ヤタの鏡③

ヤタの意味ですが、はじめてのホツマツタヱ 地の巻によると、寸法を表しているのではなく、八民(やたみ・万民)の心がその器の中に入るという意味だと書かれています。
詳しく見ていきましょう。

時代は遡り、クニトコタチ(初代アマカミ)の時代には、ヲシテ文字の「ム」から「ムロヤ(室屋)」を発明され、屋根を「ヤ」の形にすることによって「ヤシロ」が出来ました。
また、同様に作った民間の建造物は「ヤカタ」と呼ばれました。

「タ」のヲシテ文字は三方から光が集まる形をしていて、天上の神が人を養い充足を与え、助けることを意味しています。
人間界でいうところの父親の存在です。

「タ」のヲシテを逆さまにすると「ラ」のヲシテになり、これは「ハニ(土)」がもたらしてくれる豊穣であり、人間界でいうところの母を表しています。

ここから、「タラ」とは両親のことをいいます。

「タラチネ」という言葉は、親が子を孕むと乳が出るという言葉と一般に理解されていますが、言葉は同じでも父が乳を出して養うわけではありません。
君主は人民に幸福をもたらすように、父の役割は教えを垂れ、子を導くことなのです。

鏡は「依代(よりしろ)」といって、神に降りていただくための物(道具)です。
その依代を介して神からのお告げを聞き、それを民に知らせていたのだと思います。
父が子を教え導くように、政を行う者にとっては、「子」とはすべての民のであり、その民を教え導くことがお役目です。
従って、ヤタは「ヲヲヤケ(公)」という意味を持つそうです。

まとめると、「ヤ」は「ヤシロ」のヤで、「タ」は、民を教え導く父親的存在を表す、すなわち、「民を教え導くヤシロ(社)、あるいは依代」ということになります。

「キミの敷く政は太陽の光のように、八民をあまねく照らすものでありたいという願望から、『ヤタの鏡』と名付けた」とアマテルカミはおっしゃったそうです。

ヤタの鏡の「ヤタ」の意味は分かりました。
では、八咫烏の「ヤタ」はどうなるのでしょうか?
明日はそれについて検証したいと思います。

ヤタの鏡②

今回は、ヤタの鏡の続きです。
私は書籍やネットを介して学んだことをアウトプットしているだけなので、ホツマツタヱについて詳しく知っているわけではないということをお断りしておきます。

長さの単位の制定

マバカリ

まず、八十万人の男性の身長を測り、その平均値を求めました。
それを「ひとま(一間)」としました。
そして、その長さに作った物差しである「マバカリ」を作ります。
そのマバカリを8等分した単位を「タ(咫)」としました。

研究する先生によって「一咫」の長さの解釈が違います。
はじめてのホツマツタヱ 地の巻では約20cm、古代史ホツマツタヱの旅 第1巻では約30cmとなっていますが、ここでは、はじめてのホツマツタヱ 地の巻の解釈(約20cm)でお話を進めて行きます。

タカバカリ

当時の人の平均身長は約160cmで、それを8等分すると一咫が約20cmとなります。
ですので、八咫=約160cmということです。
この八咫に、「日」と「月」をそれぞれ「一咫」として八咫に加えると十咫となります。
マバカリに二咫を加えて作った物差しを「タカバカリ」と言います。
そして、咫の10分の1を「キ(寸)」としました。

マガリサシ

宇宙は「空風火水土」の五元素から出来ていて、人はそのうちの「空」を除く四元素・「風火水地」からなっています。
これを、マバカリ(八咫)に当てると、それぞれ二咫になります。
そして、マバカリの先端に直角に「空」の二咫を付けたものを「マガリサシ」と呼びます。
ですので、マガリサシの形は今で言う曲尺(かねじゃく)のような感じです。
この時代からこんなものがあったとは驚きです。

さて、そのマガリサシを、曲がった部分を上にして縦にし(上記リンク先のような格好)、それを回転させると、「空(宇宙・天)」が人を包み込むようにした円筒形になります。
これが、「天が定めた人の巡り」=「天の巡りのマガリサシ」ということだそうです。

このくだりは複雑なので、よく読まないと理解できません。

ここまで読むと、「ヤタの鏡」とは直径約160cmの鏡なのか?といえば、そうでもないようなのです。
このお話は非常に深いので、少しずつ噛み砕いていきたいと思います。

続きはまた明日です。


ヤタの鏡①

ホツマツタヱでは、歴史の話だけではなく、生活に関することや指導者としてどうあるべきかという類の話題など、多岐に渡ります。

一つ例を挙げると、生命が胎内に宿ってからどうやって男女に分かれていくのか、子供を身ごもる前のお母さんの呼吸数と、身ごもったあとの呼吸数はどう変化していくのか・・・ということが書かれています。

詳しくは後でご紹介する書籍を実際に読んでいただくとして、このブログでは、主に和歌山に関する話題を取り上げていきたいと思います。
・・・たまに趣旨からそれるかもしれませんが。

カガミの由来

ホツマツタヱは「神代文字」と呼ばれている「ヲシテ文字」で書かれています。
ヲシテ文字は48字あり、今の五十音と同じ文字数です。
ヲシテ文字とひらがなの決定的な違いは、ひらがなは表音文字なのに対し、ヲシテ文字は表意文字と表音文字を兼ね備えているということです。

ですので、一音一音に意味があります。

さて、カガミという単語ですが、「カ」と「ガ」と「ミ」それぞれに意味があります。
「カ」というのは昼間であり、光の部分、「ガ」は逆に夜であり闇の部分、「ミ」は人の身という意味でもあり、「見」という意味があるそうです。

アマテルカミがハタレの乱のあと、民それぞれが自分自身を顧みて反省を促すために八咫鏡を加え、三種の神器としました。

ハタレの乱については、こちらこちらを参照してください。

己の「光と闇」を、鏡を通して映し出し、その姿を「見」て、道を外した行動や考えをしていたなら「闇」を取り除き軌道修正をすることが大切だということを、アマテルカミは説いたのだと思います。
そして、これは古代史ホツマツタヱの旅 第1巻著者・いときょう先生がおっしゃっていた言葉ですが、鏡を置く理由は、鏡に神を招いて、鏡を見て自分の心を直すことにあり、「カガミ」の闇の部分である「ガ」を取り除くと「カミ」となり、それが人間本来の有様だということを説いたそうです。

ここでいう「カミ」とは指導者とのことで、昔は指導者を「カミ(またはキミ)」、指導者に従って行政を行う人を「トミ(またはオミ・臣)」、民衆を「タミ」として、それぞれの役割をまっとうして国が成り立っていたそうです。

なので、「君が代」とは「キミ」が治める「代(世)」ということになります。
この「キミ」とは、「アマカミ」のことなので、今の天皇陛下ということになります。
君が代については、また機会があればお話をしたいと思います。

先程の子供ができる仕組みが書かれている本はこちらです(画像クリックでリンク先に飛びます)

ワカヒメ・タカヒメ・オクラヒメ

ワカヒメ・タカヒメ・オクラヒメについてのお話です。

ワカヒメがお亡くなりになる時、タカヒメには琴(6弦・5弦・3弦)を、オクラヒメには和歌の奥義書を授けます。

タカヒメとはオホナムチの娘です。
オホナムチがワカヒメの元にイナゴを祓う呪い(まじない)を習い、その効果を目の当たりにしたオホナムチは感謝をし、娘のタカヒメをワカヒメの元に仕えさせます。
ワカヒメがお亡くなりになる時に琴と共に「タカテルヒメ」の称号を授けます。

オクラヒメは、カナヤマヒコの孫です。
カナヤマヒコとは、美濃の国の守(カミ)で、中山道を開いた方です。
ちなみに、私の産土(うぶすな)さんはカナヤマヒコ様です。

オクラヒメは、タカヒメと同じくワカヒメの元に仕えていましたが、ワカヒメがお亡くなりになる時に、「クモクシフミ」という和歌の奥義書と、ワカヒメの称号であった「シタテルヒメ」の称号を賜ります。
なので、「オクラヒメ」は「二代目シタテルヒメ」です。
また、「トシノリカミ(歳徳神)」として、玉津島神社に合祀されました。

玉津島神社の由緒には、オクラヒメ、トシノリカミという記述は見えません。
同じ「シタテルヒメ」という称号だったのでワカヒメと同一視されたのかもしれません。
また、由緒では(一般にも)主祭神の稚日女命(わかひるめのみこと)は、天照大神の妹とされていますが、ホツマツタヱではアマテルカミの姉であり、イサナギ・イサナミの第一子です。

以前の記事にも書きましたが、ワカヒメ(ヒルコ)は両親が厄年の時に生まれたので、カナサキの元に預けられます。
その後、晴れて家族の元(ソサの国)に戻って来ますが、この時にアマテルカミの妹として過ごします。
このことが元になって「天照大神の妹」とされたのでしょう。

こうやって読んでいくと、以前はあまり個人的に関心がなかった玉津島神社にも親近感というか、興味が湧いてきましすし、和歌山が頻繁に話の舞台として登場することは、和歌山県民として非常に誇りに思います。

スクナヒコナとアワシマさん

スクナヒコナ(少彦名命)は、和歌山では「淡嶋さん」として知られている、加太・淡嶋神社の御祭神です。
ホツマツタヱにもスクナヒコナに関する記述があります。

スクナヒコナは、トヨケカミ(アマテルカミの師)のお孫さんです。

スクナヒコナの登場シーンは、記紀にも描かれています。
はじめてのホツマツタヱ 天の巻には、このように書かれています。

オオナムチが淡海(おうみ)のササ崎にいると、舳先に鏡を掲げた船に乗った人物が漕ぎ寄せて来ました。
鏡の船はアマカミ一族の象徴であることから、オホナムチは湖岸から名を聞きましたが、その人物は答えずに黙々と船を漕ぎ続けています。
オオナムチの近習で、諸邦との連絡役にあるクヱヒコが、その人物を見知っていました。

「あの方は、子だくさんで知られたカンミムスビの御子の中でも、安穏な貴族教育を嫌って早くから親元を離れ、諸邦を遍歴しながら研鑽を積み、今や万般に通じた高邁な人物として、評判の高いスクナビコ様に違いありません」

スクナヒコナは、オホナムチに積極的に協力するようになり、様々な問題を共に解決していきます。
また、滞在中にカダガキ打ちの琴歌を習い、この地(アワシマ)の人々が知らないひな祭りを教えました。

その後、スクナヒコナはこの地を離れ、加太の浦に至って生涯を終え、淡嶋神社の御祭神として祀られました。
スクナヒコナの別名は、アワシマカミと言います。

淡嶋神社の縁起には

その昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。
沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、お告げがありました。
「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」
その通りに船を進めると、ひとつの島にたどり着く事が出来ました。
その島が、友ヶ島です。その島には、少彦名命と大己貴命が祭られていて、
皇后さまは助けてくれたお礼の気持ちを込めて、持ち帰ってきた宝物をお供えになりました。
 その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたられる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られ、
いきさつをお聞きになりました。そこで、島では何かとご不自由であろうと、お社を対岸の
加太に移され、ご社殿をお建てになったのが、加太淡嶋神社の起こりとされています。

と書かれています。

淡嶋神社の御祭神は、少彦名命と大己貴命(おおなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)です。

スクナヒコナとオホナムチは、こうして一緒に祀られることが多いようです。
このことは、記紀からも、ホツマツタヱからも読み取ることができますね。

国譲り②

国譲り第二弾です。

オホナムチが住む出雲に到着したフツヌシとタケミカツチは、剣を突き立てて

「身誇りて 斯く道を ならさんと 我ら仕ふぞ その心 ままや否やや」
※慢心して臣(トミ・政を行う階級の名)の身分を超え、国家を危うくする道を歩んでいる汝を平定して来いと、天(国政議会)が我らを遣わしたのだ。このまま反抗を続けるのか、それとも服従するのか答えよ。

と迫ります。

オホナムチはまったく身に覚えがなかったので驚きます。
そこで息子のコトシロヌシであるクシヒコ(コトシロヌシとは役職の名で、オオクニヌシの補佐のような役)に相談することにしました。

クシヒコは父の慢心行為を知り、父に諌言していましたが聞き入れられず、美保関で隠遁生活をしていました。
この時の諌言の顔が笑顔だったことから「ヱミス顔」と呼ばれ、後に「恵比寿さん」として信仰されるようになります。

父から遣いが来た時、クシヒコは釣りに興じていました。
そこで、父からの遣いに出雲を出る旨を伝えます。

しかし、そこに「待った」をかけたのが、オホナムチのもうひとりの息子・タケミナカタでした。
そこで、タケミカツチと力比べをしますが、タケミカツチの圧倒的な力に恐れをなし、信濃まで逃げ、諏訪湖のほとりで降参します(どこまで逃げとるんや・笑)

帰ってきた遣いから息子の言葉を聞いたオホナムチは、出雲を出る決意をします。
ようやくクシヒコの諌言が聞き入れられたのです。
出雲を出たオホナムチ一族(国司180人とも、180世帯とも)は、アソベ(津軽)に行き、開拓を任され、アソベの地も大いに発展します。
一方、息子のクシヒコは、七代目タカミムスビ(役職名)から、オオモノヌシの役職に任命され、ヨロギの地と宮(滋賀県高島市安曇川町)を賜りました。

記紀における二人の行方

古事記では、コトシロヌシは「『かしこまりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう』と言って、その船を踏んで傾け、天の逆手という特殊な柏手を打って船を青紫垣(あおふしがき)に変えて、その中に隠れました」と書かれています。

日本書紀では「『今回の天つ神の仰せ言に父上は抵抗されぬほうがよろしいでしょう。私も仰せに逆らうことはいたしません』と言って、波の上に幾重もの青紫垣を作り、船の側板を踏んで海中に退去してしまわれた」と書かれています。
また、父・大己貴神も、同じような台詞を言ったあと「隠れた」としか書かれておらず、その後どうなったかは書かれていません。

しかし、ホツマツタヱでは前述の通り、オホナムチは津軽に行き、出雲と同じように成功を収め「ツカルキミ」という称号を賜っています。

出雲は独立国家だった?

「出雲は独立国家」という考え方が、今は大勢を占めているようですが、ホツマツタヱの中では朝廷の中の一つの地方行政機関として描かれています。
いち地方行政が、まるで一つの国であるかのような振る舞いをしてたので、朝廷がこれを看過することができず平定に動いたというのが、ホツマツタヱで書かれている内容です。

そもそも、追放されたソサノヲが、熊野から琵琶湖経由で出雲に行き、そこで結ばれたイナダヒメとの間に子をもうけ、その子であるオホナムチが、ソサノヲが築いた出雲の発展を引き継いだのですから、ホツマツタヱではきちんと筋が通っています。

国譲り①

今回は、国譲りのお話です。

ハタレの乱を平定したあと、ソサノヲは出雲の国の発展に尽力し、見事にその功績を残します。
そのソサノヲの御子の一人、オホナムチが、初代オオモノヌシに任命されました。

オオモノヌシとは当時の役職名で、警察のような役割をしていたそうです。

オホナムチは3人の子を授かり、その長男・クシヒコが二代目オオモノヌシになります。

ソサノヲの血を引くオホナムチは、父の後を継いでさらに出雲を発展させます。
しかし、ここでオホナムチは慢心から朝廷をないがしろにする向きがありました。

アマテルカミがいらっしゃるイサワの宮よりも立派な宮を造り、朝廷と同じように玉垣を巡らせ、「自分の宮はイサワの宮や多賀の宮よりも立派だ」と自慢します。
こうした言動が朝廷の耳に入ります。

九代目アマカミ・オシホミミが検察官を現地によこし、現状を調べさせます。
その現状を聞いたオシホミミは家臣を集め、誰を遣わしてこの真意を正すか、意見を聞きます。
その結果、ホヒのミコト、ミクマノ、アメワカヒコを順に遣わしますが、3人ともオホナムチにおもねって帰ってきませんでした。
中でも、アメワカヒコは、様子を見に来た遣いに対して弓を射て、その使者を殺してしまいます(古事記では、使者は雉になっていますが)

そこで、ついにハタレの乱で活躍したフツヌシとタケミカツチを起用し、出雲の国を平定をすることを決断します。

ソサノヲとハタレの乱と高野山

ソサノヲとハタレの乱のお話です。

ヤマタノオロチを仕留めたソサノヲは、後に契を結んだイナダヒメとの間に男子をもうけます。
そこでワカヒメのところに行き、「私はめでたく男の子を授かりました。ですからこれで私の心は清らかだということがお分かりになったのではないでしょうか」と伝えましたが、ワカヒメはまだソサノヲの心が清らかではないことを見抜いていて、「まだあなたの心は清らかではない」と伝えます。

このあと、ソサノヲがオロチを斬り殺したことから、それを聞いた全国のオロチが蜂起し、建国以来最大規模の「ハタレの乱」を引き起こしたのです。

大規模な反乱が各地で起こり、その回数は計6回に及びます。

その中において、四国でハタレが集結し、キシヰ国(和歌山県)に攻め込んできました。
有能なアマテルカミの家臣の一人・タケミカツチは、タカノ(高野山)で手際よく捕虜を捉え(その数1900人)、その捕虜を将兵たちとともに縄で縛って連行する際に、誤って縄で捕虜の首を絞めて引き摺り殺してしまい(なんという怪力)、多くの捕虜が命を落としてしまいます。

勇猛・有能なタケミカツチでさえも、失敗をしてしまったのです。
アマテルカミからは、殺さずに懐柔せよと伝えられていたので、タケミカツチは大いに後悔します。

高野山

その後、ハタレの乱で命を落としたタカノ(高野山)には、化け物が出るとの報告があり、イフキドヌシが出向いて宮を建て、慰霊祭を行ったところ鎮まったそうです。
アマテルカミはイフキドヌシに「タカノ神」の称え名を賜りました。

弘法大師空海が寺院建立の地を高野山と決定したのも、どうやらこの話があったからのようです。
まあ、「三鈷杵を唐から投げた」でもかまいませんが(笑)

ハタレの乱鎮圧

さて、その頃ソサノヲはワカヒメに「清らかではない」と告げられてから、出雲で隠遁生活をします。
イフキドヌシが討伐軍を連れて出雲に訪れた時、ソサノヲは蓑笠剣を投げ捨てて涙をためてイフキドヌシに擦り寄ってきました。
よほど後悔していたのでしょう。

そして、これまでの過ちを悔い改めると誓い、討伐軍に協力することになります。

アマテルカミと有能な家臣の働きによって、ようやく大規模な反乱を鎮圧することに成功し、後にソサノヲはアマテルカミからも許しを得て、サホコ(出雲の国)を治めることになりました。

改心したソサノヲは、出雲の地の発展に尽力したことから、アマテルカミより「ヒカワカミ」の称号を与えられます。

・・・いやあ、この一連のソサノヲの話が、私にとっては衝撃でした。
記紀ではただの暴れん坊という印象ですが、ホツマツタヱでは人間臭さがあり、また、まさか不倫の話まで出るとは予想もしていませんでした。

余談ですが、私は年に2回伊勢にお参りをしますが、道中で偶然見つけた尾鷲神社にも必ずお参りをしています。
ここの御祭神が須佐之男様で、初めてお参りをした時、それまで無風だった境内に急に強風が吹き荒れるという不思議体験をしました。
須佐之男様の「手荒い歓迎」かなと思い、ますます親近感が湧きました。

キシヰ国

和歌山の古名をキシヰ国というそうです。
今はその面影はほとんどありません。
「貴志川」など、わずかに残っている程度です。
ちょっと「きしゅう」という発音にも似ていますね。

イサナミの死

今回は、イサナミの死についてです。

記紀では、火の神・カグツチノミコトをお産みになる際に火傷を負って亡くなっています。
ホツマツタヱではどうでしょうか?
はじめてのホツマツタヱ 天の巻によると、

ソサノヲが、育ってきた稲の上からまた種を撒いたおかげで、その年に収穫できるはずのお米が穫れなくなってしまいました。
熊野地方は、山が海岸線まで迫り、地形的に稲作ができる所が限られていたため、人々の生活は楽なものではありませんでした。

イサナミは、ソサノヲの所業をすべて自分の責任だと深く心に刻み、稲作の減収を償う決意をされます。

イサナミは、山焼きをして傾斜地には桑を植えて養蚕を興し、平地は水利を整えて水田や農地を増やす事業を進めます。

しかし、ここで不運が起きます。

山焼きをしていたイサナミに、風向きが変わった炎が襲いました。
火に囲まれ、逃げ場を失ったイサナミは、お亡くなりになりました。

イサナミの亡骸はアリマ(三重県熊野市有馬町花の窟神社)にお納めし、その後この地の人々は、毎年桑の花が咲く春と、稲穂が色づく秋に、イサナミを偲んでお祭りをしています。

・・・火傷を負ったということは記紀とホツマツタヱの共通事項ですが、ホツマツタヱでは現実的にイサナミの死について描かれています。

岩戸隠れ

話は少し戻ります。

はじめてのホツマツタヱ 天の巻には、このような内容で書かれています(役割分担のくだりは複雑なため、省略しています)

ソサノヲの暴挙に、とうとうアマテルカミは岩戸に閉じこもってしまいます。
太陽のように当たり前だった存在の人物が姿を隠したことは、まさに太陽が沈んだように感じられました。

この事態を知ったワカヒメの夫・オモイカネは、アマテルカミを岩戸からお出ましになるための祈りを行うことにしました。

そこで役割分担を決めました。場を清める者、会場を設定する者、歌う者、踊る者・・・こうして、歌と踊りでアマテルカミの気を引こうとします。
そして、集まった者全員が、その歌と踊りに酔いしれました。

その歌声は、岩室にいるアマテルカミにもかすかに聞こえてきました。
アマテルカミも次第に心が和んで「歌をもっと聞きたい、近くで踊りを見たい」と思い、少し隙間を作って岩を開けた瞬間に、タチカラヲが岩戸を開き、アマテルカミの手を取って外へとお連れしました。

ツワモノヌシが岩室の入り口にしめ縄を張り「もう岩室にはお戻りにならないでください」と申し上げました。

・・・随分と省略しましたが、「会場設定」のくだりや、アマテルカミの岩室の中での心境など、少し違いはあれど、この話は記紀と大筋で一致しています。