征の所以

ホツマツタヱに記載されている神武東征の所以は、記紀と内容が異なります。

そもそも、なぜ、神武天皇は日向から橿原に向かったのでしょうか?

現代語古事記・竹田恒泰 著 には、

「一体どこに住めば、平和に天下を治めることが出来るのでしょうか。東に行ってみませんか?」

と、神武天皇が申し上げたと書かれています。

日本書紀には

「天孫が降臨されてから百七十九万二千四百七十余年となる。しかし、遠いところの国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土の翁に聞くと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業を広め天下を治めるに良いであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降って来た者は饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都を作るに限る」

と神武天皇が言うと、諸皇子たちも

「『そのとおりです。私たちもそう思うところです。速やかに実行しましょう』と申された」

と書かれています。

ホツマツタヱではどうでしょうか?

ニニキネの時代には、国の指導者であるアマカミが二人いました。
ホノアカリとニニキネです。
二人は兄弟でホノアカリが兄でした。

ホノアカリはアスカの宮(奈良県明日香村)に居を構えていました。
ホノアカリは世継ぎとなる子に恵まれなかったため、ニギハヤヒを養子として迎えていました。
このニギハヤヒに仕えていたのが、ナガスネヒコです。
ナガスネヒコは、ホノアカリのこともあったので、ニギハヤヒに世継ぎの子が生まれることを心から願っていました。
しかし、一向に子を授かる様子がないことから、ナガスネヒコは「ヨツギフミ」を移し盗むという事件を起こしてしまいます。

「ヨツギフミ」とアマカミにしか与えられない重要なフミでした。
カンヤマトイハワレヒコは、次のアマカミになることが決まっていたのです。

この事件を知ったカンヤマトイハワレヒコが、ヒフカ(宮崎県日向)から兵を挙げました。

・・・どうでしょうか?
「天下を治める」という目的は同じですが、中身がまったく違います。

どれが説得力があるかはみなさんの判断にお任せしますが、ホツマツタヱには、こうした人間臭い話がたくさん残されています。
このことは、記紀に登場する神様は、ホツマツタヱではすべて実在した人物として描かれているからだと思います。
いや、むしろ反対で、ホツマツタヱでは、実在していた人物が、記紀では神格化されたということでしょう。

ちなみに、現代語古事記は、初めて古事記を読むなら一番分かりやすく書かれているので、まだ読んだことがない方にはお勧めの一冊です。

古代史ホツマツタヱの旅② イザナギ・イザナミ~天照大神

農業の進化

紀元前1000年頃になると、木の実を中心とした農業に新たなものが加わった。
稲作。
まずは陸稲(おかぼ)というものから始まり、水田へと変わった。
民が飢えることなく豊かで安定した世の中にするためには、水田の普及はなくてはならないものとなった。

群婚から結婚へ

それまでは、不特定多数が交わりを持つ群婚だったが、それが単婚に変わり、夫婦として力を合わせて農業に取り組むことができるようになった。

イザナギ・イザナミ

二人で7代目アマカミ(天皇)
民が重労働から開放されるように、牛や馬を使った農業を考えた。
また、国民の意識を上げるために、国語の普及にも努めた。

二つ目の神器

しかし、どうしても言うことを聞かない民に対しては、国の秩序を守るために「サカホコ」をもって罰する必要が出てきた。
イザナギ・イザナミは、「トの教え」と「サカホコ」を持って国を治めた。
この「サカホコ」が剣となり、二つ目の神器となる。

鳥居の意味

鳥居の一つの柱が「トの教え」、もう一つが「サカホコ」を表し、2つの柱をつなぐ横の柱の「ヌキ」は、潤いを表す。

アマテルカミの誕生

イザナギ・イザナミは二種の神器で農業の指導と国語の普及のために、全国を回った。
この間に四人の子を作った。
長女のワカヒメは、筑波山で生まれた。
ワカヒメは歌が上手で五七五七七の歌は後の「和歌」となって普及するようになった。

長男のアマテルカミは、8代目アマカミとなり、その後の日本の礎を作った。
アマテルカミが生まれたのは、富士山のふもと。
アマテルカミは後に「天照大神」と呼ばれるようになる。

次男のツキヨミは、宮崎県宮崎市で生まれ、四国地方を治める。
三男のソサノヲは、三重県熊野市に生まれた。
ソサノヲは青年期に国を揺るがす大事件を引き起こすが、後に改心して出雲の国を治めた。

8代目アマカミとなったアマテルカミは、両親のイザナギ・イザナミの残した安定した国をさらに発展させるべく腐心した。(続く)

天照大神は男性

「天照大神」といえば、女性が定説になっていますが、これは記紀にそういったことを匂わせる記述があるからです。
日本書紀の「素戔嗚尊の誓約」では、素戔嗚尊は天照大神のことを完全に「姉」と言っています。

しかし、記紀は、当時の政治的な情勢から事実を書き換えられた可能性があるため、真実ではない部分があるようです。
文献は忘れましたが、日本書紀の編纂は女性天皇である持統天皇の崩御の後であることから、女性天皇の正当性を後世に知らしめる意図が働いたのではないか、と読んだことがあります。

記紀の原書がこのホツマツタヱであるならば、天照大神は男性ということが分かります。

いずれにせよ、ホツマツタヱでは、天照大神は男性として描かれています。

【お勧め書籍】古代史ホツマツタヱの旅① クニトコタチ

古代史・ホツマツタヱ

ホツマツタヱとは、日本国の歴史書であり、古事記・日本書紀(以下、記紀)の元となったと言われています。

ホツマツタヱは、四国宇和島の小笠原家から、全巻が桐の箱に入った状態で発見されたそうです。

この書からは、この国の成り立ちや桃の節句や端午の節句などの年中行事が日本から発信されているそうで、縄文時代の生活の様子などが読み取れるそうです。

今回は何回かに渡って、ホツマツタヱについて自分が勉強したことをアウトプットしていきます。

「記紀で伝えられていたことが、実はこうだった」という発見があると思います。

クニトコタチ

クニトコタチがこの国を作る。
紀元前4000年くらいに日本に実在していた人物であり、最初の天皇となったお方。
この頃は「天皇」とは言わず「アマカミ」といった。
イザナギ、イザナミは、7代目のアマカミであり、アマテラス(アマテルカミ)はその8代目に当たる。
クニトコタチの意思を継いだ歴代アマカミは、その地位に甘んずることなく一生懸命国の発展に励んだ。

トの教えと勾玉

クニトコタチは8人の御子を持つ。

クニトコタチはその子らに、

「これからは、あなた達の時代です。あなた達の力でこの国を素晴らしい国にして欲しい。まず先に行うことは民を豊かにすることです。民の安定した生活こそが、この国の平和と安全をもたらすのです。自分の身を惜しんではなりません。私が教えた、木の実の栽培方法と、住居の建て方は、必ず役に立ちます。この教えを持ってそれぞれが、創意工夫してこの国の発展に尽くしてもらいたい」

と言った。

そして8人の子たちは、日本全国に草木の種と、竪穴式住居の建築方法を携えて日本に散らばっていった。
あるお方は海を渡って中国にまで及んだ。

クニトコタチが子供たちに授けた教えを「トの教え」と言い、それが最初の神器となる。
後世において、「トの教え」は形で表されるようになる。
それが「勾玉」の形。

クニトコタチは、森や洞窟に住んでいた人々を集め、栗の木をたくさん植えて集団生活を始めた。

当時の主食は栗やクルミといった木の実であった。

栗の木の利用

現在の栗は品種改良されて背が低くなっていますが、昔の栗の木は大変高く、神殿の建築材料などにも使われていたそうです。

ちなみに、三内丸山遺跡には、栗の木で作られた大きな神殿に跡が発見されているそうです。
三内丸山遺跡は紀元前3500年くらい前。

ホツマツタヱでは、記紀では神様となっているお方が、全員実在した人物として描かれています。
そこには、人間臭いお話もあり、こちらのほうが現実味があるのでは?と私は思っています。

今日はここまでです。

インプット量が少なくて申し訳ございません。

英語化は愚民化(お勧め書籍)

今日は、施 光恒(せ てるひさ)氏の著書、英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書)をご紹介しようと思います。

この本が出版されたのが2015年、「クール・ジャパンムーブメント」で「英語特区」構想が打ち出された直後でしたが、私はようやく今年この本の存在に気づき、読んでみました。

非常に納得する部分が多く、現代の英語化に警鐘を鳴らす重要な意見であり、「私達に今できることは何か?」ということを考えさせられた一冊です。

著者の施氏は「グローバル化」について、真っ向から異論を唱えていますが、ハッキリ言って、私も賛成です。

「それが英語に携わっている人間の言うことか」という声が聞こえて来そうですが、英語を扱う人間だからこそ、様々な外国の方々と触れる機会を与えられ、改めて日本語の素晴らしさを知ることができ、「日本語を守ろう」とも思うようになったからです。

ではさっそく行きましょう。

普遍から土着へ(中世ヨーロッパ)

ちょっと耳慣れない言葉ですが、この本では中世ヨーロッパと明治時代の日本を例に挙げ、どのように発展して成功して来たかを説明しています。

中世ヨーロッパでは、公式文書、大学の講義、聖書に至るまですべて当時のヨーロッパの共通言語であるラテン語で行われており、ラテン語が出来る人が「エリート」とされていたため、その他多くの土着語しか話せない各国の民衆は、こういった世界からは隔離されていたそうです。

聖書について学ぶことは出来たましたが、カトリック教会の「翻訳」を通してでしか学べませんでした(聖書は元々ヘブライ語やギリシャ語で書かれていたが、ラテン語の聖書を使うことが正しいとされていた)

「免罪符」の登場など、いかにラテン語が理解できない民衆でも「これはおかしいのではないか」という機運が高まり、世界史で習った宗教改革が行われます。
その宗教改革の中に「聖書の翻訳」があったそうです。

ルターはドイツ語に、ティンダルは英語に、オリヴァエタンはフランス語にと、それぞれの言語に翻訳されていきます。
民衆は大喜びですが、気に入らないのは、今まで好き勝手?やってきた教会です。
ルターは教会から破門され、ティンダルに至っては処刑(!)されています。

・・・翻訳で処刑ですよ。

しかし、彼らの献身的な(本当に骨の折れる)翻訳をした彼らのおかげで、聖書についての正しい解釈ができるようになり、民衆も聖書について、母語で議論ができるようになりました。

土着語には、悲しいかな抽象的で知的な語彙がなく、民衆にも分かるように翻訳するということがいかに大変だっか、想像に難くありません。
ルターやティンダルは、新しい語彙を作ったり、文法を整備したり、苦悩を重ねたといいます。

聖書の翻訳は、民衆が抱いていたコンプレックスをなくし、母語に対する自信を生む結果になりました。

土着から普遍へ(明治時代)

明治時代にも、似たような事が起こります。
恐らく聞いたことがある方もいると思いますが、西洋の進んだ知を学ぶに当たっては、当時の日本ではまだ日本語で表せる語彙がなく、高等教育は英語で行われていました。

当時はそういった環境だったので、すぐれた英語能力をもった学習者がたくさんおり、英語話者が絶賛するほどの人もいたそうです。

しかし、高等な学問を英語でしか学べない環境ではなく、万人が母語で学べる環境を整えようと、先人たちはあらゆる分野において翻訳を始めたおかげで、私達はいま、ほとんどすべての学問を母語で習得できるようになっています。

社会、銀行、経済・・・今では当たり前に使っている言葉が生み出され、中国などに「逆輸入」されることとなります。

現代の日本人が英語を話せないのは、英語を学ばなくても学問ができる環境にあるからだと言えます。

日本語廃止論

「西洋に負けない国にするには、日本語を廃止して英語を公用語にするべき」という考えもあったそうです。
日本語廃止論を唱えた森有礼は、イェール大学の教授、ウィリアム・D・ホイットニーからの「援護射撃」もらおうとしましたが、逆に「まずは母語を豊かにせよ」と諭され、失敗に終わります。

福沢諭吉も日本語廃止論について痛烈に批判しています。

また、馬場辰猪は「言語様式がまったく異なる英語を、日本人が学ぶことは骨が折れ、時間の浪費につながる。なすべきこと、学ぶべきことが多い若者の時間が、無駄に費やされることになる」と説いています。

「英語化」は社会の格差を生む

施氏は、現代の英語化、グローバル化、ボーダレス化は「普遍から土着」ではなく「土着から普遍」に逆行するものであり、
「政治や経済に積極的に参加できる人は能力や時間を有する特権的な人々に限られてしまう」
「英語が使えるか使えないかによって経済的な格差が生じ、格差社会化が進む」
「格差社会化の進展に伴って日本人という国民の一体感も失われていく」
と警鐘を鳴らしています。

また、英語化することによって日本語でものを考えるということがなくなり、日本人らしさも失われるとも説いています。

言語と経済は別

言語と経済は別であるということも、書かれています。
たとえばGDPの上位5カ国はアメリカ、中国、日本、ドイツ、フランスであり、どの国も自国の言語をしっかり守り、発展させてきた国であり、他方、英語を公用語の一つに加え、日本よりも英語が堪能な人が多いフィリピンやマレーシア、ケニアなどの経済力はそれほどではありません。

逆にインドでは、大学の教育を英語ではなく、インドの言葉で行うべきだという議論が高まりつつあるそうです。

英語支配の序列構造

津田幸男氏の「英語支配の序列構造」についても説明がされています。

1.特権表現階級

英語を母語とする国々。アメリカ、イギリス、オーストラリアなど。

2.中流表現階級

英語を第二公用語としている国々。フィリピン、マレーシア、ケニア、インド、プエルトリコなど、ほとんどの中等教育を英語で行っている国々で、日常においても英語が必要とされている人々。
これらの国々の専門的職業は英語となっているため、英語母語話者に近い。

3.労働者表現階級

英語を外国語として学んでいる国。日本、ドイツ、フランス、タイ、中国、韓国など。
「労働者階級」と名付けた理由について、「生涯英語を学ばなければならないから、つまり『英語学習』という労働を生涯強いられる」から。
「英語能力の低さに、常に「特権表現階級」と「中間表現階級」に抑圧される運命にある」と津田氏は述べている。
外交、ビジネス、学術などの各分野において、上位の階級のものに主導権を握られ、劣位に甘んじなければならない。

4.沈黙階級

英語と接触することがほとんどない国々。イスラム諸国や北朝鮮など。

施氏は、日本がいくら頑張ってもせいぜい「中間表現階級」の下部に仲間入りする程度と述べており、「結局、日本が進めているグローバル化とは、アメリカのような国になりたいと強く望んで、その実、フィリピンやインドのように発展途上国に堕ちてしまうことだ」という趣旨の、京都大学大学院教授の藤井聡氏と評論家の中野剛志氏の対談の内容について同意しています。

日本人に出来ること

英語話者と対等に議論して、勝てる見込みがない中、では、日本人として今後どうすることが最善なのか、ということについても、施氏は提案しています。

「日本語、日本文化の価値を世界に主張し広める努力をし、日本語の世界標準語化を狙ってはどうか」とまず述べています。

しかし、
「押し付けがましいことを嫌う日本人は、英語圏の国のようなことはできない。ならば、明治時代の先人たちが苦労して日本の近代化に貢献してきたように、今度はそのノウハウを、まだ整備されていない国々に支援をし、各国が、それぞれの母語で自国の発展ができるように手助けをする。それが国際貢献ではないか」と提案しています。

私はこれを読んで、まさにその通りだと納得してしまいました。

施氏は、最後に「英語が下手でも安心していられる国を作ろう」「日本人が目指すべきは、日本人の英語強化ではない。目指すべきは、非英語圏の人々が、安心して日本人と同じように英語が下手いられる世界の実現である」と締めくくっています。

他にもここではご紹介しきれない興味深いこともありましたが、施氏の言わんとすることをご理解いただければ幸いです。

ご興味のある方は、ぜひ一度読んでみてください。