ヤマタノオロチ退治

ワカヒメとの「誓約」を終えると、ソサノヲはネの国に向かいます。

さて、ソサノヲに恋心を抱いたハヤコの執念は相当なもので、ソサノヲの婚約者を次々に殺害していきます。

このハヤコに、水田による農業の改革で、その恩恵に預かれなかった人々が同調して集まってきました。
この「悪党」のことを「オロチ」と言います。

ネの国に着いたソサノヲは、出雲の村長を訪れた時に「ヒカワの八重谷にオロチがいて私の娘七人が奪われて殺されてしまいました」という話を聞きます。
そして、最後の娘イナダヒメも奪われようとしていると聞きます。

こうしてソサノヲは、オロチ退治を決意します。

ソサノヲはその晩、姫の格好をして酒を用意し、オロチの館で待ち受けます。
そして、オロチが酒を飲んで寝たところを斬り殺しました。
さらに、この騒動の「首謀者」、ハヤコも斬り殺します。

この時に使った剣を「ムラクモの剣」と言います。

・・・記紀では「ヤマタノオロチ」を斬った時に、その尻尾から剣は発見しますが、ホツマツタヱでは始めからソサノヲが使っていたんですね。
また、「オロチ」が悪党のことを指すことに、合点がいきます。
神話は神話として読めばいいと思いますが、個人的にはこうした現実味のある話の方が好きですね。

天照大神と須佐之男命の誓約(うけい)

イサナギ・イサナミの第一子を覚えているでしょうか?
ヒルコヒメこと、ワカヒメです。
ワカヒメは歌に秀でていたことから、後に「五七五七七」の歌を「ワカ」と呼ばれるようになりました。

さて、ソサノヲはアマテルカミからネの国へ追放されます。

ネの国に行く途中、姉のワカヒメの所を訪ねます。

ワカヒメは、ソサノヲの暴れん坊ぶりに、自分の国を奪われるのではないかと思っていました。
当時ワカヒメは、オモイカネと結婚し、琵琶湖近くのヤスカワ(滋賀県野洲郡中主町あたり)に住んでいました。

ソサノヲがワカヒメに「私は国を奪いに来たのではありません」というと、ワカヒメは「それならば、そのことをどのようの証明するのか」と尋ねました。

「もし、私がネの国に行った後に女の子を授かるようなら、私の心はまだ汚いものだと思ってください。でも、男の子を授かったならば私の心が清らかになったと思ってください」

と言い残し、ソサノヲはネの国に向かいます。

・・・あれ?

この話、天照大神と須佐之男の話ですよね。
しかしホツマツタヱでは、ソサノヲとの誓約を交わしたのは、イサナギ・イサナミの長女・ワカヒメだったのです。

記紀では女神の天照大神が男装をしたと思わせる記述で語られています。
そのあと、「神産み合戦」をします。

一方ホツマツタヱでは、ワカヒメが「戦闘態勢」を整える記述があります。
そして、「神産み合戦」ではなく、「私の子が女の子ならば、男の子ならば・・・」と、サラッとしています。

このように、記紀ではどうしても話のつじつまが合わない所が出てきて、読者を混乱に陥れてしまうところがあります。
記紀こそ編纂者の解釈が間違っていて(あるいは意図的に別解釈をして)、つじつま合わせのために書き加えられた可能性があるのではないでしょうか?

それよりも、誓約で登場するのは天照大神ではなく、ワカヒメですから。
根本的に違いますよね。

「天照大神が女性でなければ、須佐之男命との間に御子神が生まれないではないか」という反論が来そうですが、ではそういう方に逆にお聞きします。

黄泉の国から戻られたイザナギが、単身で天照大神以下月読、須佐之男といった十四柱もの神々を産んだという記紀の記述に対して、どう説明されますか?

ホツマツタヱを読み進めていく度に、天照大神(アマテルカミ)が男性だということが当たり前になってきます。
それでないと辻褄が合いませんしね。

神話は神話で楽しんで読めばいいと思います。
ただし、それを「正史」として解釈・研究をすることとは別問題です。

アマテルカミが男性だということは、いずれ明らかにされていくことを期待します。
女系天皇容認論者を黙らせるためにも、この証明は必要だと私は考えています。

ソサノヲ追放

青年になったソサノヲは、父・イサナギからネの国に行くように言われます。
ネの国とは現在の新潟県、富山県、石川県、福井県、京都府の日本海側を指すそうです。

ネの国は国政が乱れていたので、ソサノヲはその改善を命じられたのです。

その中でソサノヲは、サホコ(出雲)で自分の居場所を見つけ、ある女性と結婚しようとしますが、アマテルカミの了解も得ないままであまりにも急すぎたために破談になってしまします。
この一件から、ソサノヲはアマテルカミに恨みを持つことになります。

一方で、アマテルカミの后・モチコはアマテルカミとの間に授かった子が、アマカミの地位に就けないことを恨みに思っていました(アマテルカミの后は12人いて、そのうちの正后・セオリツヒメ(ホノコ)の子が継承すると決まっていました)

さらに、モチコの妹・ハヤコも、アマテルカミの元に嫁いでいましたが、あろことか、ソサノヲに恋心を抱いてしまいます。

こうして、ソサノヲ、モチコ、ハヤコは、アマテルカミを殺害し、ソサノヲをアマカミにしようという計画を立てます。
しかし、この計画を、セオリツヒメの妹でもあり、アマテルカミの后の一人でもあるハナコに知られてしまいます。

ソサノヲは、ハナコに告げ口をされた仕返しに、ハナコが機織り(はたおり)をしていた家の屋根に穴を開けて馬を投げ入れます。
驚いたハナコは、逃げた際に機織り機の一部が突き刺さってしまい、命を落としてしまいます。

他にも、すでに成長していた稲に上から種を撒いて稲の成長を阻害したり、神衣を織る斎服殿を汚したりもしています。

こうした一連の事件を引き起こした罪で、ソサノヲは髪を切られ、爪を抜かれて死刑になるところを、セオリツヒメの助命のお言葉により、命拾いをします。

助命されたソサノヲは、今度は「追放」という形で、ネの国に向かうことになるのです。

ソサノヲ追放の真意

古事記では、馬を投げ入れて亡くなった女性を「機織り女(はたおりめ)」としか書いていません。
ソサノヲは単にいたずらをしたのではなく、その背景には、アマテルを殺害し自分がアマカミになろうとする計画を告げ口した、セオリツヒメの妹であり、同時にアマテルカミの后の一人でもあったハナコへの仕返しでした。

「ホツマツタヱは偽書だ」と言っている人がいるようですが、私が思うに、たとえホツマツタヱが偽書であったとしても、本当に話がよくできていますし、その内容には説得力があります。
もちろん、ホツマツタヱが一番正しいとは言いません。

記紀とホツマツタヱ、どちらが話の筋が通っているかはあなたの判断にお任せしますが、私は読めば読むほど、記紀で語られていたことに対する疑問が次々に解けていき、知らない間にその世界に引き込まれてしまっています。

次は記紀に登場する天照大神と須佐之男命の誓約の話です。

ソサノヲとクマノ宮

イサナギ・イサナミの三男として生まれたソサノヲは、幼少の頃から我が強く、気に入らないことがあれば駄々をこね、大声で叫び、泣きわめいていました。

ホツマツタヱには、ソサノヲが生まれた時のことを、このように書いているそうです。

ソサ国に生む
ソサノヲは 常に雄たけび
泣きいさち 国民くじく
イサナミは 世のクマなすも
わが汚えと 民の汚えくま
身に受けて 守らんための
クマノ宮

その性格は成長しても治まらず、イサナミは、自分の汚れがソサノヲに宿ってしまったのだと思います。

そして、世の隈を一身に受けて民を守ることを決意され「クマノ宮」にお住まいになり、ソサノヲの悪行の償いを始めます。

ソサ国とは紀伊半島南端部の古名。
ソサノヲはそこで生まれたので「ソサノヲ」と名付けられました。

本宮大社の主祭神、家津御子神(けつみこ)ですが、古代史ホツマツタヱの旅 第2巻によると、「け」とは汚気(おけ)のことで、「つ」は上下をつなぐ助詞であり、「汚気から生まれた御子」つまりソサノヲのことをいうそうです。

また、本宮大社の創建年代は一応「不詳」となっており、最古の文献では崇神天皇65年(紀元前33年)とされていますので、一応今年(西暦2020年)で、創建2052年となっていますが、仮にこの「クマノ宮」が本宮大社だとすると、創建年代はもっと古くなります。

アマテルの時代が紀元前1000年頃とされていますので、3000年はくだらないことになります。

イサナギ・イザナミの子② 

イサナギ・イサナミは、諸国に水田開発を行い、同時に重労働であった農作業に牛と馬を用いることを広めます。
また、方言などで意思疎通が困難であったことから、国語を「アワウタ」とともに広めるなど、多くの功績を残しました。

あかはなま いきひにみうく
ふぬむえけ へねめおこほの
もとろそよ をてれせゑつる
すゆんちり しいたらさやわ

余談ですが、この歌を歌う(というか音読する)と、気持ちと体が整ってくるそうですよ。

師・トヨケカミとの出会いからアマカミへ

さて、アマテルカミは、私的に甘やかしてはいけないということで、第5代タカミムスビ・トヨケカミに預けられ、ここで「アマナルミチ」を学び、アマカミとしての資質を磨いていくことになります。

そうして8代目アマカミとなったアマテルカミは、この時代に起こったハタレの乱を通して、国の基本方針を見直し、次世代につながる政治をしようと改革をします。

当時から、1年は365日であることがわかっていたそうですが、暦は月のものを使っていたそうです。
そこで、「閏月(うるうづき)」を入れ、1年を13ヶ月としたそうです。
また、道州制の導入、量刑の制定、男女の役割制度の確立(男性は外で働き、女性は家事を行う)などを取り決めました。

また、この時代に「ミクサタカラ」、いわゆる「三種の神器」が揃います。

ツキヨミ・ソサノヲの誕生

イサナギ・イサナミは、アマテルカミをお産みになった後も諸国を巡幸され、宮崎県宮崎市阿波岐原町あたりでツキヨミをさらにソサの国(紀伊半島南端部)の熊野市産田神社辺りでソサノヲをお産みになります。

ソサノヲは、記紀に見られる通り、幼少の頃から暴れん坊だったそうです。
此処から先は、話が長くなるので、今日はここまでです。

イサナギ・イサナミの子

ワカヒメの誕生

ワカヒメは、イサナギ・イサナミの長女として、筑波山でお生まれになります。
生まれた時の名は「ヒルコヒメ」といい、太陽が一番高い時に生まれたことから名付けられました。

しかし、ヒルコヒメは、両親が「アメノフシ(天の節)」という、当時の厄年の時に生まれた子だったので、捨て子にされてしまいます(この時代から厄年があったことは驚きですが)
この時代、厄年に生まれた子は、他人の手で育ててもらう風習があったそうです。

また、アメノフシに生まれた子は、父の体の病と、母の心の病を受け継ぎやすいと考えられていました。

その育ての親が、イサナギ・イサナミの重臣であるカナサキでした。

カナサキは、彼女を育てるため、兵庫県西宮にある廣田神社と西宮神社辺りの地を用意しました。
ちなみに、廣田神社の「廣田」の語源は「拾った」、すなわち、捨てられたヒルコヒメを拾ったというところから付けられているとか。

儀式

ヒルコヒメが1歳の時には、食べ始めの儀式、3歳からは、元旦に初日の出を拝み、3月3日にはひな祭りを行い、5月5日にはあやめとちまきで乗馬のお祭りをし、7月7日には星祭り、9月9日には菊の花と栗で天地に感謝する歌を詠んだそうです。

五節句は中国が起源で、仏教の伝来とともに日本に入って来たとされていますが、それよりずっと以前から日本で行われていたことを、ホツマツタヱには記載されています。

イナゴ退治

やがてヒルコヒメは成人し、アマテルカミが築いた伊雑宮(三重県志摩市)にお住まいになります。

しかし、キシヰ(和歌山)から、稲がイナゴの被害で全滅しそうだという知らせを受けます。
そこで、ホノコ(セオリツヒメ・アマテルカミのお后)とお供30人と共に和歌山に赴き、全員で虫よけの歌を西に向かって360回繰り返しながら大きな声で歌うと、イナゴは西に向かって飛び始め、そのすべてが海中に沈んだそうです。

日前宮と國懸神宮、玉津島神社

玉津島神社

稲の全滅を防いでくれたお礼として、人々はホノコに宮を献上することにしました。
その名をアヒノマエミヤをいい、現在の日前宮だそうです。
それ以前にあった宮は、アヒノミヤといい、後にクニカケミヤと改名し、現在の國懸神宮となりました。

また、人々はワカヒメにもタマツミヤという宮を献上しました。
これが現在の玉津島神社です。

ワカヒメの本領発揮?

ワカヒメは、育ての親であるカナサキが歌に秀でていたことから、和歌が大変得意でした。
ワカヒメがタマツミヤに滞在している時、伊雑宮から使い・アチヒコ(オモイカネ)が来ました。
ワカヒメは、アチヒコに一目惚れをして歌を贈ります。

キシヰコゾ ツマオミキワニ コトノネノ
トコニワキミオ マツゾコヰシキ

これは「マワリ歌」といって、上から読んでも下から読んでも同じ文字の並びになっています。
これを受け取ったアチヒコはカナサキに相談します。
すると、カナサキから「マワリ歌はアメツチ(天地)にもその効力が及ぶ。私が見る限り、娘(ワカヒメ)の歌は完全無欠に見える。とてもこの歌には断りの思いを返すことはできない」と言われます。

こうしてアチヒコとワカヒメは結ばれることとなりました。

だれか意中の人がいれば、マワリ歌を作って贈ってみてはどうでしょうか?(笑)

アマテルカミの誕生

五十鈴川

記紀では、天照大神は、黄泉の国から帰ってきたイザナギの左目を洗って出来たとされています。
しかし、ホツマツタヱによれば、イサナミは亡くなっておらず、イサナギとともに第三子をもうける儀式をした末にお生まれになっています。

その儀式とは、お二人とも富士山の山麓の池で、イサナギは左目を洗い太陽に祈り、イサナミは右目を洗い月に祈るというものだったそうです。
この儀式を1000日間、毎日欠かさず繰り返した末に、イサナミはアマテルカミを身ごもります。

さらに、東北では、トヨケカミが世継ぎの社を建てて、二人の子の誕生を、8000回も祈りました。

その甲斐あって、めでたくアマテルカミがお生まれになります。

あくまでも、古事記は神話であり、もちろんすべてが事実だとは思っていませんが、天照大神が生まれた経緯には大きな疑問がありました。
しかし、ホツマツタヱでは、この疑問がスッキリします。
天照大神は、こうした儀式を通した祈りによって生まれたのです。

千木について考える

千木

千木(ちぎ)とは、神社でよく見られる屋根の上にある✕型のものです。
現在見られるほとんどの千木は、昔の住居の建築様式が形式化したものであり、元来は屋根を補強する役割がありました。
伊勢の神宮で見られる千木は、✕の下の部分が屋根の中を貫通しています。

ちなみに、1枚目の写真のように、✕の下の部分が屋根の中を貫通していない千木を「置千木(おきちぎ)」といいます。

明治時代までは千木のない社殿もあったそうですが、明治以降にお寺と区別をするため「これは神社ですよ」という意味で屋根に設置するようになったと、ある宮司さんから聞いたことがあります。

内削ぎと外削ぎ

内削ぎとは、千木の先端を水平に切ったもので、外削ぎは垂直に切ったのもです。

内削ぎ
外削ぎ

一般的に、「内削ぎは女神を表し、外削ぎは男神を表す」とされていますが、必ずしもそうとは限りません。

大体の神社はこの考え方で当てはまりますが、世の中には必ず「例外」というものがあります。

本宮大社のスサノオノミコトが祀られている証誠殿(しょうじょうでん)の千木は、男神にも関わらず水平です。
また、速玉大神と夫須美大神が祀られている相殿(中御前と西御前)は、垂直です。

「女神が水平、男神が垂直」という解釈であれば、証誠殿は垂直、中御前と西御前の相殿は、一つが垂直でもう一つが水平ということになります。

色々とその謂われについて聞いたことがありますが、どうも釈然としません。

ホツマツタヱ中の千木の意味

ホツマツタヱには、このような記述があるそうです。

外削ぎは外を軽くし、内(即ち家臣として朝廷)を重視する心(精神)を表し、内削ぎは、内側(即ち朝廷の方)を削っても、国民に恵を与えようとする心(精神)を表している。

どこにも「男神女神」という言葉は見当たりません。
そんなことよりももっと重要な、建国以来の「トの教え」の精神が込められていたようです。
この教えは、代々ずっと引き継がれ、記紀のなかでは、初代クニトコタチからずっと後の仁徳天皇のお話が有名ですよね。

伊勢の神宮の千木の精神

外削ぎの精神は、縦横で言えば「縦」、柔硬で言えば「硬」、父母で言えば「父」を表し、物事の筋を通して白黒はっきりつけて治めていくことも意味しているそうです。

内削ぎは反対に「横、柔、母」を表しているそうです。
柔だけではわがまま放題になってしまうし、硬だけでは人々の気が病んでしまうので、柔硬両方の働きかけが必要だということを外宮と内宮の千木は表しているそうです。

・・・個人的に、どうも後付けの理屈に聞こえます。

伊勢の神宮(以下「神宮」)は、ご正宮、別宮、摂社、末社、所管社125社からなる神社の総称です。

神宮では、「内宮に所属しているお社は内削ぎ、外宮に所属しているお社は外削ぎ」と決まっているだけで、「内削ぎは女性、外削ぎは男性」という決まりはありません。

例えばツキヨミノミコトを祀っているお社は内宮・外宮両方にありますが、内宮所属の「月読宮」は内削ぎ、外宮所属の「月夜見宮」は外削ぎです。

先ほどの「明治以降に千木を設置し始めた」という話に戻ります。
「アマテラス様は女性で神宮の千木は内削ぎだから」という理由で、各地の神社が「真似」をし始めたから、日本全国に「内削ぎは女性」という神社が多くなったという話をある宮司さんから聞いたことがあります。

鰹木(かつおぎ)の話

ちなみに、屋根に乗っている丸太ですが(鰹木といいます)あれは元々屋根の重しです。
「偶数が女性で奇数が男性」という決まりはありません。
もちろんその意味で明治以降に設置している神社もあると思いますが、神宮では「内宮所属のお社は偶数、外宮所属のお社は奇数」という決まりがあるだけです。

アマテルカミとトヨケカミ②

ちなみに、ホツマツタヱでは、アマテルカミ(天照大神)も、トヨケカミ(豊受大神)も男性として描かれています。

以前の記事にも書きましたが、トヨケカミはアマテルカミの師であり、祖父でもありました。

なので、ホツマツタヱが正しいとするならば、そもそも「内削ぎが女性で外削ぎが男性」という理屈は破綻しています。

外宮が勧請されたのは、「自分ひとりでは、食事が安らかにできないので、丹波国の御饌(みけつ)の神、トユケオオカミを呼んで欲しい」と、天照大神からのお告げがあったということになっています。

これは自分の勝手な想像ですが、アマテルカミが伊勢の地に遷座したあと、師を招いてこの世の行く末について師匠と相談をしながら、この世の平和を実現したかったのではないか?と思っています。

「食事が安らかにできない」という言葉を額面通り受け取ると豊受大神は「食事を司る神」となってしまいますが、そうではなく、世の平和を願って師を招かれたのではないでしょうか?

世の中が平和であれば、安らかに食事ができますもんね。

アマカミと熊野の御祭神

ここまでのお話で、アマカミについてまとめておきたいと思います。

アマカミ

「アマカミ」とは、国の指導者であり、今の天皇にあたる方々です。
後に「スヘラギ」という呼び名に変わります。

「アマカミ」と呼ばれていた時代を「カミヨ」と言い、「スヘラギ」と呼ばれていた時代を「ヒトヨ」と言います。

初代アマカミは、クニトコタチ、七代目にイサナギ・イサナミ、八代目にアマテルがいらっしゃいます。

ちなみに、歴代アマカミは

初代 クニトコタチ
二代 クニサツチ
三代 トヨクンヌ
四代 ウビチニ・スビチニ
五代 オオトノチ・オオトマヘ
六代 オモタル・カシコネ
七代 イサナギ・イサナミ
八代 アマテル
九代 オシホミミ
十代 ホノアカリ(兄)・ニニキネ(弟)
十一代 ホホテミ
十二代 ウガヤフキアハワセズ

となります。

熊野三山の御祭神

大斎原

これを見た時に、二代クニサツチ、三代トヨクンヌ、四代ウビチニ、五代オオトノジ、六代オモタルは、速玉大社、那智大社の下四社に祀られている御祭神と同じだということに気づきました。
速玉大社・那智大社には、初代から十二代までの歴代天皇(アマカミ)が祀られていることになります。

「ん?クニトコタチは?」という声が聞こえてきそうですが、証誠殿に家津御子神とともに祀られています。
ちなみに、九代から十二代までは中四社に祀られています。

一方本宮は?というと、中四社までの御祭神は他の二社と同じです。
しかし、下四社の御祭神は

カグツチノミコト(火の神様)
ハニヤマヒメノミコト(土の神様)
ミヅハメノミコト(水の神様)
ワクムスビノミコト(農耕の神様)

の四柱です。

よく、「熊野三山は、十二柱同じ神様が祀られています」という説明を聞きますが、本宮だけは明らかに違います。
これがなぜなのかは、わたしも分かりません。
いずれ宮司さんに聞いてみようかと思っています。

スヘラギ

初代アマカミから数えて十三代目からは呼び名が変わり、「スヘラギ」となります。

初代 タケヒト 神武
二代 カヌカワミミ 綏靖
三代 タマテミ 安寧
四代 スキトモ 懿徳
五代 カエシネ 孝昭

と続き、やはりヲシロワケ(景行天皇)まで十二代続きます。

古代史ホツマツタヱの旅⑤ 神武東征とヤタガラス

神武東征②

橿原神宮

ヒフカ(日向)を発ったカンヤマトイハワレヒコ一行は、大分の宇佐を通り、吉備の国で3年間、戦の準備をします。
その後、再び船団を組んで難波にやってきました。
難波に上陸してから生駒山を越え、ナガスネヒコのいるアスカの宮に向かう予定でした。

しかし、ナガスネヒコの軍は強く、その戦で兄のイツセミコは重傷を負ってしまい、カンヤマトイハワレヒコの軍勢は紀伊水道を南下し、熊野からアスカに向かうことになりました。

途中、大阪のチヌというところで、イツセミコは亡くなります。
また、悪天候の海路の中、実の兄イナヰ、義兄のミケイリを失いますが、ようやく熊野に上陸することができました。
しかし、熊野の山は険しく、一行は道に迷ってしまいます。
そこに現れたのがヤタカラスでした。
その案内のおかげで、宇陀に着きました。

結局、ナガスネヒコは、君主のニギハヤヒに討たれることになります。

八咫烏の話

八咫烏(ヤタガラス・ホツマツタヱでは「ヤタカラス」)の由来について、先輩からは、「咫(あた)」は昔の長さの単位の一つであり、「1咫」が自分の手のひらの中指から親指までの長さ(約20cm)で、羽を広げた大きさが8咫(やあた・約160cm)あるカラスであったと聞きました。

この地方のカラスは、ハシブトガラス、ハシボソガラス、せいぜいミヤマガラスですので、その羽を広げた大きさは約100cmです。

古代史ホツマツタヱの旅 第1巻」では、八咫の鏡の大きさが240cmと書かれているので、1咫あたり10cmの誤差があります。

いずれにしても、現実的にそんな大きな、それも3本足のカラスが実在するわけがありません。

神武天皇の実在性については「ある」とか「ない」という議論が展開されていますが(ナンセンスな話ですが)、八咫烏の実在性については議論されたという話を聞いたことがありません。
天皇とは違ってカラスの話なので、別にいたとかいなかったとかいう議論をすること自体がバカバカしいという感じなのでしょうか。
あるいは、「神話だから」で片付けて終わりなのでしょうか。

八咫烏は実在の人物?

一般に「八咫烏」と呼ばれていますが、建角身命(タケツヌミノミコト)という、れっきとしたお名前があります。
また、速玉大社と那智大社には、建角身命を祀ったお社があります(本宮大社にも1889年の洪水以前はあったようです)

那智の扇祭り(火祭り)で12本の大松明を持つことが出来るのは、八咫烏の子孫である市野々地区の住民とされていました(現在は地区の人口減少で、その担い手が不足してきたため、市野々地区を含む那智勝浦町全体で担っています)

・・・「八咫烏の子孫」です。
カラスが人間の子を産むわけがありません。

玉置神社の駐車場で、うどん屋を経営している十津川村生まれ、十津川村育ちのおじいさんから聞いた話では、おじいさんが小学生の頃、学校で「うち(十津川村)の住民が神武天皇を案内したと習った」という話を聞きました。

その住民とは猟師のことであり、猟師は杖を常に持っていたそうです。
また、毛皮をまとっていました。

「カラス」となった理由については、毛皮をまとい、隊の先頭を飛ぶように速く、険しい山を案内しているその後姿を見た時に、あたかも三本足(両足+杖)のカラスのように見えたからではないか?
という話も聞きました。

「こんな山の中、土地勘のない人間が行けるわけがない」ともおっしゃっていました。
しかし、山のことを熟知している猟師であれば、この問題は氷解します。

つまるところ、多少の脚色があったにせよ、地元の住民が案内したということになります。

今は流石に小学校でそんなことを教えていないでしょうが、おじいさんの世代の十津川村の住民は、それを代々学校で習っていたようです。

十津川村の玉置神社に、八咫烏の話が伝わっているようなので、一度お話を聞きに行こうかと思っています。

あなたは、160cm~240cmの三本足の巨大なカラスが人間の道案内をしたという話と、地元住民が道案内をしたという話、どちらが説得力があると思いますか?

橿原遷都

「カンヤマトイハワレヒコは、ナガスネヒコの乱を無事おさめ、アマノタネコ(アマノコヤネの子孫)と、オオモノヌシ・クシミカタマに、都を遷すので候補地を探すようお命じになりました。橿原がいいとのことです。イハワレヒコも同じ思いであったので、アメトミに宮を作らせました」と、ホツマツタヱには書かれているそうです。

オオモノヌシも役職名

ここで登場する「オオモノヌシ」は、前の記事で記述した「タカミムスビ」と同じく、役職の名前だそうです。
大神神社の御祭神は、「大物主命(おおものぬしのみこと)」とされていますが、本当は「クシヒコ」が正しいそうです。
他にも、祭神としてよく聞く「コトシロヌシ」も役職名です。

ですので、会社でいうところの「部長」とか「課長」にあたるわけであり、「弊社の部長は和田です」という代わりに、「弊社の部長は部長です」といっているようなものですよね。

古代史ホツマツタヱの旅④ 神武東征の所以 

アマテルカミとトヨケカミ

伊勢の神宮に祀られているアマテルカミ(天照大神)とトヨケカミ(豊受大神)の関係ですが、一般にトヨケカミはアマテルカミの衣食住を司る神とされています。
しかし、ホツマツタヱでは、トヨケカミはアマテルカミの師であり、祖父でもあられた方と記載されています。

そして、アマテルカミの子孫からは天皇が生まれ、トヨケカミの子孫からは、天皇をお守りする人々が輩出されます。

藤原氏、大伴氏、物部氏、ヤタカラス(オオチ)などがその方々です。

トヨケカミの子孫(ひ孫)にはフツヌシ、その弟にタケミカツチがいますが、彼らはアマテルカミの家臣であり、ハタレの乱において、アマテルカミとともにこの乱を鎮圧しています。
この功績が讃えられ、フツヌシはアマテルカミから「カトリ」という名を賜り、それが香取神宮の始まりとなっています。

「タカミムスビ」は役職名

アマテルカミの師、トヨケカミですが、タカミムスビとも言われていました。
古事記では「高御産巣日尊」、日本書紀では「高皇産霊尊」とされている神様です。
しかし、ホツマツタヱでは「タカミムスビ」とは役職名であり、トヨケカミはその5代目にあたると書かれています。

タカミムスビは7代続き、その後は「ヒタカミノカミ」と名前が変わり、14代続きました。

このように、功績のあった人には「讃名(たたえな)」が贈られていましたので、同じ人物でもいくつも呼び名があったわけです。

熊野古道にまつわる有名な話では、野長瀬一族が護良親王をお助けしたことから、「横矢」という名前を賜ったというものがありますので、こういったことはよくあった話だったのでしょう。

神武東征の所以

ホツマツタヱに記載されている神武東征の所以は、記紀と内容が異なります。

そもそも、なぜ、神武天皇は日向から橿原に向かったのでしょうか?

現代語古事記・竹田恒泰 著 には、

「一体どこに住めば、平和に天下を治めることが出来るのでしょうか。東に行ってみませんか?」

と、神武天皇が申し上げたと書かれています。

日本書紀には

「天孫が降臨されてから百七十九万二千四百七十余年となる。しかし、遠いところの国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土の翁に聞くと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業を広め天下を治めるに良いであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降って来た者は饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都を作るに限る」

と神武天皇が言うと、諸皇子たちも

「『そのとおりです。私たちもそう思うところです。速やかに実行しましょう』と申された」

と書かれています。

ホツマツタヱではどうでしょうか?

ニニキネの時代には、国の指導者であるアマカミが二人いました。
ホノアカリとニニキネです。
二人は兄弟でホノアカリが兄でした。

ホノアカリはアスカの宮(奈良県明日香村)に居を構えていました。
ホノアカリは世継ぎとなる子に恵まれなかったため、ニギハヤヒを養子として迎えていました。
このニギハヤヒに仕えていたのが、ナガスネヒコです。
ナガスネヒコは、ホノアカリのこともあったので、ニギハヤヒに世継ぎの子が生まれることを心から願っていました。
しかし、一向に子を授かる様子がないことから、ナガスネヒコは「ヨツギフミ」を移し盗むという事件を起こしてしまいます。

「ヨツギフミ」とアマカミにしか与えられない重要なフミでした。
カンヤマトイハワレヒコは、次のアマカミになることが決まっていたのです。

この事件を知ったカンヤマトイハワレヒコが、ヒフカ(宮崎県日向)から兵を挙げました。

・・・どうでしょうか?
「天下を治める」という目的は同じですが、中身がまったく違います。

どれが説得力があるかはみなさんの判断にお任せしますが、ホツマツタヱには、こうした人間臭い話がたくさん残されています。
このことは、記紀に登場する神様は、ホツマツタヱではすべて実在した人物として描かれているからだと思います。
いや、むしろ反対で、ホツマツタヱでは、実在していた人物が、記紀では神格化されたということでしょう。

ちなみに、現代語古事記は、初めて古事記を読むなら一番分かりやすく書かれているので、まだ読んだことがない方にはお勧めの一冊です。